航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第6回 三宅島上空へ

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 ハーレクイン機は紀伊半島の御坊(GBE、ウエイポイントNO3)を過ぎて串本(KEC、ウエイポイントNO4)へ向かって機首方位173度で上昇を続けている。

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★「最後の飛行」挿入12

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 紀伊半島の東でハーレクイン機は、関西ディパーチャー管制から上空をコントロールする東京コントロール紀伊セクター133.5に引き継がれた。
トーキョー・コントロール。ハーレクイン8673。パッシング170 クライミング フライトレベル 200
(東京コントロールへ。こちらはハーレクイン8673です。現在、高度17000フィートを通過。高度20000フィートへ向けて上昇中です)
ハーレクイン8673。トーキョーコントロール。ヘディング100 フォー ベクター トゥ ミヤケジマ アンド クライム トゥ メインテイン フライトレベル250 アンティル ファーザー アドバイス
(ハーレクイン8673へ。こちら東京コントロールです。三宅島までレーダー誘導します。機首方位100度で高度25000フィートまで上昇し、指示するまでその高度を維持して下さい)
 ダウニングが復誦すると三宅機長は方位を100度にして、串本の手前でNO5のウエイポイントである三宅島(MJE)へDC-10の機首を向けた。ゆっくりと機体が左へ旋回する。左手には紀伊半島東端から名古屋に広がる街の明かりが視界に入ってきた。
 房総半島の東洋上に位置する三宅島は成田空港から、あるいは関西空港からアメリカに向かう航空機の主要な通過点であり、逆に房総半島から成田空港へ着陸する航空機の進入ポイントにもなっている。しかも現在午後七時を過ぎで、この時間帯は紀伊半島沖から房総半島を結ぶ太平洋側の空域は東南アジアからの主要航空路A1(アンバー・ワン)を飛来して房総半島から成田へ向かう便も集中して交通量が多いのだ。
ジャパンエア6646。クライム プレゼント・ポジション クライム トゥ ダイレクト ミヤケジマ レスト オブ ルート アン チェンジ
(日本航空6646便へ。現在地から三宅島へ向けて直行してください。その後のルートは変わりません)
クライム プレゼントポジション ダイレクト ミヤケジマ レスト オブ ルート アン チェンジ ジャパンエアー6646
 南の洋上からA1(アンバー・ワン)でシンガポールからバンコク、ホンコンを経て成田空港へ向っている日本航空6646便貨物便の交信につづき、ノースウエストのカーゴ便が三宅島を通過した交信が入る。
トウキョウ。ノースウエスト906。フライトレベル330 パッシング ミヤケジマ」(東京コントロールへ。ノースウエスト906便です。現在、三宅島です)
トウキョウ・コントロール。ラジャ」(東京コントロール。了解)
 関西空港を離陸してハーレクイン8673便のあとを飛行している日本航空1092便、ホノルル行き臨時便が東京コントロールの空域に入った。
トウキョウコントロール ジャパンエア1092。グッドイブニング。リービング1634 トゥ 200
(東京コントロールヘ。こちらは日本航空1092便です。今晩わ。高度16340フィートを通過して高度20000フィートへ上昇中です)
ジャパンエア1092。トウキョウコントロール ラジャ。フライヘディング 120 ベクター トゥ ミヤケジマ
(日本航空1092便へ。こちら東京コントロールです。了解しました。120度方位で三宅島へレーダー誘導します)
ジャパンエア1092。ヘディング120
(日本航空1092便です。方位120度)
ジャパンエア1092。クライム トゥ メインテイン 230 アンティル ファーザーズ アドバイス
(日本航空1092便へ。高度23000フィートへ上昇して、指示を待って下さい)
 その間にハーレクイン8673便は、高度24000フィートに達した。高度警報装置のブザーが鳴り指定高度25000フィートが1000フィート内に近づいたことを知らせる。
 コックピットは離陸の緊張がとれてほっとした雰囲気になる。
ヘディング(機首方向)110?(三宅島までの機首方向のこと)」三宅機長が紙コップのコーヒーを手に取ってネイヤーに声をかけた。
いえ。100(度)です」とネイヤー機関士。
 あ、汚れちゃった、と三宅機長が口にしたコーヒーでパイロット用の白い手袋にしみをつくったことを苦笑しながら、ゆっくりとタバコに火をつけた。
 愛煙家の三宅機長は昭和15年3月28日に千葉県茂原市の郊外で生まれた。実家はお寺である。高校の頃は絵が好きで美術の教師を志すが、もともと海に魅力を感じていた彼は船乗りを目指して水産大学に進んだ。
 しかし折しも造船業界の不況で大学三年生のとき航空大学を受験する。これが三宅機長を空に向かわせたきっかけとなった。
「ロマンチストなんですよ。今も海が好きでね。フライトがない日は船で海に出ています」と三宅機長は精悍に日焼けした顔をほころばせる。現在は神奈川県葉山に住みクルーザーで暇さえあれば海を楽しむという。
 しかし美術の教師志望の青年が水産大学へ。そして水産大学から航空大学に転身したことは、ロマンチストの中に夢だけを追わない常に冷静に現実を見据える現実感覚が生きづいている。それが彼を優秀なパイロットにした要因のひとつなのだろう。
 三宅機長は昭和三十九年に航空大学卒業と同時に日本国内航空に入社する。
 当時、日本国内航空を始め日本航空、全日空、東亜航空など大小の航空会社があって日本の航空業界はアメリカの影響下から離れてやっと独立の様相を見せていた。
 ここで日本の民間航空の歴史を振り返ってみるとそのときの状況がわかりやすい。

