航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」第5回

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」

航空整備マンの功績

 567便が奄美大島に向かっている間、YS-11の運航を影で支える航空メカニックの人達の影の努力を紹介しょう。この努力があってこそYSの離島運航があったのである。

鹿児島支店整備主任のインタビュー

― 台風時のYS-11の整備についてお話を伺いたいのですが?
「まず、台風の時はその規模によって(YS-11)を他の空港に逃す(エバゲーション)するか、(鹿児島空港に)スティさせるかどうかを台風対策本部と相談して決めます」
― 待避(エバーゲーション)する場合はどんな点に気を使いますか?
「それはまず、何処に待避させるかということです。台風の進路によって空港を決めます」
― 待避するときは整備員も同乗するのですか?
「待避する空港に整備員がいない場合はもちろん同乗します」
― 待避が出来なくて鹿児島空港にスティさせる場合は?
「7機ともスティさせるのは大変苦労があります。整備員を一機一機に張付けて、夜の11時過ぎ風が強くなるころからエンジンを回してYS-11を風に正対させました」
― 風に飛行機を正対させるとはどういうことですか?
「ええ。風の方向に飛行機を向けて駐機する、正対させるんです」
― そのとき何故、エンジンを回すのですか?
「風に飛ばされてしまうからですが、普通はトーイングカーを飛行機に繋いで正対させます。台風の時は風が強いので煽られて危険ですから、飛行機に整備員が乗ってエンジンを回し、タキシングでそのときの風の方位に機首を合わせて向きを変えるんです。又、機内に鉛のバラストを積んだり、燃料を満タンにして機重を重くして風に煽られにくいようにします」
― そのとき留意されるのは?
「なにしろ夜中に7機のYSを並べて、同時にエンジン・ランをするものですから、風もさることながら飛行機同志の接触事故に最も注意を払います」
 夜、嵐の中で駐機場に並んだ7機のYS-11が、翼を揃えて一斉に回すエンジンの音は耳を轟する騒音となる。
 そして風の方位が変わるたびに、まるで海に泳ぐ魚の群れのように、全機が一斉に機首を風に向けて方向を変える。
 その長い繰返しの中で、雨と風に打たれながら各飛行機の間を走り回り、懸命に飛行機を守る整備マン逹・・・。
 インタビューを終えた整備主任が一言、漏らした言葉が印象的であった。
「要は、うち(整備)の連中は、滅法、飛行機が好きなんですよ。子供みたいにね・・・。」

 ここで簡単にYS-11の歴史を振り返って見ると、第二次大戦後、純国産の旅客機としてYS-11の構想が正式に発表されたのが昭和31年の5月、そして製造を担当する会社、日本航空機製造が昭和34年6月に設立され、1号機(試作機)が初飛行したのが昭和37年8月30日であった。
 それから約12年間、昭和49年2月1日に最終号機がロールアウトして製造が打ち切られたが、YS-11は今だに現役旅客機として世界の空を飛行している。
 YS-11が長寿である理由は、むろん、航空機自体の設計、製造が優れていることもさることながら、YS-11を使用している航空会社の優秀な整備技術がその理由であると言われている。
 中でも東亜国内航空の整備は優秀なことで知られていた。それはこの台風飛行が行われた当時の就航率に如実に現われている。
 昭和54年には95・8パーセントの高率で、この就航率が100パーセントに至らない理由は、ほとんど台風など天候によるものであったという。
 これは驚異的な数字である。何故ならこの時、すでにYS-11は製造を中止して6年も経っていたからだ。
 昭和55年、東亜国内航空はYS-11を42機所有する世界最大のYSオペレーターであった(自社所有は36機、リースが6機)。その42機の他に東亜国内航空の整備スタッフが整備契約を結んでいたのは、運輸省航空局のチェツカー機が5機、南西航空の所有機が5機で、合計52機のYS-11のメンテナンスを行っていたのである。
 当時、彼等メンテナンス・スタッフは「YS-11は、(製造を中止した以後)今、自分たちが手塩にかけて完成品となった」と胸を張ったという。
 そのことは昭和55年9月号の航空ジャーナル社の記事に明解に記されている。
「TDA(東亜国内航空)のYS-11は、LANSA(LANSA航空ブラジル)やVASP(VASP航空ブラジル)、VARIG(ヴァリグ航空ブラジル)、PAL(フィリピン航空)など南米や東南アジアで使われていた中古の買戻し機やリース機が、現在15機もある。
 中古機にはそれぞれ固有の特性がしみついているので、(東亜国内航空機としての)信頼性を同等に保つためにはTDAになじませる改修等が必要になる。……中略……
(これら)中古機については、かならず総分解し、TDAショップ(註 当時、東亜国内航空メンテナンスが誇った豊富なYS-11の部品ストックのこと)の部品と交換し、トラブルがなくてもTDAの整備方式でオーバーホール、リペアを施し、その後、路線に投入した。……中略……
TDAの技術陣は、YS-11と共に育ったと言ってよいだろう。YSを通じて航空技術の基礎を学び、実績を積み重ね、時代の流れの中でYSに近代化を施し、自らも成長すると共に、YSという機体も成長させてきた」

