航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第9回 ハーレクイン機、太平洋洋上

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★「最後の飛行」挿入17

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 さきほどまで窓の外に見えていた陸地の灯も後方に去り、今はハーレクインDC-10は漆黒の太平洋洋上を一路東に飛行していた。
デルタ52。クリア プレゼントポジョン ディレクト パーバ レスト オブ ルート アンチェンジ
(デルタ航空52便へ。こちら東京コントロールです。現在地点からパーバ(PABBA)へ直行することを許可します。以後のルートに変更はありません)
デルタ52。プレゼントポジション トゥ パーバ、レスト オブ ルート アンチェンジ」(デルタ航空52便です。現在地点からパーバーへ向かいます。以後のルートはそのままです)
 成田空港発のアメリカ、ポートランド行きのデルタ航空のMDー11に管制官はパーバー(PABBA)への飛行を許可する交信である。
 パーバは茨城県の約160マイル東の洋上にある北緯37度東経143度59分のウエイポイントで、アメリカに向かう北太平洋航路OTR5の入り口となっている。
コンチネンタル8。レーダーサービスターミネイテッド スコーク2000 コンタクト トウキョウレディオ126.7
(コンチネンタル航空8便へ。レーダーによる捕捉は終了しました。スコークは2000 以後は東京レディオ126.7にコンタクトして下さい)
 続いて成田発ニューヨーク行きのコンチネンタル航空Bー777へ東京コントロールから東京ラジオへの移管の交信である。
 日本国内及びその近辺を飛行する航空機は東京コントロールのレーダーで捕捉されているが、海岸線から約250マイル離れるとそのレーダー範囲外となり、以遠は東京レディオ管制が無線交信のみで航空機を誘導する。
 この洋上管制の仕組はあとで述べるが、レーダーサービスターミネイテッドとは東京コントロールの管制限界点を意味している。

 ハーレクイン8673便はメイソンに向けて飛行を続けている。客室では国際線の長距離飛行独特のくつろいだ雰囲気の中で夕食がサービスされ、免税品の機内販売が始まろうとしていた。
 操縦室も一息ついている。三宅機長は今日二杯目のコーヒーをブラックでキャビンに頼んだ。夜の太平洋の空を飛び交う交信がコックピットのスピーカーから絶え間なく聞こえている。
 言うまでもなく太平洋は途方もなく広い。
 この広い太平洋を最初に横断したのはアメリカ人パイロットで1924年(大正14年)のことである。これはリンドバークが大西洋を単独飛行に成功した三年も前のことであった。

太平洋へチャレンジフライト(太平洋の空の歴史1)

 例えば北緯45度上で距離を測ると大西洋はカナダ・ノバスコシヤからフランスの西海岸まで約4700キロだが、太平洋は北海道東海岸からアメリカ西海岸まで約7000キロもある。この広い空を最初に飛行機で飛んだのは、皮肉にも海軍ではなくアメリカ陸軍の飛行隊であった。
 1924年に北太平洋と北大西洋を横断するという壮大な計画がアメリカ陸軍によって立てられ4月6日から9月28日まで176日かかって飛行したという。その内太平洋の横断には47日を要した。
 アメリカ陸軍マーチン少佐らが四機の複葉機を改造した水陸両用機(ダグラスDTー2)でアメリカ・シャトルを出発し、アリューシャン列島に沿って島伝いに日本の霞ヶ浦まで飛行している。
 このフライトは無着陸横断飛行ではなかったが、そのとき使用した飛行機がダグラス社製作であったために、それまで無名だったダグラス社の名が世界に知られることになった。

 参考までに記すと、北大西洋を最初に横断したのはアメリカ海軍のアルバート・リード少佐が指揮する三機の飛行艇(カーチスNC4)で、1919年5月16日、アメリカ東海岸のニューファウンドランドを出発しポルトガルのリスボンまで、途中、アゾレス諸島などの島々で着水して給油をうけながら12日間で飛行した。
 また北大西洋をノンストップで飛行したのは、イギリス人のジョン・アルコックとその友人チームであった。
 1919年6月14日、16時間27分かけてニューファウンドランドからアイルランド西海岸クリフデンまでの無着陸飛行に成功している。
 チャールズ・リンドバークがニューヨークーパリ間無着陸の単独北大西洋横断に成功したのは、それから8年後の1927年の5月である。

