第29回「労使のハザマで」(1/5)

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一昨年の10月から、”JAL、日航”の文字がマスコミに頻繁に登場しました。
これまで、一流企業として認知されてきたのに、実質的な倒産に至ったのは何故?

昨年、山崎豊子氏の著作「沈まぬ太陽」が映画化されたタイミングも重なり、注目を浴びたこともあり、私にとって感慨深いものがあります。
こうした状況もあって、私の実体験を「労使のハザマで」として紹介することにしました。

日航は数年前のぶざまな社長交代劇の後も、依然として経営陣の不協和音は解消しておらず、加えて相変わらず労使関係が上手くいっていないことも、企業体としてのまとまりを欠く要因になっているようです。
また、客室乗務員の職場でも組合が分裂したことで、職場の人間関係が一気に悪化して、これが機内サービスに少なからず影響を与えていることは残念だと思います。いずこの会社も経営者と組合員の労使関係がスムーズに行っているところは少ないようですが、JALの場合はそれが顕著だと言えます。

私が入社した1970年当時も、職場環境はかなり問題がありました。
その第1は、年休を取るのに、年休枠が毎月発表されるのですが、その日に当時の羽田空港の事務所に出向いて、直接その日の当直管理職に依頼するという制度で、早い者勝ちだったので、当日は年休希望者は早朝から押しかけていました。
当時の職場は1年間に1ないし3グループの新人が訓練を終えて現場に出てくる状況だったので、「1期違えば虫けら同然」と言われていたのです(笑)。 ですから、新人は先輩に順番を譲らないと、先輩の心象を害して一緒の乗務の時にイジワルされるというのが職場の常識になっていたので、結果的に新人は年休を思うように取れない状況だったのです。ほどなく、この制度は組合の要求で改められたのですが、現在のような制度になるには数十年の労使交渉が続いたのでした。

当時の組合は業種によって分かれていました。
私は客室乗務員という業種だったので、客室乗務員組合という1つの組合に所属していました。この組合は組合員の意識が高く、まとまりも強かったので、労使交渉の場でスト権をかけていました。

当時はニューデリーから始まり、飛行機事故が連続して、多くの同僚が亡くなったりしました。私の大好きな先輩もニューデリーの事故で亡くなったのです。
その関係で、当時はかなり職場環境が改善されたのも事実です。出発から到着までスチュワーデスが着物を着ていた制度が、緊急脱出の際に着物では迅速な動作が困難になるということで、飛行中だけ着るようになったのも、組合が安全要求に掲げた項目でした。

ところが、このままでは経営サイドの力が弱くなるという危機感を抱いたこともあって、会社の上層部は、将来管理職として有望な人材を対象にした組合分裂工作を始めたのです。その第一段階が分裂工作の下準備でした。各所属長・管理職が配下の乗務員の履歴書から、親の職業と仲良しメンバーや社内の交友関係のリストを作成して、影響力のある人物を管理職が数人がかりで口説き落とすという方法を取っていました。
当時のスチュワーデスの父親が大手の銀行や商社、大企業という人もいたので、父親からそれとなくアプローチしてもらうという手段も取られていたようです。この話は直接、複数のスチュワーデス本人から聞きました。

この下準備は1年半にわたり水面下で行われ、その結果、組合員の中で日頃から当時の組合執行部のやり方に疑問を持っていた組合員を中心に反対を唱える5つのグループが出来上がったのです。
私も常にスト権をかける執行部のやり方には疑義を抱いていたこともあり、当時の執行部に異論を唱えるグループのメンバーになっていました。
ストをやると、現場にいる社員は当然お客様から怒鳴られるのですが、我々乗務員も同じで、かなり文句を言われました。
当時は事故の責任がパイロットによる人的ミスという事故調査委員会の発表もあって、パイロットの組合が、以前よりかなり強硬姿勢を取りはじめた時期でもあったのです。

それまでは職場環境の違いから、パイロットと客室乗務員の組合は要求内容が違うこともあって、共同歩調を取ることはなかったのです。
ところが、事故があるとパイロットもスチュワーデスも犠牲になるのは同じなので、「安全性」に関する要求で一緒に協力するようになったのです。

分裂工作の舞台裏

当時の株式は、そのほとんどが国が所持しており、会社のトップも旧運輸省からの天下りでした。
旧国鉄の組合もたびたびストライキを決行していたので、正直言って、現場部門以外は、お客さまに対して申しわけないという気持ちは希薄でした。

