航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第10回 夜間飛行

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 照明を暗くしたコックピットの中では、計器類の光りがほの暗く光り、窓の外の星空とつながっているように見えて幻想的な雰囲気を作っている。
 ダウニング副操縦士とネイヤー航空機関士が夕食を取り始めた。

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★「最後の飛行」挿入19

※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

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 コックピットのスピーカーからトラフックで混雑する東京コントロール関東東エリアの様子が伺われる。管制官がアメリカから飛来してR220航空路を西へ向かう貨物専用航空ポーラ・エアー・カーゴ87便をレーダー捕捉して、現在の飛行地点を知らせる。
ポーラタイガー87。レーダーコンタクト 45マイル ノースイースト オブ ナナック」(ポーラタイガー87便へ。レーダーで捕捉しています。現在位置はナナックの北東45マイル地点です)
 ナナック(NANAC)は三沢市の東約80マイルの洋上にある飛行ポイントである。
ラジャ。ポーラタイガー87。リクエスト 360
(了解しました。ポーラタイガー87便。36000フィートへ上昇許可願います)
ポーラタイガー87 スタンバイ」(ポーラタイガー87便へ。待機願います)
トウキョウ ユナイテッド882 パッシング アリス 1005 クライム フォー フライトレベル 330
 成田空港を離陸したシカゴへ向かうユナイテッド航空882便B747-400が東京コントロールの空域に入ってきた。現在高度10500フィートで銚子沖アリス(ARIES)を通過、高度33000フィートへ上昇中という報告である。
ユナイテッド882。トウキョウコントロール ラジャ
ユナイテッド882。ウィ ハブ トラックワン トゥ パーバ?
(ユナイテッド882便です。パーバ(PABBA)へ向っていいですか?)
 パーバは北太平洋パコッツルートのトラック1の日本側の入り口である。
ユナイテッド882 ジスタイム クリア トゥ プレゼントポジション トゥ ディレクト ケイジス」(ユナイテッド882便へ。今回は現在位置からケイジス(KAGIS)に向かって下さい)
 ケイジス(KAGIS)は房総半島の銚子の沖、約100マイルの地点でその後北太平洋への航路A590をアモットへ向うユナイテッド機には若干まわり道になる。
サンキュ。ディレクト トゥ ケイジス ユナイテッド882
(ありがとう。ケイジスに直行します。ユナイテッド882便)
 次に管制官は東京コントロールが管轄する空域の限界地点に達した成田空港発サンフランシスコ行き日本航空2便に、レーダー捕捉の限界を告げ、以後は東京レディオに移管するようにというハンドオフの指示をする。
ジャパンエア2 レーダーサービスターミネイテッド スコーク2000 コンタクト トウキョウレディオ126.7
(日本航空2便へ。レーダー捕捉の限界地点です。ス クオーク2000 以後は東京レディオ126.7へ交信して下さい)
ジャパンエア2 スコーク2000 126.7 グッデイ
(日本航空2便です。スクオーク2000 以後の周波数126.7メガヘルツ了解しました)
ユナイテッド810 レーダーサービスターミネイテッド スコーク2000 コンタクト トウキョウシディオ 126.7
 今度は関西空港をハーレクイン8673便より先に離陸したユナイテッド航空810便B-747ー400、サンフランシスコ行きが東京コントロールのレーダー限界に着いた。
2000 126.7 ユナイテッド810 フライトレベル330 どうも

