航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第13回 太平洋航路開発、日本航空の挑戦

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太平洋航路開発、日本航空の挑戦(太平洋の空の歴史5)

 銀座五丁目にある不二家ビルの七階に日本航空文化事業センターがあった。そこへ太平洋戦争後の民間航空の話を取材するためにコーディネーターの吉田さんを尋ねた。
 彼は日本航空が戦後最初に太平洋横断の定期便を就航させた頃、運航管理に携わったディスパッチャーである。
 もう七十四才ということだったが、七階の受付に姿を見せた吉田さんは驚くほど若々しかった。六十代といわれても納得しただろう。
 三宅機長もそうだった。最初に羽田空港のハーレクイン東京事務所でお目にかかったとき、その精悍な風貌と機敏な身のこなしは定年を迎えてラストフライトをする年齢にはとても見えなかった。
 このふたりの共通点は「空」が大好きなことである。そして「空」に夢を描いたことである。
 吉田さんは現役引退後十数余年、未だに「空」に関わりを持っていたいから、と週一回、日本航空文化事業センターでコーディネートの仕事をされているという。無邪気とも言える空への憧れは人間を不老長寿にする何かがあるのだろうか。
   「僕が日本航空に入社したのは昭和26年の10月の末です。
    丁度、国内線が飛び初めて五日後でした」
 終戦後、日本の民間航空事業はアメリカ軍の手により跡形もなく解体され、わずかに残った航空機も完全に破壊された。そして6年の歳月の後、吉田さんが入社した昭和26年(1951年、サンフランシスコ平和条約が締結された年)の八月一日に、やっと日本航空株式会社(現日本航空の前身)が設立さて民間航空再開の第一歩が始まったのである。
 吉田さんは陸軍の航空士官学校の在学中に終戦を迎える。
 飛行機に乗りたい一心で日本航空に入社するが、飛行時間が少なかったことから希望がかなわず、運航管理でディスパッチャーを目指す。当時は戦前の航空会社、大日本航空や満州航空、それに陸軍海軍で数千時間の飛行経験があるベテランパイロット逹が今や遅しと民間航空の再開を待ち受けていたからである。
   「入社してから飛べないのならせめて飛行機の音の聞こえるところで仕事をしたいと
   羽田空港に10年いました。それで運航管理者の道に進んだわけですよ」
 吉田さんはディスパッチャーの草分けである。ディスパッチャーのライセンスナンバー23号。すなはち日本人として23番目にディスパッチャーになった古参の運航管理者である。
 23番という番号は「今や伝説的な古い番号ですよ。(日本民間航空の歴史で)吉田さんは貴重な存在の方ですね」と、ディスパッチャーであり、現ハーレクインエアの東京運航事務所の末永所長はいう。
 そんな吉田さんも当時は全く新しいアメリカ方式の運航管理技術を英語で学ばなければならない苦労の時代であった。
   「当時、日本では運航管理者の試験制度が確立していなくて、
   アメリカのディスパッチャーライセンスを取得して
   それを日本の航空局で認定してライセンスを出していた頃でしたからね」
 日本航空待望の日本とサンフランシスコ間の太平洋路線は、吉田さんが入社して三年後の昭和29年に初就航するが、終戦からそれまでの間は太平洋路線には戦勝国のアメリカとカナダの航空会社が独占的に就航していた。
 占領下の日本に昭和22年(1947年)7月、ノースウエスト航空がニューヨークからアンカレッジ、アリューシャン列島のコールドベイ、セミヤで途中給油して東京、マニラに定期便を就航させ、続いて8月にはパンアメリカン航空がサンフランシスコからホノルルとウェーキ島経由で路線を開設し、その後、カナディアンパシフィック航空がバンクーバーからアリューシャン列島ルートで東京経由、香港までの定期便を就航させた。
 そして日本航空が就航を開始した昭和29年(1954年)になると、パンアメリカンが週6便。ノースウエスト航空が週3便。カナディアンパシフィックが週6便(そのうち4便は香港まで)に増便していた。
 またその当時、日本(東京)に乗り入れる外国の航空会社は、ノースウエスト、パンアメリカン、BOACイギリス航空、カナディアンパシフィック、カンタス航空、フィリピン航空、タイ航空、シビルエアトランスポート中国、KLMオランダ航空、SASスカンジナビア航空、エールフランスなど第二次大戦戦勝国の11社に及び、当時日本からの海外旅行旅客数は外国人を含めて年間約8万6000人だったという。
 そんな状況の中で日本航空の太平洋線の初便は、昭和29年2月2日に東京羽田空港を離陸して、ウェーキ島(給油)、ホノルル、サンフランシスコへ向けて飛行を開始したのである。
 使用機種はダグラスDC-6B。4発のプロペラ旅客機「シティ オブ トウキョウ」号で、2名の機長と副操縦士、航空機関士、航空士の各1名はすべてアメリカ人で、日本人は航空機関士と航空士各1名、客室はスチュワード2名とスチュワーデス3名の計7名が乗員に選ばれている(太平洋線ですべて日本人クルーで運航したのは4年後の昭和33年4月1日であった)。

