第30回「労使のハザマで」(2/5)

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分裂工作を語る前に、日航という会社の成り立ちを先ずわかって戴いていたほうがいいと思うので、それにともなって現行の6つの組合(細かく言えばもっと多い)の成り立ちについて紹介します。

現在の日本の企業で、これほど組合が分かれていること自体が異常だと言えます。
労使関係はまるで乱気流の中を、不安定な飛行をしているジャンボ機にも似ています。

1951年に政府主導の国営企業として日本航空(株)が設立されました。この時に最初の組合である産業民主的な「日航労組」が誕生しました。翌年、日航整備(株)が設立され、「日整労組」が誕生。
1954年「日航労組」からパイロットの組合である「乗員組合」が独立。これは当時、大勢を占めていた米国人パイロットとの賃金格差が3倍も違うこと、勤務時間の格差是正が受け入れなかったことがその理由でした。

1963年、日航整備(株)を日本航空(株)が吸収合併して、事業拡大に着手。
そのためには、膨大な資金調達とコスト削減が必要になり、経営陣の強化策として、当時の松尾社長(運輸省出身)は植村会長(経団連)、伍堂専務(日経連)、朝田専務(運輸省出身、後に社長)の布陣を決定しました。
産業民主的な「日航労組」のなかに「乗員組合」の独立に刺激され、会社のコスト削減による合理化策に反発する動きが出始め、一気に労使関係が悪化。これに危機感を抱いた会社首脳陣は「乗員組合」「日航労組」「日整労組」の不穏分子に対する組合分裂工作をスタート。
このあたりから「沈まぬ太陽」(山崎豊子著)の小説は始まっています。乗員組合の活動家4名を解雇、「日航労組」の不穏分子の配置転換が始まった。
1965年、会社への対立姿勢が高まった「日航労組」から本来の産業民主的に立ち返ることを掲げた「日航民労」と「客乗組合」が、「日整労組」から「日航新労」にそれぞれ分裂したのでした。また、この直後に「乗員組合」も「運航乗員組合」に分裂したのです。
つまり、この時点で日航には6つの組合ができたのでした!

同じ職場にそれぞれ2つの相反する組合ができたことで、組合員である社員間の人間関係がギクシャクするようになり、労使関係はますます複雑になり難しくなったと言えます。
そんな中で、1972年、乗員乗客90名が亡くなったニューデリ事故が発生。初めて経験する大事故に組合員の意識が大きく変化しました。
私自身もこの事故で敬愛していた先輩が亡くなったことで、それまで組合に対し関心がなかったのですが、真剣に考えるようになったのでした。

同じ年には、モスクワ事故(62名死亡)、75年アンカレッジ(11名負傷)、77年クアラルンプール事故(34名死亡)と続き、1985年の123便の前代未聞の大事故まで多くの犠牲者を出した事故件数は計7件を数えたのでした。

私は、この全ての事故現場を慰霊に行き、「合理化による組合分裂工作と安全性は相反するのではないか」と強く感じるようになってきたのでした。会社経営陣も一般社員も1人として、「安全性」を損ないたいと考える人はいません。しかし、現実的にはこれだけの事故が発生し、沢山の命が失われたことも事実であり、会社一丸となって真摯に、かつ本気で再発防止に取り組むことが犠牲者の方達とご遺族の方達に対する責任だという思いを今はただOBの1人として強く願うのみです。

1976年1月末のある日、私は入社当時から親しくさせてもらっていた優秀な先輩のYさんから相談を受けたのです。

「オイ、もし僕が組合を抜けたらお前はどうする?」
「突然どうしたのですか?」

優秀だった彼は当時スチュワーデス訓練部の教官をしていました。私もこの先輩の影響で、将来の教官を目指していました。
闘争的な色合いの強い客室乗務員の組合を弱体化させ、産業民主主義的な会社寄りの第2組合が発足して1年が経過していたのですが、第2組合への加入者が思うように増えない状況が続いていたのです。そこで、訓練生に絶対的な影響力を持つ教官全員を第二組合所属にするために2泊3日の「管理者研修講座」という名目の研修が行われたのでした。教官の中で「客乗組合」所属の教官がYさんを含め4名いました。訓練部と乗員部の管理職が勢揃いして、講座終了後、各部屋に押しかけて執拗な脱退工作をやり、精神的に追い詰められたとのことでした。