 さて太平洋に話を戻すとリンドバークが成功した同じ年の6月に、アメリカ陸軍の二人の中尉によってサンフランシスコ・オークランドからハワイ・ホノルルまで約3890キロの無着陸飛行が行われている。
 三宅機長がMD-80を空輸して飛んだ同じ飛行ルートをレスター・メーランドとアルバート・ヘーゲンのふたりは三発エンジンのフォツカーF7ー3M「アイランズ オブ パラダイス」号で25時間50分かけて飛んだ。

フォツカーF7-3M
フォツカーF7-3M

 この飛行は太平洋洋上飛行の最初の快挙とされている。偏流を測定し現在地を測定しながら太平洋の一点であるハワイまで飛行したことは当時リンドバークの成功と並び評されたという。
 このサンフランシスコとホノルル間の飛行で忘れてはならないのが女性パイロットとして単独飛行に成功したアメリア・イヤハートであろう。
 四十才を前に南太平洋で行方不明になるまで、北大西洋単独飛行(1932年)、カリフォルニアからメキシコシティ、ニューアークまでの単独飛行(1935年)、そしてマイアミからアフリカ、アラビア、インド、東南アジアなどの長距離飛行(1937年)など世界航空史に燦然と輝いた美しい女性パイロットであった。
 1935年1月11日の早朝、アメリア・イアハートはひとり愛機ベガでホノルルからサンフランシスコへ向かった。

ロッキード・ベガの写真
ロッキード・ベガの写真

アメリア・イヤハート
アメリア・イヤハート

それは星のきれいな夜だった。コックピットの窓から手を出せば、触れそうなほど星がすぐ間近に見えた。いままであんな大きな星をあんなにたくさん見たことがない。 下界の真っ暗な海と、空の白い雲と月と星の光、そのコントラストは一生忘れられないだろう

『ラストフライト』 アメリア・イヤハート著(松田鉄訳 作品社)

ハーレクイン機 太平洋の真っ直中へ

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★「最後の飛行」挿入18

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 ハーレクイン機の窓からもたくさんの星が見えていた。アメリアの言うように照明を落とした暗いコックピットから「手を出せば触れそうなほど」に無数の星があった。
アメリカン154。リクエスト エスティメト カルマ
(アメリカン航空154便へ。カルマ(CALMA)の通過時間を知らせて下さい)
 成田空港からシカゴへ向かうアメリカン航空のMDー11へ東京コントロールの管制官が、岩手県宮古の東約400キロにあるウエイポイント・カルマの予定通過時刻を尋ねている。カルマは北太平洋へ向かう航路OTR5の上にある通過点だ。
…1104 エスティメイト カルマ アメリカン154
(こちらアメリカン航空154便です。カルマには標準時間で11時4分の到着予定です)
アメリカン26 リクエスト エステイメイト カルマ
(アメリカン航空26便へ。カルマの予定通過時刻を知らせて下さい)
 シカゴへ飛ぶアメリカン航空154便より35分遅れて同じ成田空港を離陸し同じコースを飛行しているアメリカン航空26便MDー11に管制官はカルマの予定通過時刻を尋ねた。
アメリカン26 エスティメイト カルマ 1114
 1114(標準時11時14分)にカルマに通過なのでアメリカン航空154便のうしろ10分の距離にアメリカン航空26便が飛んでいることがわかる。
 航空無線を聴いていると飛行機間の位置関係を知ることが出来るのは航空フアンにとって空を楽しむ醍醐味のひとつであろう。
トウキョウコントロール。ジャパンエア1092。レベル330 アンド フライトレベル350 オア 370 390
(東京コントロールへ。こちら日本航空1092便です。現在、高度33000フィートで飛行中です。高度35000、または37000、39000フィートへ上昇する許可を願います)
 ハーレクイン機のすぐ北をほぼ同時刻に関西空港を離陸してホノルルに向けて飛行している日本航空1092便が高度を上げるリクエストをしてきた。
シャパンエア1092。トウキョウコントロール リクエスト エスティメイト ベポック」(日本航空1092便へ。こちら東京コントロールです。ベポック(VEPOX)の通過予定時刻を教えて下さい)
ベポック エスティメイト 1112」(ベポック通過予定時刻は11時12分です)
ジャパンエア1092。スタンバイ リクエスト
(日本航空1092便へ。待機願います)