▼ダグラス6B
ダグラス6B

 初便の有償乗客はわずか5名で、乗客より乗員のほうが多いフライトであったが、そのフライトはナショナルフラッグ(国旗を翼につけた)の第一便として新聞の見出しになり日航関係者はむろん日本国民に大いなる希望ト夢を与えたという。
 その年はビキニ環礁での原爆実験により第五福竜丸が被爆し、力道山の空手チョップがブームを巻き起こしていた年である。
 日本航空は発足当初から一年間は運航をノースウエスト航空に委託していたので、機長と副操縦士はすべてアメリカ人であった。その間、戦前、戦中に数千時間の飛行時間を持つ日本人のベテランパイロットも、まず客室乗務員パーサーとして添乗して「盗み聞き、盗み見て」アメリカ方式の運航を学び、慣れ航空技術を慣熟していったのである。
 自主運航を始めてからも、サンフランシスコのオークランドにあるトランス・オーシャン航空とアメリカ人コックピット・クルーを派遣する契約をしていたので、日本人機長を育成するまでは、アメリカ人パイロットが”我もの顔”に幅をきかせていた。
 戦勝国アメリカと敗戦国の日本の差は、当時のパイロット養成にも大きな隔たりとして立ちはだかって、当時の日本航空の社員とっては屈辱的な毎日であったという。
 そのころアメリカ人の月給は1000ドル。1ドル=360円レートだったので日本円にすれば約36万円。日本航空の社員の一ケ月平均給与が約8000円だったので、アメリカ人機長の収入は日本人社員の45名分に相当した。
 しかも日本人機長が一人誕生すると、必然的にアメリカ人機長が一人解雇されることになるので、日本人は副操縦士まではなれても、なかなか機長昇格は困難であった。
 日本航空第二期の機長、水間博志さんはその著作「おおぞらの飛翔(共同通信社)」の中で、当時の日本航空は「日航米国株式会社」だったとその様子を述懐している。

「機長になるには彼、ターナー天皇(註:当時のアメリカ人の最高運航責任者、キャプテン・ターナー)の厳重なフライトチェックを受けなければならないからだ。相手は伝家の宝刀を持った権力者である。ちょっとでも不都合なことがあったり、意見が衝突したり、機嫌を損なうことをしたら、すぐ、「フェール(不合格)」の烙印を押されるのだ。・・・超ベテランの古参パイロットたちは、技術的には修得しても、チェックですぐ「ケチ」をつけられてしまうのだ。このころはなんでも米人優先だから「日航米国株式会社」と呼ばれていた」

おおぞらの飛翔 水間博志著 共同通信社)

 しかし空に夢を托し、日本人の手による完全な自主運航を熱望していた当時の日本航空の社員一人一人にとっては、その敗戦国の屈辱が次なる発展への大きなエネルギーになったのも事実である。

「アメリカ人に負けずに自分たちの手で一日も早く自主運航をしょうという意欲がみなぎっていた時代でした。みんな目をキラキラさせて仕事していましたね」

 そこでひと息入れてお茶を飲んだ吉田さんが、そうだ、羽田ーホノルル間の飛行でおもしろいフライトがあった、と日本航空ダグラス6Bが、羽田空港-ホノルル間をノンストップで飛行した話を披露してくれた。

