航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第7回 三宅島から太平洋へ

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 ハーレクイン8673便は現在、高度29000フィートで順調に飛行をつづけている。
 左手後遠くに静岡から相模湾と東京の灯、そして房総半島の明かりが星空のように闇の中に浮かんでいる。
 この空域は成田空港や羽田空港、名古屋空港に離発着する航空機と一緒になり東へ向かう航路なので混雑し、管制官も飛行機の飛行高度を小刻みに調整している。その絶えまない交信がスピーカーから流れてくる

★「最後の飛行」挿入13

※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

トウキョウコントロール。ジャパンエア1092。リクエスト フライトレベル330」(東京コントロールへ。日本航空1092便です。高度33000フィートへ上昇の許可を願います)
 29000フィートで飛行しているハーレクイン機の後方下、27000フィートを飛行する日本航空1092便が、33000フィートへの上昇をリクエストする。
ジャパンエア1092。セイ アゲイン 360 コレクト?
(日本航空1092便へ。36000フィートですか?)
330 ジャパンエア1092」(33000フィートです。日本航空1092)
スタンバイ」と間をおいて東京コントロールは日本航空機に33000フィートへの許可を与えた。
ジャパンエア1092。クライム メインテイン フライトレベル330
メインテイン フライトレベル330 ジャパンエア1092
 現在、ユナイテッド810、続いてハーレクイン8673、次に日本航空1092が縦に並んで飛行している。まもなく三宅島だ。
グッドイブニング エアカナダ890 275 トゥ 290 リクエスト フライトレベル350
(東京コントロールへ。今晩わ。エアカナダ890便です。現在、27500フィートから29000フィートへ上昇中です。35000フィートへの上昇許可を願います)
 ハーレクイン機の後方を飛行する関西空港発バンクーバー行きのエアカナダ890便Aー340が、東京コントロール関東南Bセクターの空域に入ってきた。
エアカナダ890。グッドイブニング ラジャー スタンバイ」(エアカナダ890便へ。今晩は。そのまま待機して下さい)
 この時間は太平洋に向かう、又太平洋から飛来する飛行機が房総沖に集中しているので、管制官は慎重にコントロールを続ける。飛行高度の調整とともに今度は航空機のエア・スピードをコントロールする。
ノースウエスト27。メインテイン マックポイント85 デュー トゥ トラフィック」(ノースウエスト航空27便へ。航路上に他の飛行機がいるので、速度をマッハ0・85で維持してください)
 管制官がジェット旅客機のエア・スピードを指示する場合は、高高度の巡航中はマッハ数で伝えるのが普通である。(アプローチや上昇中のコントロールはノットを使用)
 ノースウエスト機の「マックポイント0・85」とは、音速を1・00に対する速度比でその85%を意味する。
 マッハ速度は亜音速、サブソニック(マッハ数0・75以下)と還音速、トランソニック(マッハ数が0・75から1・25ぐらい)、そして超音速、スーパーソニック(マッハ数が1・2から5・0)、その上の極超音速、ハイパーソニック(マッハ数が5・0以上)で表わされる。旅客機の場合は製造会社と使用する航空会社がその飛行機の運用限界速度を定めている。
 例えばハーレクイン機のDC-10の飛行中の最大運用限界速度はマッハ0・88(375ノット)と定められ、安全のためそれ以上の高速運航は禁じられている。
 管制官はノースウエスト機の次に成田空港からマニラへ飛行しているエジプト航空機にも速度制限をする。
エジプトエア865。リバース メインテイン フライトレベル350 オールザウエイ アンド メインテイン マックポイント84 ゴー アヘッド
(エジプト航空865便へ。飛行高度35000フィートを維持し、飛行速度マッハ0・84で飛行して下さい)
エジプトエア865。メインテインニング350。アイ アム ゴーイング トゥ 84」(エジプトエア865便です。飛行高度35000フィートを維持し、マッハ0・84にします)
 「マッハ」とは1887年に世界で最初に音の衝撃波を記録したオーストリアの教授エルンスト・マッハの名をとって速度単位として命名された。マックはそのアメリカ発音である。
 三宅島の手前でダウニング副操縦士役が管制官を呼んだ。
トウキョウ。 ハーレクイン8673。リクエスト
(東京コントロール。こちらハーレクイン8673便です。リクエストがあります)
ゴー アヘッド」(どうぞ)
ハーレクイン8673。リクエスト イズ ア ディレクト スモールト オア ディレクト サンズ
(ハーレクイン8673便です。ウエイポイント・スモールト(SMOLT)もしくは、サンス(SUNNS)に直行したいのですが?)
ハーレクイン8673。クリア ディレクト サンズ
(ハーレクイン8673へ。サンに直行を許可します)
 サンズ(SUNNS)は房総沖約50マイルの海上にある飛行ポイントでハーレクイン機が通過予定の八番目のウエイポイントである。