YS-11、JA8643号機の奇跡

 奄美大島へのフライトから横道にそれるが、YS-11の整備マンたちの優秀さと飛行機にかける愛情を現わすエピソードをご紹介しよう。
 それは事故でスクラップと認定されたYS-11を復元修復して、再び、飛べる飛行機に戻して空に帰した奇跡のような整備マンの話である。
 その事故は昭和42年1月22日に函館で起こった。
 事故を起こしたYS-11は、東亜国内航空の前身である日本国内航空の所有するJA8643機「黒耀号」であった。(註 日本国内航空と東亜航空が昭和46年5月に合併して東亜国内航空となり、昭和63年4月1日に日本エアシステムに社名を変更した)
 JA8643号機の製造番号2007。すなはちYS-11の第7番目の機体である。
 事故の様子は、そのときの朝日新聞の記事を引用する。

YS-11機、離陸に失敗。国内航空 函館で乗客4人けが。

 〔函館〕22日午前11時40分ごろ、北海道函館空港で、日本国内航空のYS-11機「黒耀号」(飛田武男機長ら乗員四人、乗客十二人)が離陸に失敗、滑走路から約二百メートルとび出して畑の雪の中に突っ込んで止まり、乗客四人が頭や腰などに軽いけがをした。

 函館航空保安事務所は同五十分、滑走路を閉鎖して現場を保存、運輸省航空局の楢林主席検査官が同夕刻現場に到着して、二十三日から本格的な原因調査に乗り出す。

 同機は同日午前十一時すぎ、いったん滑走路に出て、離陸体制に入ったが、飛田機長が操縦系統の故障に気づいて一度エプロン(駐機場)に引返して点検、予定より約五十分遅れて滑走を始めた。
 飛田機長の話によると、滑走路の中ほどでプロペラの回転数が上がらず離陸出来ないと断念、同機長は非常ブレーキなどを使ったが、間にあわなかったという。
 滑走路から約百メートルはずれたところには、左右のプロペラと車輪がもぎとられて散乱していた。
 乗客の話を総合すると、止まったときは左エンジンから火をふき、水道のジャ口をひねったようないきおいで油がふき出していたという。乗客はスチュワーデスの誘導で後部右側にある非常口から脱出して大事にはいたらなかった。
 飛田機長の話  滑走中にレバーが激しくゆれるので離陸を中止、非常ブレーキも使って急ブレーキをかけた。