日本の民間航空の歩み

 大正の終わり頃から昭和の初めにかけては、単発機で郵便輸送と若干の乗客輸送を始めていた川西飛行機が経営する日本航空(現日本航空とは無関係)と朝日新聞社経営の東西定期会など小規模な航空会社があった。
 しかし当時、朝鮮半島や満州(現中国)に国勢を伸ばそうとしていた政府の肝入りで、それら民間の航空会社が開拓した路線を踏襲して、1928年(昭和3年)10月30日に国策会社といわれた日本航空輸送株式会社が設立され営業を開始する。
 そして翌年の7月には東京ー大阪ー福岡間の国内線をデイリーで1往復、週6往復飛び東京-大阪の所要時間は2時間30分でその料金は30円だった。
 9月には福岡から朝鮮半島の京城(現ソウル)、平壌(現ピヨンヤン)そして満州の大連を結ぶ定期路線で週3便の営業を開始した。
 このときが日本に於ける民間航空の本格的始まりとされている。
 使用機はフォツカー・スーパーユニバーサルという高翼単発機で、ドイツ人のフォッカーが設計しアメリカで製造したこの飛行機は、飛行速度は時速150キロ、客席が六席の旅客機である。

フォッカー・スーパーユニバーサル
フォッカー・スーパーユニバーサル

 当時はまだ羽田空港がない頃で、東京は立川飛行場を飛び立っていた。(羽田空港は昭和6年8月に完成、「東京飛行場」と呼ばれた)
 その後、ダグラスDCー2(日本仕様乗客定員12名)、そして1936年(昭和11年)に製造されたDCー3双発旅客機か開発されると日本では日本航空輸送株式会社が輸入し最初DC-3を「桜号」と名付けて昭和13年10月に就航させている。

DC-2
DC-2

DC-3
DC-3

 東京-上海の日華定期便として就航、6時間30分で飛んで当時の新鋭快速旅客機として話題になった。乗客定員は21名で乗員は操縦士と副操縦士、航空機関士とナビゲーターの航空士の4名。それと当時の呼び名は「機上女子接客員」呼び名でキャビンアテンダント一名が同乗している。
 ちなみに日本におけるキャビンアテンダントの呼び名の歴史は、昭和6年3月に東京大森海岸から伊豆経由の静岡県清水の間に水上旅客機の定期便が開設され、それを運航した東京航空輸送社ではキャビンアテンダントを同乗させ「エアガール」と呼んだ。これが日本最初のキャビンアテンダントの誕生である。その後、前述した昭和13年の日本航空輸送株式会社の呼び名は「機上女子接客員」で、戦後、「スチュワーデス」という呼び名に変わった。そして現在は「キャビンアテンダント」であるが、呼び名の変遷をみてもみるだけでも航空史を感じる。
 ダグラス社と中島飛行機、昭和飛行機製造の間でDC-3のライセンス製造が提携されると、日本でもDC-3を製造するようになり(日本名 零式輸送機))輸送力が格段にアップして、1938年(昭和13年)以降は中国、台湾、満州など大幅に路線が拡大された。又、DC-3以外にもロッキード・エレクトラが使われていた。ロッキード・エレクトラといえば1937年(昭和12年) に南太平洋上で消息を断ったアメリカの有名な女性飛行士アメリア・イヤハートの愛機として知られている双発の旅客機である。

ロッキード・エレクトラ
ロッキード・エレクトラ

 1939年(昭和14年)になると、日本航空輸送株式会社を発展的に解消し、より政府色の強い大日本航空株式会社が発足する。三宅機長が生まれる一年前である。
 路線は中国、満州からパラオ、サイパンなど南方諸島にまで拡大した。

 ここで面白いエピソードをご紹介しよう。全日空の名機長として高名な神田好武機長が語った想い出話である。彼は大日本航空株式会社でパイロットとして活動を始めた。その当時、大日本航空には福岡から沖縄那覇経由、台北行きという内台定期航路があった。使用機はDC-3で台北から那覇に戻る途中、雲中飛行になり那覇の位置が分からなくなってしまった。それで雲の下を飛行して沖縄の島を探すことになったが500メートルまで降りても雲が切れず、300メートルまで下降するとやっと海が見えてきた。その高度で周囲を見ても島影はなかった。燃料は底をつきコックピットでは焦りの色が見え始めていた。
 そのとき、一隻の大型漁船を発見する。このままあてなく飛んでも危機は増すばかりなので、その漁船の横の海上に不時着して救助してもらうことを考えて、低空で燃料がつきるまで漁船の上をぐるぐると旋回を続けた。最初、漁船の看板にいた船員が飛行機に手を振っていたが、あまりにも何度も船のまわりを旋回し続けるので、やっと船員は、この飛行機は道に迷っているんだ、と気づき那覇方面を指した。神田機長はその方向に機首を向け飛行すると幸いにもすぐに沖縄本島が見えたという。那覇空港に着陸する寸前に燃料切れ、あとは滑空で無事、那覇のランウェイに着陸し事なきをえた。漁船に助けられたのは初めてだよ、と神田機長は想い出話をくくっている。