当時国際線は日系企業としては、日航だけだったので、ストの影響も直接減収に結びつくこともなかったので、当時のマスコミは「お姫様スト!」と報じていました。日本の景気自体が高度成長期でもあり、国内では企業戦士が登場し、海外に進出しているビジネスマンは「エコノミック・アニマル」と呼ばれていた頃だったので、旅客搭乗率は前年度を大幅に上回っていたのです。
会社の利益もそれに伴って大幅な増益が連続して、各労組共に賃金値上げの好機と捉えて、年2回の労使交渉でかなりの成果を勝ち取っていたのも事実でした。

ところが、日米航空交渉で、米国系の航空会社が一挙に日航のドル箱路線と言われていた太平洋路線に参入してきたのです。
第一次オイル・ショックによる燃料費の高騰、公租公課と言われる空港使用料や着陸使用料も値上がりしたこと、米国の「市場原理」による自由競争導入によって、収入に陰りが見え始めました。また、将来の民営化を見据えた内部留保金を積み立てる必要性もあって、経営陣はそれまでの組合との協調姿勢を180度転換することにしたのです。

社内では、営業部門の発言力が強く、経営陣の多くも営業出身者で固められていました。
「会社の業績が上がってるのは、我々営業がお客を取ってきたからであり、その成果をパイロットやスチュワーデスに均等に配分するのはオカシイ!」というのが、営業部門共通の認識で、分裂工作の下地としてあったのです。しかし、当時の営業は大手旅行代理店に丸投げで、自分達の足で新規の顧客を獲得していたわけではなく、業界からは「殿様営業」と呼ばれていました。
営業の販売促進部に私の同期がいて、何度か食事に行ったことがあるのですが食事から、2次会の飲み代、東京から千葉までのタクシー券まで出してもらいました。「オイ、大丈夫なのか?」に対し、「いつも、こんな調子だから心配するな!」と彼は答えていました。
当時の我々にはビックリするほどの販売交際費が同期入社3年目の営業担当者にも割り当てられていたのです。

ちなみに、パイロット職、客室乗務員職は専門職の位置づけであり、現場の日常業務を管理・監督する初級管理者には専門職が任命されていましたが、部門の人事や予算を管理するのは、全員が地上職、それも営業出身者で占められていました。海外の主要支店長も営業出身者に占められていました。しかし、営業部門も2大派閥(東大、慶応)が当時からあってシノギを削っていたのです。

我々の職場は女性と男性の比率が7:3で、男性も私立大学出身のボンボンタイプが多かったこともあり、管理し易い(御し易い)し、会社の中でも構成人数が多いことから、人件費を削減すれば、会社にメリットが多いという判断が優先し、ついに経営陣は客室乗務員組合の分裂工作にゴー・サインを出したのでした。

当時の客室乗務員組合の執行部が調子に乗りすぎていたことも、経営陣の危機感をつのらせたことも事実だったのです。
客室乗員部の現場管理職が一同に集まると、組合に察知される懸念があるので数日間にわたり、料亭やホテルで部門長(地上職)が管理職を集めて、現在の闘争的な組合の分裂工作を2年間で進め、民主的で、ストをやらない新たな組合を創設するという計画を遂行するように指示していたのです。現場管理職の一部からは反対の声も挙がったのですが、強面の部門長から恫喝されて、大多数の現場管理職が賛同することになったのが実態です。この時点で、現場管理職もシッカリと色分けされたようです。

この当時、私は入社3年目だったので、こんな情報は一切知りませんでした。
後年になって、色分けされた組合・現場寄りの先輩管理職から聞いたのです。

2年間で、どのような進行スケジュールにするかは、数名の管理職からなるプロジェクトチームと本社の労務部と人事部からの専任スタッフとの合同で綿密に策定されたのでした。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
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    • SportsKite
    • 2011年 5月8日 9:53pm

