羽田空港の過去

羽田空港特集3回目の今日は、先日の羽田飛行場の開港から、続くお話を。

1931年(昭和6年)8月に産声をあげた民間のための国営空港。このは1931年あたりは李香蘭や「丘を〜 越えて〜行こうよ♪」でおなじみの藤山一郎の歌声がラジオから流れ、紙芝居の黄金バットが大活躍していた時代だ。
アメリカからは、リンドバーグ夫妻が夫妻が日本へやってきて大歓迎をうけたり、そのアメリカではエンパイア・ステートビルが落成したりもしている。
キャビンアテンダントはこのころ「エアガール」なんて呼ばれていた。

それからしばらくして1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争、それから1941年(昭和16年)にはいよいよ日本軍がマレー半島に上陸し、もうかたっぽでは真珠湾攻撃をして大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦した。はじめは民間交通のための羽田飛行場ではあったものの、この頃にはすでに軍用機ばかりが目立つようにはなっていたが、大東亜戦争の勃発を機に羽田飛行場の民間航空としての利用は停止することになり、軍用飛行場として使用されることとなる。それから1945年8月の第二次世界大戦終了まで多くの飛行機が飛び立ち、多くの命も旅立っていった。

終戦後はアメリカに接収され、ハネダ・アーミー・エアベースとしてアメリカ陸軍が使用することになる。そのときにアメリカ軍によって拡張工事もされた。日本はもちろん敗戦国、民間だろうとなんだろうと、日本国籍の航空機の運航は一切の禁止されるのも、このタイミングだ。
ちなみに、羽田空港で有名な穴守稲荷神社も、このときの拡張工事でお引っ越しをしている。現在の羽田空港のある場所は、むかしの羽田鈴木町・羽田穴守町・羽田江戸見町の3つを指して、羽田三町と呼ばれ、この羽田三町の戦前の様子が分かる町の縮尺模型が、大田区役所に飾られているので、興味がある方はぜひどーぞ(いまはなき羽田東急ホテルに展示されていたものです)!
終戦当時のアメリカ軍による丸の内周辺の接収の話と同様に、羽田飛行場の接収も48時間以内に明け渡すようにいわれ、民間人も家を追われたという。

1952年(昭和27年)7月にアメリカ軍から返還され、日本空港ビルデング株式会社を設立し「東京国際空港」に改名する。これが、今の羽田空港の基礎になっている。

余談だけど、この昭和27年にこんな事件が起きている。
1952年4月の「もく星号墜落事故」。
第二次世界大戦後の初の民間航空機として1951年に就航した日本航空のマーチン2-0-2型機だ。

ときの政界人や財界人それから女性ひとりの、乗客37名(搭乗者は33名)と郵便物117キロ、貨物9キロと手荷物9キロ。は、羽田空港から目的地の福岡(伊丹経由)に向かう際に墜落してしまうのだ。これにはいろんな説があって、たとえば乗客ただ一人の女性。彼女は銀座で宝石デザインを手がけ、GHQの高官とも親密だったという。それいいことに、時価1億円のダイヤを密輸するための陰謀だとか、財界人同士の争い上での陰謀説などなど。
ちなみに松本清張さんは「日本の黒い霧」で、この事件を、当時集めた数少ない資料を元に検証しているので、興味がある方は是非。原因は分かっていないようです。
以前武田一男さんより寄稿いただいた原稿に、このもく星号に搭乗しようとしていた武田さんのお母さまの話が紹介されています。

▼華やかな時代のもく星号
もく星号
出典:朝日新聞社「アルバム戦後15年史」より

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    • Mattari
    • 2009年 10月8日 8:14pm

    松本清張の日本の黒い霧か・・。こりゃ一度読まなきゃ。
    明日図書館へ行くから探しておくとしよう。。
    気をつけて行ってらっしゃい!

    • 竜子
    • 2009年 10月10日 3:35pm

    ■Mattariさん
    わたしのは父の代のとても古いもので、カバーをかけないと手が汚れるほどの代物でした。文庫で上下刊があった気もします…。調べてませんが。
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