 後に三宅機長が説明する飛行コースのところで詳しく述べるが、今日のホノルルへのルートはベポックを経由して入るトラック11とメイソンを入り口として入るトラック12の並行する二本があり、その間隔は南北へ約100マイルほど離れている。
 そしてその二本のルートは飛行する航空機がフライト前に好きなコースを選択出来るようになっている。
 日本航空1092便はトラック11を、ハーレクイン8673便はトラック12を選んで現在はそれぞれのコースの入り口になるウエイポイントに向かって飛行を続けている。すなはち日本航空は、航路OTR 13を、ハーレクインはその南の航路OTR 15を東に飛んでいるのだ。

昭和六年は日本でも太平洋横断ブームの年(太平洋の空の歴史2)

 太平洋は東に飛ぶ方が西に向かうより楽な飛行となる。なぜなら太平洋の日本近海はジェット気流が、ホノルルなど太平洋中部や赤道付近には貿易風が東から西に吹いているので航空機はその風に乗れる。いわゆる追い風飛行である。
 昭和に入ってその追い風を利用して太平洋を横断する数多くの飛行計画が日本でも立てられていた。
 その最初は1927年(昭和2年)10月に帝国飛行協会(現財団法人日本航空協会)が発表した太平洋横断飛行計画である。
 コースは北海道から樺太、アリューシャン列島の島沿いに途中、給油しながらアメリカまで飛行する北コースで、機体は川西航空機製作所が製造した川西Kー12型単発複葉水上機であった。
 だが、訓練中に墜落、パイロットが死亡しこの飛行機による太平洋横断を断念する。
 日本人による太平洋横断に熱心だった帝国飛行協会は、昭和6年(1931年)に、「北緯45度以内の日本から北緯50度以南のアメリカまで昭和8年8月までに飛行に成功した者に、賞金20万円を贈る」と発表し、朝日新聞社も協賛して話題を呼んだ。
 しかし当時、帝国飛行協会以上に、太平洋横断飛行に情熱を燃やした新聞社があった。
 それは報知新聞社である。

報知新聞太平洋横断計画を発表

 報知新聞はまず昭和6年2月に自社でドイツから購入した二機のユンカースAー50軽飛行機を水上機に改造した「報知日米号」で太平洋横断計画を発表する。

▼報知新聞の記事
報知新聞の記事

 その年の5月。吉原清治操縦士が単身乗り込み、わずか80馬力の飛行機を羽田飛行場から離陸させ千島列島を島伝いにアメリカに向かうが、千島列島の新知島付近で濃霧に遭い、しかもエンジン故障で着水漂流。7時間後に日本の汽船白凰丸に救助される。
 しかし報知新聞社は、一ヶ月後の6月にもう一機のユンカースAー50を着水した新知島まで船で運び、吉原操縦士を搭乗させ、それ以降のコースに再度挑戦を試みるが、飛行機の調子が悪く断念する。
 しかし報知新聞社はいっそう情熱をたぎらせた。
 三回目の飛行をその年内に試みるため、少し大型のユンカースW33を購入し「第三報知日米号」と名付け、日本航空輸送研究所の馬場英一氏に操縦を、当時、海軍で船の航法権威者だった本間清中佐をナビゲーターに、そして無線通信士を井上知義海軍兵曹に依頼して10月に再度のチャレンジを計画した。が、冬の悪天候を考慮してこのプランを翌年まで延期する。
 報知新聞社の空への情熱はこれで終わらない。
 その年すぐにイギリスのカティサーク軽飛行艇を購入し、飛行機と吉原操縦士をアメリカに派遣。アメリカから日本へ太平洋横断飛行を計画し、同時にアメリカのベランカ機を買って、陸軍の名越愛徳大尉と浅井兼吉陸軍曹長にやはりアメリカから日本への飛行を依頼する。
 だが報知新聞のかぎりない情熱も翌年、続けて起こった不孝な事故で終焉を迎えることになる。
 最初の事故は3月29日に起こった。ベランカ機「日の丸号」がアメリカのフロイド・ベネット飛行場でテストフライト中に墜落、操縦をしていた名越大尉が死亡する。
 そしてその二か月後の5月7日、吉原清治パイロットの軽飛行艇、サロ・カティーサーク機もサンフランシスコのオークランドでテスト中に大破した。
 これでアメリカから日本へ太平洋を横断する夢はすべてつぶれた。
 事故は連続すると俗にいうが、9月24日、冬到来で延期していた最後の望みの綱、ユンカースW33機「第三報知日米号」で、午前5時37分に青森県淋代(現三沢市)を離陸、太平洋横断の壮挙についた。このユンカースW33長距離機は最初は貨物機だったが、その後、6人用の旅客機に改造され世界中で記録飛行に使われた。
しかし「第三報知日米号」午前11時すぎにエトロフ島の南を通過するという無線交信を残したまま行方不明となった。

