羽田空港のはじまり

花の大江戸、羽田空港。
「東京国際空港」が正式名称だ。でも「成田国際空港」は2004年まで「新東京国際空港」、「新」の違いがちょっとややこしいから、「羽田空港」が通称、わざわざ「東京国際空港」なんて言う人はいないよねっ!

JAL、スカイマーク、スターフライヤー(北九州)の第1ターミナル。ANA、エアドゥ、スカイネットアジア、スターフライヤー(関空)の第2ターミナル。それからソウル、上海、香港便の国際線ターミナル。
1つのターミナルが日本の地方空港以上に巨大に、マイナーな海外の国際空港ほどの大きさを持って、大田区から伸びる広大な敷地に張り巡らされた東京湾上のターミナルだ。
今でこそ国内線が主流の、端に追いやられてしまった船着き場のような国際線ターミナルだけど、成田空港が出来るまでは国際線、国内線の分け隔てなく、日本でいちばんの空港として、老若男女の心を鷲掴みにして、長い間、夢と希望を深く心に刻み付けて来た場所である。

ある人はまだ見たことのない異国の地に期待と興奮で胸を膨らませ飛び立ち、ある人はよそ様が羽田空港から海外へ旅経つ姿を横目で見ては「いつか私も海外へ」と胸に秘めながら送り出し、またある人は海外へ出かけることで自分が変わってしまうかもしれない不安を抱き、はたまたある人は見たことのない肌の色と顔立ちと言葉の外国人さんに興味津々で…、万歳三唱と、笑いと、涙でそれぞれの想いで華やかせ、活気づいていた。

いまもまだ1位の座をあきらめたわけではない。
なにせ、国内でも珍しい24時間運用が可能な空港、まだ貨物機くらいしか深夜に活躍してないけれど、都心からも近いし、滑走路の数も長さも設備満載。わが羽田空港は外からの期待も未知数である。ちょっとした自慢といえば、政府のお偉いさんや国賓や公賓、皇族といったVIPが必ずといっていいほど使うのが、この羽田空港だ。
それに、2010年には新しい4本目の滑走路と管制塔もできて、ターミナルも増設される。いよいよ第1ターミナルのレストランからも全貌が見えるようになってきた。オープンすれば、私たちがアッと驚いてた外国の人を、今度は迎え入れるようになって、すぐ向かいの都心にあるハイテクに文化に心意気に、「日本って凄い!」ともっともっといわせたい。

多分、成田空港も今頃嫉妬してることだろう。でも、それが時代の流れってもんだ。みんなその流れに身を委ねて、ひたすらじっと見守るしかない。開港したしたときから、ただそうやっていろんなものをずっーと見て来たのが、おいらってもんだ(以上、羽田空港国際線談)。

さて。
羽田空港のはじまりは、1931年(昭和6年)8月25日。大正時代からあった羽田運動場などの場所に、民間機のための初の国営飛行場として「羽田飛行場」として開港した。それまでは陸軍の施設として使用していた立川飛行場を、民間用に切り離したのだ。今でこそ全長2500m、3000m級の長さを持つ滑走路が3本(2010年には4本)もあるけれど、当時の滑走路は全長300m×幅15mの滑走路が1本。私たちの想像する「滑走路」とは全く違って、「飛行場」という名前ではあるけれども、そこはただの野原の真ん中に大きな格納庫がふたつあるだけのものだ。

羽田飛行場:昭和6年

出典元:博文館「大東京写真案内」

当時羽田飛行場から飛び立っていたのは、昭和3年に設立された日本航空輸送株式会社の飛行機。中島飛行機がフォッカーからライセンス生産をしているスーパーユニバーサルという6人乗り旅客機。定期便は、東京、大阪、福岡、京城(現ソウル)、大連だ。
一応は「羽田飛行場」は国際空港であったけれども、朝鮮の京城は日本の統治下、大連(中国)も関東州だったわけだから、開港後間もなくの間は国内空港みたいなもんだ。

この時の話が広瀬正さんの「マイナス・ゼロ」に登場しているので、少し抜粋します。
俊夫さんが昭和6年にタイムスリップする、というお話で飛行機で東京から大阪へ行くシーンです。