 ここでユナイテッド航空810便と同じく、ハーレクイン8673便が関西空港から現在の東京コントロールまでハンドオフされてきた管制エリアを辿ってみると、
 まず、関西空港デリバリー管制で飛行プランの承認を受け、関西空港のグランドコントロールへハンドオフ、そこで滑走路までの地上管制を受けた。次は関西空港のタワーコントロールの指示で離陸。離陸後は関西空港ディパーチャー・コントロールのレーダー誘導で上昇。ここまでが飛行場管制のエリアである。
 そして航空路に入るとエアールートを管制するACC(エアー・コントロール・センター)の管制下に入り、東京コントロールの紀伊セクター133・5、次に関東南Cセクター124・55、三宅島近くになると関東南Aセクターに引き継がれ、現在は関東の太平洋空域をコントロールする関東東セクター133.6のエリアにいる。
 ハーレクイン8673は出発から現在まで無線機の周波数を八つも変えて飛行していることになる。
 そしてこのあと、東京レディオからサンフランシスコ・オークランド管制に入って、ホノルル管制へとハンドオフされてゆく。
 オートパイロットを作動させ、楽に飛行しているようにみえる航空機もいろいろな規制の中を飛んでいるのだ。
 そのオートパイロットも無かった時代、広大な太平洋に定期路線を就航させるべく情熱を燃やした航空会社があった。

太平洋へ民間定期路線就航 パンナムの時代(太平洋の空の歴史3)

 太平洋を乗客を乗せて飛行した最初の航空会社は「パンナム」の愛称で知られているアメリカのパン・アメリカン航空であった。
 太平洋の民間航空の歴史はパンナムの歴史でもある。そしてそれはひとりの男の空への夢に支えられた歴史でもあった。
 1927年(昭和2年)3月14日フロリダを起点にして、キーウェストとキューバのハバナを結ぶ144キロのアメリカ最初の国際航空路をもつ小さな航空会社が生まれた。 それが情熱の人、ホワン・トリップが設立したパン・アメリカン航空である。

▼ホワン・トリップ
ホワン・トリップ

 1927年といえばリンドバークが大西洋を、メーランドとヘーゲンがサンフランシスコとホノルルの間を無着陸で飛行した年である。
 そして翌年にはホワン・トリップはマイアミとハバナ間を就航させ、その後バッフアローやニューヨークにもあった小さな航空会社を統合させて本格的にパン・アメリカン航空の創業を開始する。
 当時の主力機種はフォツカーF7-3M、八名の座席を持つ3発エンジン機であった。
240馬力のエンジンを3基、最大離陸重量8800ポンド、飛行距離は660マイルである。

▼フォッカーF7-3と客室
フォッカーF7-3と客室

▼フォッカーF7-3
フォッカーF7-3

 ホワンは空に夢をかけた野心家であった。祖父のホワン・テリーはキューバの富豪で船乗りで、ホワンはその祖父から冒険心と野心を受け継いで育つ。
 エール大学では飛行クラブを作り、大学を一時休学して海軍の爆撃機の操縦士になったほど飛行機が好きであったという。
 エール大学を卒業すると銀行に入るが、空への夢をあきらめきれずに航空事業家に転身する。
 最初、ホワンは空軍の払い下げの中古飛行機を改造し、その飛行機でニューヨークの社交界の名士を別荘に運ぶという航空会社をつくる。ボストンとニューヨークの郵便輸送も始めた。そして30才のとき、パン・アメリカン航空を設立する。
 国際線運航は政府の認可が必要なので、彼はエール大学時代の人脈でワシントン政界にコネを作る。ホワンの妻の兄はルーズベルト大統領の国務長官であった。
 次々と郵便輸送と国際線の認可を手に入れると、彼は矢継ぎ早にキューバ、中南米、南米、アメリカ東海岸に路線を拡大し、パンナムを創立して5年後の1932年には、約二万キロに達する中南米路線をもつアメリカ最大の航空会社に発展させている。
 ホワンは路線を拡張する一方で新しい飛行機の開発に全力を注ぐ。パンナムが使用した飛行機はアメリカ航空界を代表する名機ばかりである。
 例えば、フェアーチャイルドFC-2(定員6名、プラット&ホイットニーの450馬力エンジン一基)。フォード・トライモーター・シリーズ(定員12名、420馬力エンジンx1と450馬力エンジンx2)。ローッキードL10エレクトラ(定員10名、450馬力エンジンx2)などである。
 その中でも一際、輝いている飛行機は、シコルスキーF7-3大型飛行艇であった。