▼飛行地図と飛行プランのナビゲーション・ログ(クリックすると拡大します)
ナビゲーション・ログ

 三宅島が五番目のウエイポイントなのでサンスに直行出来るということは、六、七番目のポイントに迂回する必要がなく距離が短くなる。それは同時に燃料の節約につながる。 民間航空のパイロットのグッド・フライトには安全快適な飛行の次に燃料節約という経済性が重要な要素となるのだ。
グレイト!」と声をあげるネイヤー機関士。
8番」とダウニングも嬉しそうに三宅機長に報告した。
 このフライトで搭載した燃料は予備の燃料をあわせて15万ポンドである。(飛行プラン参照)そして実際にホノルルまでのフライトで消費した燃料は11万1420ポンドだった。搭載燃料にはリザーブフェル(航空法に定められた予備燃料)とエキストラフュエル(悪天候などを想定した予備燃料)、オルタネートフュエル(代替空港、ホノルルに着陸出来ない場合の代わりの予定空港までの燃料)など使用しなかった燃料もあるのでそれを差し引いても、約15000ポンド以上はこのフライトで節約していることになる。
ジャパンエア1092。クリア ディレクト バッキー」」
(日本航空1092便へ。バッキーに直行して下さい)
 管制官はハーレクインのあとを飛ぶホノルル行きの日本航空機にも同じ許可を与えた。
 いよいよ太平洋飛行が始まった。
 三宅機長は先ほどから後方に消えて行く陸地の灯をじっと見つめている。その脳裏にはこれまでの長く、そして瞬く間に過ぎたパイロット人生が走馬燈のように映っているに違いなかった。

三宅機長のパイロット人生

 三宅機長は日本国内航空時代、昭和41年から二年半、沖縄の南西航空に出向している。

「あのころは副操縦士としてコンベア240やYS-11に乗ってました。あるとき、コンベア240で南大東島に飛んだときね。そのころの南大東島の滑走路はまだアスファルトじゃなくてね。コーラル、珊瑚礁を敷き詰めてローラーをかけただけの滑走路でそこへ飛行機を降ろしたんですが、着陸してリバースかけたとき砂煙がわっと上がると、その煙の中で何か黒い鳥みたいなものが飛んだなと思ったんです。
タクシーしているときも路面がガタガタだから気がつかない。それで飛行機をとめてお客さんを降ろしたら、農家のひとが落とし物ですよ、と何か黒いものを持ってくるんですよ。よく見るとそれは飛行機のタイヤだったんですよ」

▼コンベア240
コンベア240

 そしてこんな苦労話もしてくれた。
「当時、沖縄は返還前でまだアメリカでしたから、ATC(航空管制)はアメリカ人がやっていたんですよ。副操縦士として管制官と交信するのですが何言っているのかわからない。それでアメリカ人の管制官と酒飲みにゆきましてね。必死で英語を覚えましたよ。高い月謝だったよね」

 当時の飛行はスリル満点でもあったようだ。
「沖縄は本土と違って琉球レギレーションだったんですよ。アメリカ航法でね。面白かったですね。例えば与邦国島の場合ですが、滑走路のすぐ向こうに丘があってそこに高い煙突があってね。YS-11だったんですが、そのプロシージャーはね。離陸してノーズアップしてギャ・アップ、上がったらすぐ左旋回して海に逃げるんです。日本の航空法ではとても飛べる状態ではなかったですね。
でも、楽しかった。あるとき島に着陸しようとしたら滑走路に牛がいるんですよ。目の前をとつとっと、と走っていくんです。これは駄目だな、と観念したんですが、牛が横へいったので何とか降りちゃいました」

 三宅機長は昭和45年でYS-11の機長になる。YSの飛行時間は5243時間。その内、機長として飛んだのは3241時間という。(コンベア240では約2000時間)

「台風の中でも平気で飛んだしね。YSは自分の身体の一部みたいだった。どんな状態でも絶対に墜落させない自信がありましたね。でも、あのプロペラのコントロールは難しかったな」

▼YS-11
YS-11

 その自信があるYSの乗務で最も辛かったのは深夜便だったという。

「深夜便は東京から千歳、福岡に夜飛ぶのですが、あれは眠かったですよ。夜一時頃離陸して朝着くのですが、で、今の飛行機はオートパイロットがついているので、多少、居眠りしても大丈夫なんですけどね。その頃はオートパイロットがついていなかったものですから、夜中になると眠くなるんです。それで副操縦士の顔を見るとね。やっぱり眠そうな顔して目をつむっているんですよ。起こすのは可哀想だなと思っているうちに自分が眠くなって。すると飛行機の高度が下がり始めて傾いたりするんです。しかしエンジンの音が微妙に変わってそれで目が覚めるんですよ」