朝日新聞 昭和42年1月23日付け朝刊

 車軸が折れプロペラをとばしたYS-11「黒耀号」JA8643機は、地面に激突し、そのまま約200メートル、胴体のまま滑走したことで、雪の上とはいえ機体は歪み、主翼やプロペラは大きな破損をうけた。
 航空局の事故調査を受けた後、機体は函館空港の日本国内航空の格納庫に保管された。
 そして一ヶ月後、保険会社の調査も終わり、「黒耀号」JA8643機は全損扱いとなり、スクラップと認定されたのであった。
 松尾整備部次長(東亜国内航空)は当時を振り返って、次のように語った。
「スクラップと認定された事故機の残骸は、保険会社が処分するとしてもお金がかかるし、うまくいってもわずかな金で屑鉄として売るしかない。それで、保険会社は格納庫に積み上げた機体をそのまま国内航空に譲り渡したのです。とりあえず我々はスクラップの中から、まだ使える部品を取り外すことにしました」
 昭和42年当時は、YS-11はまだバリバリの新鋭機であった。 とくにローカル路線を中心に運航していた日本国内航空にとっては主力機であり、YSを製造する日本航空機製造も世界中から受注を抱えてライン生産が全盛だった頃なので、YSの部品類は貴重なものであった。
 それで日本国内航空の本社整備部や技術課、各支店の整備スタッフは我先に函館を訪れ、機体から可能な限り、使用出来る部品を抜き去ったのである。中には”記念品”として持ち帰る者もいたという。その結果、JA8643号機はいっそう無残なスクラップと化した。
 その頃、本社整備部の鳴神部長も函館を訪れた。
 彼は函館の格納庫に積まれた残骸をみたとき、かっては美しい姿で大空を自由に飛んでいた飛行機の姿とはとても思えず、胸に迫るものがあったという。そして彼はそのとき決意した。「この残骸をもう一度、飛行機として空に帰してやることは出来ないものだろうか?」と。
 もともと、鳴神部長は日本航空の整備会社JAMCOから日本国内航空に引き抜かれた整備のエキスパートであった。彼は日本航空整備時代から大きな整備を担当していた。
 かってアメリカ人の指導で胴体がバラバラになったダグラスDCー4のケタをつなぐ大修理の経験もあり、骨の髄からの整備マンであった。
 それで鳴神部長は会社にJA8643を復元修復することを提案したのである。
 しかし、大破した飛行機を修復して空に帰すことは、当時としては夢のような話であった。
「その話を聞いたとき、吃驚しましたね。あんなスクラップを修復して、本当に空を飛ぶようになるのかな?」
 整備技術課の内田課長をはじめ整備部スタッフの間でもその提案は信じられないものだったという。
 そんな状況の中で、鳴神部長の整備魂は燃えた。
「この復元修理は日本国内航空の整備マンを育成するには最適の教材になる」と鳴神部長は会社を説得し、会社は復元修復案を了承したのである。
 事実、この復元修理に携わった人たちが、後に整備部の中枢として、東亜国内航空がYS-11の整備にかけては世界一と言われるようになった礎と伝統を築いた。