▼報知新聞記事とユンカース
報知新聞記事とユンカース

 大捜索がおこなわれたが機体は見つからず、それから三年後に墜落が確認されて報知新聞社は、昭和12年12月に「謹みて太平洋横断飛行の経過を報告す」と題した記事を発表し、太平洋横断飛行計画を断念したと公表した。
 今はジャイアンツの野球報道で知られる報知新聞が過去こんなにも太平洋横断飛行への情熱を燃やしていた事実に敬意の念を抱く思いがする。

アメリカ人による太平洋横断飛行

 昭和6年は報知新聞の「報知日米号」以外にも太平洋横断飛行が試みられていた。
 5月31日、アメリカ人トーマス・アッシュがエムスコ単葉機「パシフィック号」で淋代を出発する際に離陸に失敗。9月8日に再び挑戦するが、今度はアリューシャン列島に不時着して断念した。その他プロムリー、ゲッティとアレン、モイルの二組も淋代から太平洋横断に挑戦したがいずれも失敗に終わっている。
 無着陸で太平洋を横断に成功したのは、皮肉にも報知新聞がユンカースWー33のフライトを延期した同じ月の昭和6年の10月4日であった。
 アメリカ人バングボーンとハーンドンのふたりは淋代海岸を離陸、北太平洋大圏コースで約7910キロ飛び、飛行時間41時間12分でアメリカのウエナッチに胴体着陸し太平洋無着陸の記録が達成された。

▼パングボーン機「ミス・ビードル号」
ミス・ビードル号

 この飛行機が胴体着陸した理由は機重を軽くするため、淋代海岸を離陸したときに車輪を切り離して捨てるという工夫がされていた。彼らに帝国飛行協会と朝日新聞社から賞金が渡されたことは言うまでもない。
 唯、この離陸が10月だったことを考えれば、もし「第三報知日米号」が離陸していれば、無着陸ではないにしろ太平洋横断の栄誉は日本人の手で達成されたかもしれないと考えたくもなる。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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    • SportsKite
    • 2010年 8月12日 1:37pm

    こんにちは。
    台風の影響でオフィスのある神田あたりでは、雨が降り始めています。
    いよいよ太平洋横断ですね。
    通常、北米大陸に飛ぶときには、大圏航路を選ぶので、成田を離陸後どんどん北上をしますね。何時だったか、NWにてデトロイトへ飛んだときに、座席のモニターで飛行経路をながめていたら、北海道あたりで突然真東に進路変更して、そのまままっすぐシアトルまで飛び、さらにデトロイトまで直行をしたことがありました。
    飛行距離としては長くなるはずなのに、このときには到着が予定より2時間も早くラッキーと思ったら、デトロイトに到着してもイミグレーションの係員が出てきておらずに、機内で一時間以上の待機となってしまいました。結局、手続きが終わってみたら,もともとの到着時間と殆ど変わりませんでした。
    とても強いジェット気流が吹き続けていたので、それに乗っかり燃料消費を抑えたみたいです。飛行中は、ずーと対地速度が1,100km/hを超えていました。
    こんな飛行ルートは、あとにも先にもこのときだけでした。

    • 竜子
    • 2010年 8月13日 8:32am

    ■SportsKiteさん
    せっかく当日に楽しんでいただいたのに、すみません。
    お知らせしましたように、音声がひとつ抜けてしまっていました。申し訳ありません。
    デトロイトですか!!
    デトロイトにいた人も、行ったことがある人も、みな口を揃えて「何もない街ですよ」と言いますが、なぜか行ってみたい場所のひとつです。子どものときに見ていた写真集がまた、産業都市の風景だけだったのですが、なんか海辺沿いが今でいう東京湾のようで、素敵(?!)でした。
    しかし、ずっと1,100km/hを超えているとは凄いですね。燃費も、時間も本当だったらだいぶお得なはずだったのに;;

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