「とても印象にのこっているのですが、6Bの時代に一回だけ東京ーホノルルを直行したことがあるんですよ」
 その直行便は吉田さんにとっての忘れられない思い出になった。

 東京ーホノルル間の区間距離は約6165キロ。ダグラス6Bの航行距離は約4000キロ。DC-6Bのキャバシティを2000キロ以上も超えていた。だから、通常は太平洋上の島ウェーキ島で途中給油をするのだが、直行便も余裕はないが、しかしやりようによっては可能な範囲であると考えていた日本航空の運航スタッフは密かに東京とホノルル間の直行フライトを行うチャンスを伺っていたという。
 吉田さんは言う。

「飛行距離で重要なことは最短時間コースです。すなはち、タイム・フロント・メソッドなのです。エンジンの燃料消費は出力と時間がファクターであり、距離は結果です。もし、最短距離を飛ぶのなら大圏コースを飛べばいい」

 すなはち、当時の日本航空のスタッフは燃費の良い燃料を工夫し、気象で最高の追い風を受ければDC-6Bはキャパシティを超えて最短時間コースで飛行可能と考えていたのだ。また、現在、自動車業界で環境問題のために作られているスーパーリーンとよばれる超希薄な状態にした燃費効率の良い燃料の開発に、その頃から日本航空のスタッフはたずさわり、その燃料のテストのためにも、ぜひ、DC-6Bによるホノルル・ダイレクト・フライトを実施したかったのである。
 そのチャンスは昭和32年(1957年)のチャーターフライトというかたちで訪れる。
 そのときのクルーは当時、チーフ・パイロットだったターナー機長と日本人の長野英麿機長、杉山益雄機長、日本人の藤井、勝野航空士と航空機関士はヘンダーソンと五味雄二郎の計7名であった。

 長野英麿機長は日本航空の第一期の機長で、杉山益雄機長は第二期、藤井航空士は昭和29年のサンフランシスコ初便に搭乗した日本航空の草創期から航法、通信業務に取り組んだチーフナビゲーター、勝野航空士はこの直行便のプランニングをした人で、パフォーマンスチャートなど運航のシステム作りをした航法のベテラン、五味航空機関士は日本人最初のフライトエンジニアだった。
 この直行フライトは当時アメリカに「追いつけ追い越せ」という熱意に燃えた日本航空の運航スタッフには日頃の努力の成果を試す絶好の機会でもあった。
 だが、東京ーホノルルをダグラス6Bを使ってダイレクトにフライトするということは、DC-6Bがダグラス長距離旅客機の傑作機として評判が高かったものの、テストフライトならまだしも、乗客を搭乗させてのフライトであるので、かなりのリスクがあるアドベンチャーであった。
 そのころSASスカンジナビア航空では、この飛行機でコペンハーゲンとロスアンジェル間のポーラルートを開設して話題を呼んでいた。(その初飛行は1952年11月19日)だが、ポーラルートは直接、コペンハーゲンからロスアンジェルに無着陸で飛行するのではなく、途中、アイスランドのレイキャビックと北米大陸のギャンダーで給油して飛行するものであった。このポーラルートではレイキャビックとギャンダー区間の洋上飛行距離約2615キロが最も長かったが、それでも東京からホノルルまでの長距離洋上飛行にははるかに及ばなかった。
 問題は6Bで東京ーホノルル間を無着陸で飛行するには、前述のように「最短時間コース」をフライト出来るかどうかにかかっていた。もし、航法の狂いや風に流されて大回りをすることにでもなれば、6Bの航行距離を上回ってしまう。ホノルルは太平洋のど真中である。代替空港としてはミッドウェイ島まで引き返すしかない。
 この冒険的な飛行を乗客を乗せた安全な飛行レベルにするためには、新しい燃料の開発と共にナビゲーションの技術と気象予報を含めた正確な航法予測が必要だったのである。