 年が変わって昭和43年1月、鳴神部長を中心にした修復グループが発足し、JA8643号機の復元修復が始まった。
 しかし修復スタッフは事故以来、一年間、函館の格納庫に寒風にさらされ放置されていた飛行機の残骸を目にして、改めてこのスクラップが再び、空を飛べるようになるのか、という疑念を払拭することは出来なかった。
「当時は空港の中を通れないので、格納庫まで外側のフェンス沿いに、うさぎの小道みたいな雪道を歩いて毎日、通いましてね。寒かったなあ。しかも氷点下に近い格納庫の中には電気すらもなかったんですよ。
 それで農業用の小さな発電機を調達しましてね。薄暗い裸電球を灯して細々と残骸の仕分け作業をしました。が、まだ、(飛べるようになるのかどうか)疑問はありましたね・・・」(松尾整備部次長)
 たしかにそれまで、日本の航空界では事故で大破した旅客機を復元して空に帰したという事例は一件もなかったので、整備マンが尻込みするのは無理もなかった。
 鳴神部長はその一人一人に、「これは絶対に飛べるようになる」と整備マンの魂を吹き込んでいったという。
 彼は日本航空から修理のベテランといわれた故山川技師を参加させ、復元計画は徐々に進み始めた。
 しかし、問題は山積みしていた。まずその一つは、函館空港では工具も設備も不足しているので、飛行機の残骸を日本国内航空のベースである羽田空港へ運ぶ必要があった。
 問題はその輸送方法である。
 当時はまだ、東北自動車道路もなく、北海道と青森を結ぶ青函トンネルもなかった。機体がバラバラであるとはいえ、これ以上破損紛失しない方法で羽田空港まで運ぶことは復元には絶対条件であった。
 これを解決したのは当時の日本通運の函館支社の途方もなくユニークな発想であった。
 それは筏による輸送案である。大きな丸太を並べた上に角材を敷いた特製の筏を組み、バラバラにした飛行機を乗せてタグボートで引っぱり、函館から海伝いに羽田空港のBランウエイ側の運河まで運ぶという海上輸送案である。運河からはクレーンで機体を釣上げてそのまま格納庫に入れるというものであった。
 この輸送案は結果として大成功を納めた。
 筏は10日間ほどかかって羽田に到着し、スクラップは格納庫102ハンガーに無事、収納されたのである。
 本格的修復作業は時を移さず開始された。
 この航空史上、稀に見る修復作業には日本航空や日本航空機製造も全面的に協力を惜しまなかった。
 作業の第一歩はスクラップを完全な飛行機に復元するまでの緻密な作業プランの作成である。そのプランニングには工程管理を担当した斎藤整備部室長があたった。
「事故が起こった昭和42年の暮れは、私は胃潰瘍の手術をして入院していましてね」
 病後の身体にもかかわらず、徹夜を重ねて斎藤室長は工程プランを作成した。
「ともかく(修復作業は)初めてのことばかりなので、何から手をつけて良いのか分からないというのが実感でした。そんな中で若い連中が頑張ってくれましたね。彼等の努力がこの修復作業の支えでしたね」
 その工程プランを略記すると次のようになる。
 1月15日から2月末までは整備の人員手配(スケジュール)とジグ(工具)の準備、そして機体の故障個所の洗い出し。
 2月末から板金作業。3月6日から胴体、4月中旬には前胴(コックピット)、5月には胴体の接続、5月中旬には翼と胴体の接続。そして7月初めにパワー・イン(電源をつなぎ稼働させる)、7月20日テストフライト。
 鳴神部長の指揮のもとに作業はプラン通りに順調に進んだ。
 スクラップだった残骸が次第に飛行機の姿に変わるつれ、それまで疑心暗鬼だった整備マン一人一人に自信と希望がみなぎっていったという。
「正直、最初は疑念がありましたが、(作業を)やり始めて、だんだんと自信が出てきたというか、俺たちにもこの飛行機を飛ばすことが出来るのかもしれない、と思えるようになりましたね」(斎藤室長)
 だが、苦労も並みではなかった。
 まるごと飛行機を一機製造する、いや、むしろ、それ以上の難しさが求められた。
 航空会社の整備格納庫は、基本的に新しい飛行機を製造する工場とは大きく異なる。だから、胴体と胴体、胴体と翼などを理想的に組立結合するジグ(工具)類はない。
 修復作業はそれら一つ一つを自分たちで作り、工夫することから始まったのである。しかも、YS-11の部品はヨーロッパ製が多く、部品調達も苦労が多かったという。
 そんな状況の中でスタッフの「整備魂」は燃えた。
 そして予定通り、7月20日に新しいJA8643号機は完成しロールアウトしたのである。
 普通、YS-11一機をオーバーホールするには、延べ整備時間は3500から4000時間かかるというが、JA8643号機は完成まで約40000時間かかった。
 すなはち、YS-11を10機オーバーホールした分の整備時間を要したことになる。
 テストフライトは当時、YS-11の最高のパイロットといわれた日本国内航空査察操縦士の紺谷隆一機長が担当した。
 無事、飛行が完了したとき、鳴神部長はじめ整備マン逹は溢れる涙を押さえられなかったという。そして結果としてこの修復作業は鳴神部長の意図したように人材を育てあげた。
 JA8643機の修復で、整備マン逹が得た自信と技術は日本国内航空から東亜国内航空へ、そして日本エアシステムへと引き継がれ、誇り高き「整備魂」の伝統を築く礎として残ったという。
 尚、驚くことに、このJA8643機はその後、「ひだか」号と名を変えて現役に復帰し、日本エアシステムが平成元年12月4日にアメリカに売却するまで日本の空を飛んだ。そして現在もアメリカの空を飛行していると考えられる。
 斎藤かつ馬整備室長は今年(平成13年)で75才。今は引退して富士宮市で元気な余生を送っているが、彼は今だに空を飛んでいるJA8643機のことを聞いて、
「それは、多分、修復作業をした整備の連中の魂が入っているからだろうよ」と嬉しそうに笑うのだった。

つづく

武田一男

【特別付録】このドキュメンタリーは航空サウンドでも楽しめます。
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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」/全9回
録音&解説:武田一男 ©Director’s House

【著作について】「台風飛行」の文章、または付録の音源に収録している音楽、音声の一切は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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