とび職一代 第1回

とび職一代

などと大袈裟なタイトルになってしまいましたが、大空を飛び始めて40年とちょっと、来年には本当の定年・退職を迎える事になりますので、訓練生時代からの思い出などを書き込んでみる事にしました。
波瀾万丈の面白い話がある訳ではありませんが、興味がおありでしたらお付き合い下さい。

20代の初め、羽田空港近くの大森に暮らしながら、自動車・バイク関係の仕事をしていたのですが、見果てぬ夢と思い通りにならない現実との狭間で、自分の将来の生き方について、真剣に考え始めるようになっていました。
そんな時に目にしたのが、『高収入が待っている』とのタイトルで、長野県松本空港にあるらしい、飛行訓練学校をレポートした新聞記事だったのです。

新聞記事によりますと、その飛行訓練学校である程度の飛行訓練を受けた後、ANAの飛行適性試験に合格すれば、エアライン副操縦士への道が開けるとの事でした。
当時、エアライン・パイロットの供給源としましては、宮崎の航空大学と自衛隊からの割愛だけしかなかったのですが、航空需要の伸びが著しい事もあって、パイロット不足が言われ始めており、各航空会社も新たな供給源を求めて、パイロット訓練の拡大を図り始めていたのでした。

中学生の頃からでしょうか、飛行機には興味はあったものの、憧れていたのは戦闘機乗りやテスト・パイロットなどの派手で危険な薫りのする仕事ばかりで、エアラインのパイロットには魅力を感じていなかったのですが、その記事を読んでみて、エアライン・パイロットへの思いを強く持つようになったのでした。その当時の生活と比較しますと、それは夢のような待遇でしたからね。

その新聞記事を読む少し前の事、何かに引き寄せられるような感じで羽田空港へと立ち寄り、滑走路15レフト(当時)へサークリングで着陸する飛行機を眺めているうちに、むかし憧れた飛行機への思いが、ふたたびわき上がってきたのです。
旋回しながら着陸する飛行機。外航機は滑走路になかなか正対できず、のたうち回るようにして着陸して来ているのに、
さすがはJAL! 一発でピタッと決めていたんですよね! それを見て、「旅客機のパイロットも凄いんだな」と、エアライン・パイロットへの憧れを強く持つようになったのでした。

そんな事もあたからでしょう、その新聞記事を見た時、「ここで挑戦しなければ、必ず後悔する」と、入所試験への挑戦を決意したのです。
さっそく願書やパンフレットを取り寄せました所、24歳までとの年齢制限があって、チャンスは一回だけしかありません。自分に踏ん切りを付けるためにも、そのチャンスにトライしてみる事にしたのでした。

そして試験当日の朝がやって来たのですが、そこでとんでもない事に気が付いたのです。何と!「鉛筆を持ってない」
当時は鉛筆もないような生活をしていたんですね。
試験会場は上野でしたので、会場に行くまでに、途中の文房具店で鉛筆を買えばよいだろうとの楽観的な考えでアパートを出たものの、日曜日の早朝と言う事もあり、開いている文房具店がありません。さあ、どうするか?

「どうせ合格しないだろうから止めようか。いや、ここで止めたら絶対に後悔する」
何となく中途半端な気持のまま電車に乗り、上野へと向かったのですが、当時勤めていた会社に内緒での受検でしたので、後ろめたい気持があった事も事実でした。

そんなあやふやな気持のまま上野の試験会場に着いてしまいました。
試験会場となるビルを見上げながら、「試験科目は英語、数学、物理。鉛筆もないような生活をしていた自分が受かる筈はない。さっ、帰ろうか」と思ったその時、一軒の文房具店が目に留まりました。
その店も開店前だったらしく、シャッターが閉まっていたのですが、シャッターの下の方が僅かに開いていて、中で人の気配がするではありませんか!「うん?ひょっとしたら」と思い、僅かに開いたシャッターの下からのぞき込んで、「鉛筆を売って貰えますか?」と聞きました所、「いいですよ」との返事。
その時、脳天を駆けめぐりました。これは受検してみろと言う天のお告げではないかとの思いが。