 それを日本航空の運航スタッフの情熱が可能にした。
 まず、当時のナビゲーションについていえば、現在のようにコンピューター航法ではなく、電波によるロラン航法や推測航法が主だった。それらはきめ細かな手作業が必要であり、むしろアメリカ人より日本人向きで、またたく間に日本人のナビゲーション技術はアメリカ人の技量を追い越してしまった。
 例えば、ナビゲーションの基本になる太平洋の航法地図を見ても当時の日本航空運航スタッフがどれだけ熱意をもって仕事をしていたかがわかる。
 現在はジェプソン(JEPPESEN)というアメリカの会社が製作した航空地図を世界の民間航空が使用しているが、そのころは太平洋航路の地図はアメリカ軍の地図しかなかった。それで日本航空の運航スタッフは、より正確で使いやすい独自の太平洋航路図の製作に着手してそれを完成していた。

「私達が独自で製作した航法地図があるのですが、これは良く出来ていましてね。そのころ日本に定期便を持っていたあのパンアメリカン航空が、その地図をぜひ譲って欲しいと申し出があり、事実、数百部を購入した筈ですよ。嬉しかったな」

 また、当時、日本航空運航部には気象課というセクションがあった。
 気象課では大学で地球物理学を学んだ社員たちが、すでにそのころ、ジェットストリームなどの高層気象を研究していた。周知のごとくジェットストリームは日本の上空を西から東へ吹く強風帯である。時には太平洋の中央部まで吹いている。アメリカ軍はB-29の日本空襲以前からこの高層風の研究をしていた。
 気象衛星もないこの時代、日本航空の気象課のスタッフもジェットストリームを含めた高高度気象の研究では当時、驚くほどの成果を上げていたという。

「あまり知られていないことですが、東大や京都大で地球物理学を研究していた連中が、我社に入り、現在のコンピューター予報顔負けの精度の高い日航独自の予報図を作成していましたね。そのデータを日本はむろんホノルルやアンカレッジなどの気象台に送って彼等は洋上飛行する航空機の運航に貢献していました。すごく優秀な連中でしたよ」
 そして日本航空の運航、気象のスタッフは最短時間コースの飛行を見出す方法「タイム・フロント・オブ・メソッド」を開発した。それらの地上支援の体制を試す上でも、ぜひ、6Bによる東京ーホノルル間の長距離洋上無着陸飛行にチャレンジしたかったのである。

「7CやDC-8などで将来、直行便を出す日も近いので、そのためにも6Bで東京ーホノルルを試してみたかったのです。丁度、そんな折、東京にハワイの選抜高校の野球チームが22名かな、来ていたのです。彼等がハワイに帰る話が営業からあったのでタナボタで稼ぎながら試験飛行が出来る。それで念願のホノルル直行便を飛ばそうということになった。むろん臨時便です。チャーター便ですよ。便名はJL601A(アルファ)。使用機体はダグラスDC-6Bのパンアメリカン航空からリースしたN(アメリカナンバー)5024K。
1957年9月1日の夕方、羽田を出ましてね。ホノルルまでの所要時間はブロックタイムで16時間11分、実飛行時間15時間55分で飛んだのですよ。今ではニューヨークに飛んでホテルに入って一杯やっている時間ですがね」

 結果としてこのフライトは各方面から高い評価を受け、その後のDC-7Cでの東京ーホノルル間の無着陸の定期便の開設(1958年2月)やポーラルートの運航方式の開発などにつながる技術面の貴重な情報を得、同時に運航スタッフの経験と大いなる自信にもなり、日本の航空歴史に残るメモリアルな飛行になったのである。

 このように太平洋の横断フライトは過去、いろいろな人の苦労と努力と情熱で開設されてきた。ハーレクイン8673便はその先人の夢の上を今、ホノルルへ向かって順調な飛行を続けていた。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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    • Mattari
    • 2010年 9月10日 1:14am

    うーむあの6BがHND-HNLを直行した記録が残ってるとは
    初耳で驚きです。だからDC-8-53でもアンカレッジから
    北欧へギリギリの燃料で飛ばす技術を成熟させたわけね。。
    あの老舗パンナムがJALの作った地図を
    買いに来るなんて話も痛快ですね。
    長野英麿氏は確か記念誌の「DC-8 FOREVER」でも対談で
    出てきたのを覚えています。やはり凄い人たちなんだな。。

    • 竜子
    • 2010年 9月12日 12:01am

    ■Mattariさん
    パンナムが地図を買う、この話って日本人の魂がこもってて、いいですよね!
    第1期の長野英麿氏のお名前で、思い出すとはさすがMattariさんですね。

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