 昭和46年5月に会社が合併して東亜国内航空(TDA)になると、三宅機長はDC-9のライセンスを取得する。昭和49年10月11日であった。
 そしてその後DC-9の路線教官や査察パイロット、飛行教官を勤めるが、彼はこのときDC-9(MD-80)で始めて太平洋を渡る経験をする。これが彼が国際線を飛ぶひとつのきっかけとなった。
 東亜国内航空は国内線だけだったので、日本航空や全日空の国際線を横目にみながら社員は、「いつかは国際線に」と未来の夢を持っていた。
 とくにパイロットは離着陸回数が多い国内線で鍛えた操縦の腕前は、他の航空会社には決して負けないという自負に満ちあふれていた。
 当時ダグラス社から飛行機を購入するとダグラス社が依頼したパイロットがその飛行機を日本まで空輸して日本でデリバリーするのが普通であった。将来の国際線へ備えて自社の飛行機は自分の手で外国から運ぼうという機運が、東亜国内航空の社内に生まれたのは当然の成り行きであった。それが国際線への現実的な第一歩につながると信じていたからである。
 DC-9のデリバリーにつづいて、東亜国内航空が初めての大型旅客機としてエアバス・インダストリー社からAー300B2を9機を購入した昭和55年11月27日、フランスのツウールーズから南回りで羽田まで第一号機を自社のパイロットが空輸した。
 それは東亜国内航空のパイロットにとっては初めて経験する本格的な国際フライトであった。

▼DC-9
DC-9

 フランスからエーゲ海、アラビヤ半島を横断しインド洋、東南アジアから香港、そして日本へ2万キロを越えるフェリーフライトで、運航に携わった東亜国内航空の社員たちは国際線の貴重なノウハウを得た。
 三宅機長も前述したようにMD-80をアメリカ西海岸のロングビーチにあるダクラス社から東京までの空輸するチームに参加している。そのときのフライトを次のように話っている。

「ロングビーチで訓練を受けてね。そこからホノルル、ウェーキ、グアム経由で羽田まで運びましたよ。うちの飛行機は国内線仕様だから短距離機でしょう。それにINSも付いていなかった。それで客室にバグタンクといって予備燃料を積みましてね。そして運んだ。INS(慣性航法装置)は仮設して飛ぶんですが、いちいちINSで算出したヘディングをオートパイロットに手動で入れてね。それは苦労しましたよ」(三宅機長)

 当時、東亜国内航空の飛行機にはAー300を除きINSは装着されていなかった。国内だけの使用に限ると航法はVORやADFで充分だったからである。
 INSが装着されていると、INSで算出された機首方位などのデータが直接、オートパイロットに連動されるので、ハーレクイン8673のようにウエイポイントを飛行機自体がトレースして飛ぶが、三宅機長がフェリー(空輸)したMD-80の場合はそれが連動していないので、INSの方位が変わるたびに手動で飛行機の方位を変える必要があった。
 例えばカー・ナビを搭載した自動車みたいなもので、方向はナブに表示されるが、そこへ行くには自分でハンドルを切らねばならないのと同じ状態と考えればわかりやすい。  それにMD-80は国内線短距離仕様なので燃料タンクが小さい。
 ヨーロッパから日本までAー300の空輸のときもステップ バイ ステップで小刻みに離着陸を繰り返しながら飛行した。例えばアラブ首長国のアブダビからバンコクまで飛行するのに長距離機ならノン・ストップで飛行可能であるが、短距離仕様のAー300はそのときインドのボンベイに着陸して給油するなど苦労があった。

▼A300
A300

 MD-80の場合、北太平洋コースでひとっ飛びにアメリカ西海岸から日本までフライト出来ないので、ロングビーチから約4000キロの洋上を飛行してホノルルへ、あとは島を伝って給油を続けながら日本までフェリーするというアドベンチャーフライトになったのである。(三宅機長のDC-9の飛行時間は7500時間)

「あのときね。ロングビーチからホノルルまでの洋上飛行をするとき、かなり北を回わるフライトプランでね。迎え風で強く、燃料がなくなりかけてひやひやしましたよ。たしかホノルルに着陸したときは2000ポンドぐらいしか残っていませんでした」(三宅機長)

 その後、東亜国内航空が日本エアシステムと名前を変えて国際線に進出するために国際線仕様のDC-10ー30を2機購入したとき、三宅機長はMD-80からDC-10に移る。そしてソウルの他にシンガポール5年、ハワイ3年の各定期路線で活躍した。
 そしてハーレクインエア設立と同時に取締役として移り、前述したようにDC-10で世界中を飛び回っている。(三宅機長のDC-10飛行時間は4700時間)
 19500時間という三宅機長の飛行時間が、長い時間かけて少しづつ累積された財産のような時間であり、一人の人間が歩んだ貴重な道のりであることは間違いない。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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