 東京ー大阪間の運賃は大枚三十円だった。
 俊夫の他にほかに、金三十円也を支払った人たちは、外国人の老夫婦、軍服の海軍中佐、それに華族らしい青年紳士だった。
 俊夫の横に坐った海軍中佐は話好きらしく、飛行中しきりに話しかけてきた。俊夫が飛行機に関心を持っていると知ると、さっそくそれを話題にした。まず、最近この日本空輸のスーパー・ユニバーサル機が大阪東京間を僅か一時間二十八分という、おそるべき新記録を達成したという話。そこまではよかったのだが、そのあと、中佐は転じて、飛行機事故の話に移った。去年の秋、神戸で、カフエーの広告飛行の飛行機が女学校に墜落して、搭乗員二名は即死、女学生三名が重傷を負った話。川西航空の水上機が級に発動機から火を吹き、乗員三名が落下傘で飛び降りたところ、そのうち一人は落下傘が開かず、土手の上に落ちて死んだ話。さらには、この二月、この日本空輸のドルニエ旅客機が大阪から福岡へ向かう途中、濃霧と吹雪のため八幡市外の山頂に墜落、登場者五名のうち四名即死、一名は翌日死亡…。
 機外は、少し霧が出はじめているようだった。それに温度も低い。飛行はもちろんぜんぶ有視界飛行である。俊夫はもう、ひたすら無事到着を神に祈るよりほかなかった。
 が、さいわい、神に願いが通じたのか、スーパー・ユニバーサル機は、予定時刻より少し遅れただけで、三時半ごろ、伊丹飛行場に到着した。

「マイナス・ゼロ」広瀬正

ちなみに、この大枚三十円。(総務省の統計によると)昭和初期のお米が10kgで2円、女中さんの月給が10円、大卒の初任給が70円、和服を反物から一式揃えて30円といいます。女中さんと大卒のお給料の格差があり過ぎるのと、当時の大卒者数を考えると、そもそも大卒者の初任給が高額と思われ、一概に比較はできませんが、とにかく結構な額というのは確かのようです。
事故についての記述がおおいのは、飛行機の安全性がまだまだ不安定だったようで、しばらくは、飛行機事故も多かったようです。
それから、上には出てきませんでしたが飛行機を使っていたのはもっぱら新聞社ですね。
スクープをとりにいっては、東京へ届ける。そうして飛行機が使われていました。
そんな時代に羽田空港は、羽田飛行場として産声をあげました。
ちなみに「飛行場」というのは広義の「航空機が離発着するところ」です。その飛行場の中でも「空港」は「お客さんを輸送する場所で設備が整っているところ」、となります。

大阪や福岡などの国内はもちろん、満州国や台北といった日本統治国以外にも、北東アジアへの窓口として機能していました。タイやインドシナへと国際線を運航するようになり、格納庫やターミナルも充実していきます。昭和12年のこの写真を見ると、設立当初は滑走路と格納庫2つだけだった羽田飛行場も、ターミナルビルがしっかりと経っている様子が分かりますね。

羽田飛行場:昭和12年

出典元:『世界畫報』昭和十二年二月號

今日はここまで。

そだ。ひとつ羽田空港のイベントのお知らせです。
テクノロジーを体感できる展覧会「空気の港」です。

デジタルパブリックアートといって、デジタル技術を駆使したアート、っていうかおもちゃ感覚で遊べるハイテク技術、って感じでしょうか。たとえば飛行機が出発するのと同じタイミングで、LED電飾の星座の中に飛行機が浮かび上がったりする「出発の星座」、人が通った時だけ時刻を示す針が現れる「自針と分針」なる作品などなど。
見て楽しめる作品が、空港のあちこちに現れます。

■期間 10月9日(金)〜11月3日(火)
■時間 10:00〜19:00
■場所 第1ターミナル/第2ターミナル
「空気の港」の詳細はこちら

宮島達男さんという、それこそデジタルパブリックアートの先駆者というべきアーティストがいるのですが、この方の大ファンでして…。いちばん好きなアーティストです。この手の楽しめる作品が好きなので楽しみにしています。美しさは期待してませんが…。
会期も結構ありますからぜひ足を運んでみてくださいね。

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    • Mattari
    • 2009年 9月25日 12:28am

    さすが竜子さん!
    3分前にギリギリセーフでアップロードするなんて
    まるで成田空港運用時間の22時前ギリギリに着陸する
    飛行機みたいですね・・。
    羽田と言えばひとつ宿題があったんですが
    以前竜子さんに言ってた日本初!?ガラス張りの建物が
    一番初めに作られた羽田空港のターミナルだと前のブログで
    書き込んだと思いますが、その写真を本で見つけたので
    良かったら、21ページ目を店頭で確認してみて下さい。
    タイトル:飛行機がよくわかる本・ヴィンテージ飛行機の世界
    監修:鈴木真二
    出版社:PHP研究所
    ISBN978-4-569-77273-8 C0065 ¥1400E

    • 竜子
    • 2009年 9月25日 1:02pm

    ■Mattariさん
    さすがというのは…。
    ここまで引っ張るのはダメですよね。これから早めのアップロードを。
    情報どうもありがとうございます。
    この本は新刊ですね。面白そうだ。店頭から消えないうちに見に行かなきゃ、ですね。

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