 日本とヨーロッパを結ぶ「幻の国際定期路線」の計画があったのもこのころである。
 当時、満州を中国から独立させた日本政府はソビエトやイギリス、アメリカとの関係悪化で次第に国際的に孤立化を深めていた。それでドイツと友好関係を結び、航空路を東京からベルリンまで中東、中央アジア経由で結ぼうという壮大な計画が両国で立案されていたのである。
 話は遡るが昭和7年11月3日に日本政府、とくに日本軍部は満州に満州航空株式会社を設立していた。その満州航空とドイツのルフトハンザ航空の間で、「国際定期路線、欧亜連絡定期航空」の計画は秘密理に進められていた。
 その協定書の一部を紹介すると、

第一条 両締結者(満州航空とルフトハンザ)は本協定を第三者に対し、厳に秘密を保持する義務を有す。
第二条 本協定の目的はベルリンーロードス(ギリシャ、ロードス島のこと)ーバクダッドーカブールー安西ー新京ー東京の線に予定せられたる航空路により、東京ーベルリン間の共同定期航空を設定するに在り。

 これは全八条からなる締結書で、昭和11年11月25日に結ばれている。
 この計画はその後の両国の事情で実現しなかったが、これは日本最初の国際航空協定であった。
 第二次世界大戦が始まると、民間航空は軍により規制を受け軍管轄下で軍事輸送などの業務が主体となる。そのときの運航の指針は次のようなものであった。

<非常時運航要領>
(1)陸上線運航は二分の一を軍用に供し、残部を以って必要なる定期航空を存続す。
(2)海洋線運航は情勢により全部を軍用に供するか、又は全部を以って定期航空を存続す。

 戦況が悪化するにつれて民間航空は本来の役目を果たせず戦後を迎える。

 昭和20年8月15日の終戦から、対日平和条約(サンフランシスコ条約)が結ばれる昭和26年9月8日までの約6年間は、全面的に日本の民間航空業務は禁止された。
 戦後、官民合同で日本航空株式会社(現日本航空の前身)が設立されたのは昭和26年8月1日であった。
 その年の10月25日、戦後最初に飛んだ定期航空便は日本航空のマーチン202型旅客機(定員36名。双発プロペラ旅客機)の「もく星号」である。
 当時は日本人パイロットもいなくて日本航空がノースウエストからの機材人員とものウェットリースで運航を開始した。機材はマーチン202機を2機とDC-4(定員60名。双発旅客機)1機の合計3機の運航であった。
 もく星号の初便はアメリカ人の機長と副操縦士。キャビンは日本人パーサーとスチュワーデスの2名、乗客36名でまだアメリカ軍の基地としてその管轄下にあった羽田空港(日本に正式に返還されたのは翌年昭和27年7月1日で2160メートルのA滑走路と1650メートルのB滑走路がアメリカ軍の手で完成していた)から伊丹飛行場(現大阪空港)板付飛行場(現福岡空港)まで運航された。

マーチン202
マーチン202

 そのときの巡航高度は6000フィート、速度は約300キロ、大阪までの所要時間は1時間41分、福岡まで約4時間かかった。三宅機長が11才のときである。
 日本人機長が生まれたのは、その3年後の昭和29年11月になる。そして本格的に民間航空の時代が訪れる。
 その年には相次いで民間航空会社が誕生する。2月に日本ヘリコプター輸送株式会社(当時は日本航空からデハビランド・ヘロン機をチャーターして東京と名古屋、大阪間を運航)、3月には極東航空株式会社(デハビランド・ダブ機で大阪、岩国間の定期便を運航)が運航を開始する。
 昭和32年12月1日に日本ヘリコプター輸送、翌年の2月27日に極東航空が合併されて全日本空輸株式会社が発足した。
 DCー3やフォッカー・フレンドシップ、コンベア220、440などが日本の空に就航したのもこの頃である。
 その後、日本国内には大小の定期、不定期の航空会社が生まれた。北日本航空、富士航空、日東航空、東亜航空、そして後に三宅機長が出向することになる南西航空(現JTA)などである。
 昭和38年12月25日、北日本航空と富士航空、日東航空の三社が合併して日本国内航空株式会社が誕生し、三宅機長はその翌年の8月に入社している。
 そして昭和46年5月15日に日本国内航空と東亜航空が合併して東亜国内航空となり、昭和63年4月1日に国際線進出を機に日本エアシステム株式会社と社名を改めた。
 その日本エアシステムは平成9年1月20日に国際線チャーター部門を独立させてハーレクインエアが発足する。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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