試験が始まってみて、ひとつラッキーだと思った事は、受験者が現役組と既卒組に分けられ、既卒組には数学・物理の試験の代わりに、頭の体操のような問題が出された事でした。これでしたら勉強から遠ざかり、公式など忘れてしまっていても解く事ができますからね。

そんな幸運もあって、学科試験に合格。面接試験も切り抜けて、晴れて飛行学校へ入所する事ができたのです。
昭和46年(1971年)の事でした。

しかし現実は甘くはなかった。飛行学校に入所できたからと言って、エアライン・パイロットへの道が開かれたと思ったのは大間違い。なが〜い試練の道が続く事になったのです。

新聞記事とは違って、最初に入所したのは岡山空港(とうぜん旧空港です)に隣接した訓練所でした。
集まった人間も種々雑多。公務員や自衛隊上がり、ひと癖もふた癖もありそうな?連中ばかりでしたし、訓練所の生活もまるで軍隊。訓練所内で教官とすれ違う時は、「オッス」と言って敬礼しなければならなかったのですから。

岡山空港ターミナルビル
岡山空港ターミナルビルの屋上で記念撮影。
17名中、エアライン・パイロットにたどり着いたのは8名だけでした。この写真をいつの段階で撮ったのかは記憶にありませんが、最初に入所したのは25名ぐらいだったとの記憶がありますので、この段階でもすでに脱落した訓練生がいたのでしょう。

血の出るような飛行訓練の話は次回から。

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    • B777
    • 2010年 2月22日 1:09pm

    「人はどんなキッカケで、どんな状況でどうなるか分からない」、と言うことを改めて思います。一つの新聞記事に目が止まった瞬間、過去の記憶が甦り、何かが覚醒したのか、はたまた新聞記事は一つの通過点であって、生を受けた時点で決められた運命だったのか・・・
    何れにしても、今日までパイロットという重責を担い、また尊い職を勤めて来られたことは、素晴らしくもあり、誇りであると思います。
    私の父は昭和23年生まれで、家は貧乏で小さい頃から何かと苦労をして来ました。そんな父から若かりし頃の話を聞くと、同世代の者は一癖も二癖も三癖もある個性の強い連中ばっかりで、今の時代では考えられないことが日常茶飯事だったと聞きました。また、学校でも軍隊のような規律が当たり前の時代でもあったとも聞きます。そんな話を聞いていて、若い時分に苦労や辛いことをたくさん経験したからこそ、生きていく糧が身について、信の通った人間になれると感じました。恥ずかしながら自分にはそんな糧など身についているかどうかさえも分かりませんが・・・
    記事を読んで、自分の過去を振り返る機会を与えて頂いたと感謝致します。
    次回の訓練の話を楽しみにしています。
    分かったような、偉そうなコメントをしました無礼をお許し下さい。

    • FD
    • 2010年 2月23日 8:34pm

    私の話に興味を持っていただいたようで、ありがとうございます。
    実は新聞記事を見たのも偶然のなせる技だったのです。
    当時アパートでの一人暮らし、新聞は取っていたものの、殆ど読まないままだったのですが、その日に限って会社をずる休みしてしまいましたので、珍しく新聞に目を通したのです。
    新聞記事には飛行学校の名前など出ていませんでしたので、もう少し詳しく調べようと思いまして書店まで出掛け、「航空情報」や「航空ファン」などの雑誌に目を通してみたのですが、その飛行学校の情報は見つけられませんでした。
    そこで、久しぶりに飛行機の本でも買おうかという気になって、ちょっと毛色の変わった航空雑誌「スポーツ航空・後の翼」を買って帰り、部屋でページをめくっていた所、1ページ一杯に航空学生募集と出ていたのです。
    あくまでも今になって思えばですが、何か目に見えない大きな力が、私をある方向へと押し出して行っていたように思えてならないのです。
    私も分かったような事を言わせて頂きますと、人間、一生に一度か二度は、何か目に見えないパワーに押される事があるのではと考えます。
    その一瞬を捉えて、何かの決断を下す。それができた時、人生の転機となるのではないでしょうか。

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