▼シコルスキーS-40大型飛行艇
シコルスキーS-40大型飛行艇

 彼は祖父が、そして先祖が乗った快速帆船にちなんで、その飛行艇を「アメリカン・クリッパー」と名付けた。パンナム最初のクリッパー命名機である。
 次にホワン・トリップが目をつけたのは太平洋であった。
 当時アメリカ政府が中国に市場拡大を求めていた経済的背景もあり、ホワンはアメリカと中国を結ぶ太平洋に定期便を就航させるという壮大な夢を抱く。
 ルートはふたつ考えられた。ひとつはサンフランシスコからアラスカ西海岸、アリューシャン列島、日本、マニラ、香港を結ぶ北太平洋コースで飛行距離は約14000マイル。もうひとつはサンフランシスコからホノルル、ミッドウエイ、ウェーキ、マニラ、香港を結ぶ太平洋横断の海洋コースで飛行距離は約8000マイルである。
 最初、ホワンは島伝いの北大西洋コースが距離は長くなるが途中、給油や安全面で現実性があると考えていた。
 当時の飛行機の航行距離は双発のロッキード・エレクトラで800マイル。シコルスキーF7-3飛行艇でも1200マイルなので長距離の海洋横断には無理があったからだ。
 そしてホワンは大西洋を単独横断して名を馳せるチャールズ・リンドバークを技術アドバイサーに迎えて、1931年夏、コースの調査のためにリンドバーク夫妻に北太平洋のルートを香港までの飛行を依頼する。
 リンドバーク夫妻が単発のロッキード・シリウスでニューヨークを発ち、カナダ東海岸、アラスカのノーム、アリューシャン列島からカラフト、北海道の根室を経て東京に飛来したのは、昭和6年(1932年)の8月である。その年は奇しくも報知新聞社の「報知日米号」が青森県淋代海岸からアメリカへ太平洋横断に飛び立った年でもあった。

▼リンドバーク機
リンドバーグ機

 リンドバークの調査の結果、パンナムの飛行ルートは北太平洋コースに決まったが、途中通過するロシア政府の反対で許可が出ず、結局ルートは太平洋の中央を横断するコースに決めざるをえなかった。
 しかしこのルートにはノン・ストップで飛行しなければならないサンフランシスコとホノルル間の2494マイル(約3890キロ)という当時の飛行機の航行距離では想像を絶する太海原が横たわっていた。

▼パンナム太平洋開発飛行ルート
パンナム太平洋発飛行ルート

 この大海原は冒険飛行やチャレンジフライトならともかく、乗客をのせた定期便を就航させるには長すぎる距離であった。
 ここでホワンの夢は挫折するかに見えた。
 しかし彼は途方もない方法でこれを実現する。
 それは航行距離が3000マイルを越える新しい航空艇(フライングボート)の開発であった。
 すでに彼はシコルスキー社にカリブ海や南アメリカで使用する1200マイルの航行距離を持つ飛行艇、シコルスキーS-42(定員32名、プラット&ホイットニー700馬力エンジンx2、離陸総重量38000ポンド)を持っていたので、シコルスキー社にS-42の航行距離を延ばす改良型とマーチン社に新しい大型飛行艇を発注する。
 そして三年後の1935年9月22日、彼の情熱は乗客を乗せたマーチンM-130大型飛行艇を太平洋に就航させた。
 41名の定員を乗せて3200マイルも飛ぶことが出来る大型飛行艇を、彼は「チャイナクリッパー」と名付けた。当時、夢の飛行機と騒がれた歴史的航空機である。

