【航空100年】DC-3特集 DC-3プロフィール

こんにちは! 竜子です。
これまでこの航空100年キャンペーンの一環としてお送りしているDC-3特集では、武田一男さんの貴重な資料やエッセイでお届けしてまいりましたが、最後にDC-3のプロフィールを補足させていただきますね。未熟者ですが、おつきあいくださいっ。これまで配信したDC-3特集は、下記からどうぞ。

▶ DC-3特集_第1回 DC-3の記念映画「a Lady Remembered」
▶ DC-3特集_第2回 DC-3のコックピット録音
▶ DC-3特集_第3回 DC-3が登場する航空冒険小説
▶ DC-3特集_第4回 DC-3空撮映像とグレンミラー・スウィング・ミュージック

さて。
ダグラスDC-3は、ダグラス・エアクラフト社の開発した双発のプロペラ機で、全長約20m、翼を含めた幅が約29mの機体に、3列シートで20人程度を、4列シートで30人程度の旅客を運んでいました。

「旅客機」そのものの出現は、1914年〜1918年にかけておこった第1次世界大戦後でしたが、1930年に入っても、軍事用に作られたものを、改良したものがほとんどでした。だから座席数も10席未満という時代が10年以上も続きました。でもそれでもヨーロッパでは定期便が華やぎ始めていたのに、アメリカではいまだ郵便飛行機が飛んでいる程度。1927年のリンドバーグのニューヨーク〜パリ横断成功で活気づいたアメリカでも、空で活躍していたのはオランダのフォッカー社でした。もちろん、この活気のなかアメリカはフォード社の飛行機が飛んでいました。当時の飛行機の翼は木製構造。しかしフォード社は全金属製を誇り、大量生産を狙ってはいたのですが、1929年頃からの不況を受けて、原材料高のわりに値下げをあおられるは…のさんざんな世の中で撤退を決めてしまうのです。

そんななか登場し、頭角を現したのがボーイング247と、ダグラスDC-2でした。
DC-2の巡航速度は時速300km以上。3回か4回ほど着陸して燃料補給しながらも、アメリカ大陸横断は17時間ほどに短縮されました。ちなみにそれまでの巡航速度は時速200kmくらいで10回以上着陸しながら、まる1日以上は要するのがあたりまえだったから、この速度アップは凄いことですよね。
このDC-2の速度アップ。どうやって実現したのかというと、フラップを取り入れたり、可変ピッチプロペラにしたり。それから、空気抵抗についてきちんと考えたところがポイントです。機体を流線型にし、ギアを収納させるようにしたのです。いまでは当たり前のことなのですが、当時はさぞ画期的なことだったでしょうね…。

で、このDC-2の胴体を広げたのが、DC-3になります。
政府の郵便飛行路線の拡充方針などもあって、アメリカでは航空熱が巻き起こっている1930年代。ユナイテッドやトランスワールド、アメリカン航空、と航空会社もにぎわいを見せていました。しかし前出の通り、アメリカ横断をするには、いくら短縮されたといっても最短でも17時間もかかるわけです。各社、旅客を引き込むために何をしたらいいか策を練るのです。アメリカン航空では寝台を取り付けて、座り続けての移動をラクにしようと考えます。現にカーチス・コンドルIIの運行では寝台をつけて好評となり、アメリカン航空は寝台型の飛行機に手応えを感じていました。
思惑通りの機体を作ってくれる会社がないか…。DC-2ならちょっと改良するだけでOKじゃないか? なんて考えてダグラス社に申し入れをします。それがDC-2からDC-3の誕生へと繋がるのです。

提案を受けたダグラス社。もちろん、彼らにしてはそんな簡単にいくとは到底思えません。だいいち寝台飛行機といわれても本当にそんなものが必要かどうかだって微妙だし、そもそも販売的にも堅調な軍用機を地味にコツコツ作っているだけでも中小企業としては成功しているわけですから、DC-2での成功で工場や従業員の整備であたふたしつつも、これはほんのラッキーにすぎないのでは? と、どこか冷静に考えていたことだと思います。それでもアメリカン航空から20機買う、と約束されたダグラス社はなくなく受注を受けることになります。

いざ受注したはいいもの、そんな簡単に改良できるかといえば、やっぱり難しい…。列車では昼間に座って、夜になると天井からベッドを引き出してセッティングする、という風にしているけれど、それをDC-2の機体でやるとすると胴体幅が足らない。胴体幅を伸ばせば、主翼も大きくしなければ…とあちらをたたけばこっちが出っ張り、といった具合に、「DC-2の改良でいいじゃん」のはずが、ほとんど新設計になってしまった寝台型旅客機「Douglas Sleeper Transport」(DST)を、1年足らずで誕生させました。1935年の中頃に開発を始め、同年の12月には初飛行。DC-2がベースになっているとはいえ、この短さ、今じゃ考えられません。当時の規模のダグラス社ならでは、そして破れかぶれの気迫を感じさせますよね。座席数は14席でキッチンまで搭載し、さらに、どーせならということでDC-2での改良点を盛り込んだ結果、アメリカ大陸を1回の着陸だけで横断できるようになったのです。

アメリカン航空は鼻高々。先のダグラス社の映像にもあった通り、憧れの空で、それもベッドで寝れて、客室ではお給仕さんがホットミールを出してくれるという豪華さで、本当に夢にまでみた世界が登場したのです。アメリカン航空はこの看板機によって、ユナイテッド航空やトランスワールド航空から、一歩リード。
ダグラス社にとっても、努力の甲斐あって想像以上の効果をもたらしました。寝台のために胴体幅を広げましたが、これまで窓側に1席ずつの、計2列しか配置できなかったシートが、寝台を外せば3列にすることが出来るのです。14名の客席を21人に増やせ、さらには4列にすることだって可能。そうすれば最大で32人分ものシートが置ける…。

時代も後押ししていました。いまだ冷めやらぬ広いアメリカでの旅客航空熱は、少しでも多く人を運べる機体を求めていたのです。DSTの完成から間もなく、寝台を取り払った全座席型の飛行機をリリース。これがDC-3なのです。DC-2の1.5倍の定員で、飛行コストがDC-2とあまり変わらない、当時としては低コストの旅客機として、1936年から1945年の9年間の間に1万機以上製造されるという、大大大ヒットとなったのです。

1950年代に入ると、ジェットエンジンの出現によってさらに旅客機は大型化してゆきますが、1970年代においてもローカル路線として活躍し、長い間親しまれることになりました。1936年から70年以上経った今でも、わずかながら観光飛行を行ったりスカイスポーツなどで使用されているそうです。

また、1939年から1945年の第2次世界大戦では、C-47という名前の輸送機としても運用されました。DC-3が登場する航空冒険小説でも紹介がありますが、DC-3の愛称として知られる「ダコタ」「スカイトレイン」とは、軍用機としてのC-47の制式名称です。また皆さんの方が詳しいことと思いますが、中島飛行機でもライセンス生産を行っていました。ワールドカップの行われている南アフリカでは、C-47を海軍で対潜哨戒機として、オリジナルのレシプロエンジンからターボプロップに改造したC-47-TPを運用しているそうです。

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