    今回は、またまたすごいお話ですね。「顧客の視点」が全くないことに非常に驚きました。
    僕は、70年代後半から35-6年間ほど頻繁に海外出張をしていました。長期出張中の海外の空港で鶴マークを見つけるとホッとしたものでした。
    最初はJALしか乗らなかったのに、スケジュールの関係で、ドライなサービスと言われていた米系の航空会社も利用しはじめ、さらに海外進出をしたANAも利用する機会も増えて、各社のサービスを比較できるようになりました。
    確かに海外に出かけ初めの頃は、JALのサービスは信頼ができました。しかし次第に何かおかしいぞと感ずることが多くなりました。
    当時、US西海岸からの成田便の到着前の食事にとてもまずいハム(とても冷たい)を主体にしたメニューが提供され、その便をよく利用していた同僚の何人かも「あんな物食べられたものではない」と酷評していて、何度もクレームをしたのですが、何年もそのままでした。
    北米に進出したANAの初期の便に搭乗したとき、機内に漂う緊張感と乗務員の凛とした姿がとても印象的でした。彼らが北米進出にあたり、精鋭を選抜してその路線に投入した事を後で知りましたが、JALは大丈夫だろうかと不安を憶えたのを思い出します。
    JALのサービスに一番の不信感を感じたのは、香港への会社のアワードによる旅行の帰国便での出来事でした。アワードなので、当然全員がエコノミーでした。旅の疲れもあり通路側の座席にもたれてうとうとしていたら、突然ガ〜ンという衝撃を頭部に感じて目をさましたら、通り過ぎるカートの角が僕の頭にぶつかっていたのでした。昔のJALでは考えられないような気配りのなさに、唖然として文句を言う気力も失せました。お客の頭にカートをぶつけても平然としたCAを見て、こりゃダメだと思った次第です。
    最近のJALではの凋落ぶりをみていて、当然の帰結だと感じています。
    極端な意見ですが、日本にはFlag Carrierは、一社で十分で必ずしもJALである必要はないと思います。お客様が望むサービスを的確に提供できる会社が生き残ればよいわけで、国策での支援なんて何を考えているのだろうと思います。
    LCCの台頭でも分かるとおりユーザーニーズはどんどん変化をしています。日本の航空会社はいったどこに向かって飛んでいるのでしょうか?

    • Mattari
    • 2011年 5月9日 11:26pm

    徐々にだけど
    JALも少しずつ変わりつつあるように感じているのは私だけだろうか。。
    機材も747シリーズを無くし、777シリーズへ主力機材が変わって
    767や738やエンブラエルなど小回りの利く機材へのダウンサイジングも
    進みつつある点も評価出来ると思います。
    驚いたのは去年10月に金浦から関空へ戻る際に乗ったJAL974便で食べた機内食!
    私もこの路線の機内食レベルの酷さは知っていたのであまり期待してなかったけど
    いい意味で期待を裏切ってくれたんです。
    内容としてはちょっとレベルアップしたお弁当もいいところだけど
    8つの真四角の小さな仕切りにお稲荷さんが2つに
    サーモンのにぎりが1つ、ほうれん草のおひたし、肉系の
    おかずが2つ、小さな大福が1つ、そして二種の茶そばという
    内容。見栄えも悪くないし、食欲をそそる内容である。
    またその茶そばも気が利いていて
    そばつゆを掛けなくても、既にそばつゆ味のジュレが
    茶そばに乗せてあるので、そばつゆのカップも必要ないし
    そのつゆがこぼれる心配もない。
    恐らく今までの機内食であらゆるクレームを受けてきて
    知恵を絞って、そばつゆ味のジュレで対応するなんて
    今まで培ってきた機内食のノウハウを終結した作品では
    ないかと思うんです。
    まあこれはあくまで一面に過ぎないけども
    JALがどこまで立ち上がっていけるかどうか見守りたいと
    思います。

    • 竜子
    • 2011年 5月10日 4:36pm

    ■SportsKiteさん
    ■Mattariさん
    こんにちは。
    コメントどうもありがとうございます。
    当時、中に居た方の話は貴重でいろんな面で反響がある内容だと思いますが、公開させていただきました。
    労使の話って、まるでドラマのようですね。考えられません。
    いまは職業によってはわりと転職もサクサクできたりして、自分のいる会社がこんなだったら、私だったらすぐに辞めちゃいますが、職種人口の少ない、しかも大企業で、花形職業で、となるとそうもいかないのでしょうね。
    結局、疑問に思う人がいたとしても、変わるところまでいかなかったのって、組織が大きいゆえの病なんでしょうね。
    とはいえ、こういう組織のゴタゴタはどこにでもある話ですが、業績が伴っていないのがいちばんの問題でしたね…。おまけに税金が(直接的にも、間接的にも)使われたのがいけなかった。

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