第3回 プロローグ「生い立ちから入社まで」3

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<学生運動で2度逮捕される>

高校になると、市内の5つの中学から本当に勉強のできる連中が集まっていて、やはり記憶力の悪さを努力でカバーするには限界があり、1学年は600名でしたが、1年の時を除き、2年、3年と、ずっとトップクラスには入れませんでした。

田舎の中学と町の中学のレベルの違いを認識させられることになりました。これは、また私が勉強に関して味わった最初の挫折でした。高校入学当初は国立大学を狙っていたのですが、早くも2年でそれを諦め、私立の外国学部に絞っていました。大学受験で福岡という都会に出て、そこで初めて行き交う人と車の多さに驚き、交差点の信号機を初めて見たのもその時でした。高校迄、私は「こんな田舎の生活は嫌だ、外の世界に出たい!」と常に思い続けていました。20数年余り前に流行った「オラ東京さ行くだ」の歌そのものの生活だったのですから、あの歌には共感を覚えたものでした。

高校時代に、当時は「西洋かぶれ」と言われていた同級生の町医者の子供がいて、彼から外国、特に欧米諸国の話を聞かされたことがキッカケで、その頃から外国にほのかな憧れを抱きはじめたようです。とくに彼の家で聴かせてもらったイブ・モンタンのシャンソンに西洋文化の香がして、フランスという国に行ってみたいと漠然と思ったものでした。高校3年の時に、義父が希望していた弁護士か外交官(可能性は低いのに)から商社マンに職業選択して、英語は誰でも話すので、ここはフランス語を習得すべく、福岡にあるフランス人教師のいた西南学院という私立大学に入学したのです。

入学後直ぐにフランス語同好会と空手部に入会して、初めて野良仕事から開放されて、「捨て子だ、もらい子だ!」と変な目で見られたり、言われたりされることもないので、カゴから飛び立った小鳥のように初めて「自由」を実感して、青春を謳歌していた時期でもありました。当時は、長髪やフォークソングが流行し始めた頃でもあり、私もギターを弾き始め、シンガーソングライターを気取っていたのもこの頃でした。当時の仲間で、その後、プロ歌手としてデビューしたのが財津君を中心としたグループ「チューリップ」です。

フランス語の授業だけは欠かさず出席して、最前列で熱心に勉強しました。そのうちに、いつも最前列に4名の学生がいたので、親しくなり、同じく就職も外国に行ける企業を希望していたこともあって、我々は「ダルタニヤンと三銃士」とフランスの小説から名前をとって自称していました。ちなみに私がダルタニヤンでした(笑)。最終的に、1人を除き3人は外国に行く企業に就職することになったのです。大学3年から学生運動が盛んになり、九州では最高学府の国立九州大法学部にいた高校時代の親友が学生運動のリーダーをしていたこともあり、私も学生運動にのめり込んでいきました。その彼は、内ゲバで大怪我を負い、その後退学処分になりました。

九州の佐世保に米国の原子力艦エンタープライズが入港した時に、私も反米デモに参加して、機動隊とぶつかり、その間、ヘルメットやアノラックに機動隊の装甲車から放水された塩素系塗料が付着していたので、いつの間にか写真も撮られて、これが後に逮捕のキッカケになったのです。

当時、昼間は我々学生は機動隊とゲバ棒と警棒で殴りあうのですが、相手はプロで身体もデカク、まともにぶつかったら勝負にならないのですが、報道陣が周囲にいるので、機動隊の連中も手加減するのです。ただ、機動隊のなかには、我々学生を憎んでる連中もいて、彼等は1人を4,5人で取り囲み、盾で報道陣から見えないようにして、警棒で打ったり、蹴ったりする連中もいて、仲間の多くが骨折したりしていました。しかし、その内に我々は徐々に追い詰められて佐世保商店街のアーケードに逃げ込んでいました。最初の頃は、商店街の人達は我々に好意的で、我々が逃げ込めるようにシャッターを少し開けておいてくれて、逃げ込むと彼等はお風呂を用意してくれて、放水車の塩素系の塗料で顔や手に火傷を負ったのを洗浄させてくれたり、食事を提供してくれたり、なかには闘争資金をカンパしてくれる人もいました。しかしその後、アーケードが機動隊との主戦場になると、我々は投石や火炎瓶で機動隊に応戦するので、商店街の被害も甚大で、我々に好意的だった商店街の人達も我々を疫病神と思うようになっていきました。そして、ついに私は佐世保大橋の機動隊との衝突で、逮捕されたのです!

取調べでは、執拗な拷問(指の間に鉛筆を挟み締め上げる)にも鳴かなかった(白状しなかった)ので、3日後に釈放されました。その後、再度逮捕されましたが、前回と同様、拷問にも耐えて黙秘を続けたので、結局取り調べを担当していた主任警部補のK氏も諦めて、と言うより私はリーダー格ではなかったし、留置所も満杯だったので、釈放してくれたのでした。このK氏とは、その20年後、彼が警察庁からの出向で台北の亜東協会(領事館)に勤めていた時に奇遇にも台湾でのパーテイー会場で再会するのですが、この話は別の機会にお話しすることにします。

夜、屋台で我々が一杯のラーメンやチャンポンを2人で分け合って食べていると、横にいた機動隊の連中が見かねて、奢ってくれることもありました。仲間の筋金入りの活動家は「国家の犬の奢りが食えるか!」と言ってましたが私なんかは空腹を満たす方が先立ったので、「ありがたくご馳走になります」と素直に彼等の好意に甘えていました(笑)。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
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