▼チャイナクリッパー
チャイナクリッパー

 「チャイナ・クリッパー」の出発の様子はアメリカ全土にニュースとして流され、記念切手までが発売されたという。そしてハンフリー・ボガード主演で映画「チャイナ・クリッパー」(邦題「太平洋横断」)が製作されるなど、ホワン・トリップの名とパン・アメリカンの「チャイナ・クリッパー」は一躍有名になった。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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    • 武田一男
    • 2010年 8月20日 12:20am

    パンナムの創立者はJUAN TRIPPE。ですからフアン・トリップではなく、ホアン・トリップが正しい。僕の原稿通りに記事をアップしてください。これは過去、パンナム航空に確認済みのことです。

    • 竜子
    • 2010年 8月20日 9:42am

    ■武田さん
    ファン・トリップ→ホワン・トリップ
    15箇所、元に戻しました。
    ご指摘いただき、すみません。別途ご連絡いたします。

    • 武田一男
    • 2010年 8月20日 10:33am

    竜子編集長  どんな理由にせよ著者に無断で原稿を修正しないでください。もし、修正する必要が生じたら、必ずアップする前に電話かメールでご連絡下さい。それから、原稿は出来るだけ完全な形で公開したいので(先週も音声挿入部分が落ちていたことなどありますので)、来週から「最後の飛行」をアップする前には事前にテストページで確認させてください。それがないかぎり「最後の飛行」の公開は中止してください。よろしくお願いします。もうひとつ「最後の飛行」の更新日は木曜ですか? 水曜ですか? 今は決まっていないようですので更新日の曜日を至急決めて、更新は必ず、決まった日の朝にしてください。お願いします。 

    • SportsKite
    • 2010年 8月20日 1:55pm

    こんにちは。
    初めての中東での海外ミッションに出かけるときに、羽田空港からパンナムの世界一周便(西回り)で出かけ、半年後に帰国したときには、同じくパンナムの東回りでした。テヘランでB4がエンジントラブルを起こし、経由地のデリー、バンコク、香港でそれぞれ追加の部品交換をしながらの飛行で、ひやひやした覚えがあります。キャプテンが、エンジントラブルの内容を詳しく説明したので、機械工学専攻の僕としては、トラブル内容が具体的に分かりすぎて、いやな気分でした。
    その後のUS担当時代、何度パンナムで太平洋を往復したか知れません。
    懐かしいです。

    • 竜子
    • 2010年 8月21日 8:15am

    ■武田さん
    公開は、水曜日の朝にします。
    テストページの件も了解しました。その他の修正についてなど詳細についてはご連絡さしあげた通りです。
    よろしくお願いします。
    音声を落とした件についても、申し訳ありませんでした。
    ■SportsKiteさん
    コメントありがとうございます。
    SportsKiteさんは、世界をたくさん回られているのですね。そして1回が長い! うらやましいです。
    部品を交換しながら飛行するというのは、聞くだけでも綱渡り飛行…。怖いですねぇ;;
    パンナムは、私自身は乗ったことがないです。
    以前、ユナイテッド航空の社員の方が自宅にパンナムの客室を再現された方がいるという記事がありました。
    http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20091028_panam_enthusiast/
    アメリカ国旗の色で、キャビンができていましたが、SportsKiteさんの乗った客室も、このような彩色だったのですか??

    • SportsKite
    • 2010年 8月21日 8:45am

    おはようございます。
    一カ所に半年も滞在をしたのは、最初の海外出張のみです。
    僕が海外出張を始めた頃は、ビジネスクラスは無く、エコノミーとファーストクラスの二種類のみでした。
    若い頃は当然エコノミーばかりで、パンナムのファーストクラスの客室は知りません。
    当時のパンナムのCAさんは、いかにもプロという感じで頼もしかったです。

    • 竜子
    • 2010年 8月22日 11:13am

    ■SportsKiteさん
    うぅ…いいですね。カッコいいです。
    クラスがあるというのは、当時は海外の線だけだったのでしょうか。
    「クラス」ってなんだか面白いです。

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