研修の最終日には、全員の前で教官一人ひとりが「明日から自分はどうするか」の決意表明をやらされ、「客乗組合をつぶさないといけないと思います・・・客乗組合をつぶさなければいけないと思います・・・もっと不当行為をやって下さい・・・」という第2組合所属の教官の発言の中にあって、Yさん他4名は「考える時間を下さい」と言い続けたそうです。

この4名に対する脱退工作は、訓練部に戻った後も毎日のように執拗に続けられ、ついに1名の教官は第2組合に移籍しました。
先輩のYさんが私に相談してきたのが、この頃でした。

「先輩はどうしたいのですか? 教官を続けたいのですか?それとも止めたいのですか?」
「僕は訓練生を立派な乗務員に育てたい、だから教官になったんだ! しかし、客乗組合員でいる限り、思うように教えることができないんだ!」
「だったら、抜けたらいいじゃないですか?」
「それでも、お前はこれまでのように付き合ってくれるのか?」
「先輩、人は個人の部分が片手、仕事の部分が片手だと思います。その片手の仕事の部分で、組合の位置づけは小指の先ぐらいにしか私は考えていません。先輩は訓練生の育成に情熱を持っているのなら、それに支障をきたすのであれば、脱退すればいいじゃないですか? 先輩とは個人の片手と仕事の4本の指があるのですから、組合を抜けたからと言って、付き合いには関係ありませんよ!」

ところが、彼は人望があったので、客乗組合執行部から、これまた執拗に慰留を求められて、脱退しないで2年間の教官の任期を終えたのでした。また、一旦は組合を変った1名の教官も、再度もとの客乗組合に戻ったのでした。ところが、皮肉なことに、私が敬愛していたYさんは後年、客乗組合の書記長になり、管理職として組合を担当した私と対立することになったのでした。

私は複数の組合執行部を配下に置かれ、会社と組合双方の板ばさみの中で苦悩する日々が続き、ついにひどい胃潰瘍になってしまいました。
組合分裂は実際の機内でも、外地滞在中も、双方の組合がいがみ合い、対立して機内のサービスにも影響が出ていました。
また、パイロット達と対立する組合員との間には軋轢が生じコミュニケーシヨンが上手くいかないケースも多発したのでした。

この現状を打開しなければダメだという思いが高まって、私は、組合を1つにまとめるべきだという信念のもとで、会社の労務担当者や組合幹部に密かに働きかけをしました。しかし、そこには私の想像をはるかに超えた力が働いていたのでした。

詳細は省きますが、簡単に言えば、双方の組合の後ろ盾となっている社外の組織・団体からと推察される人物によるイヤガラセや脅し、脅迫の電話が数十回にわたり自宅にかかってきたのです。妻には、私が何を始めようとしているのかには事前に話していました。多分、イヤガラセの電話や手紙もくるだろうという点も含めて。
当初は「何故?あなたがやらないといけないの? そんな危険を侵してまで、子供達は大丈夫よね?」
最後には私の思いと性格を熟知していたので、渋々でしたが同意してくれました。

私が両組合を1つにする動きを始めて半年後、それまで、個別にアプローチをしていた結果、ついに会社の労務担当課長、秘書課長と2つの組合の執行部が各2名で話し合いを持つところまでこぎつけたのです。会合場所は都内の小料理屋の2階でした。時間は、それぞれずらして、個別に私がこれまで彼らと取り決めた前提条件の確認とあくまでも、お互いの条件を提示することの再確認が必要だったからです。

私と個別の話し合いが、それぞれ10分ほどで終ったので、広い別間で3者が一同に会し、酒を酌み交わしながら、当たり障りのない世間話から始まったのです。頃合を見て、私から、組合の統一案を切り出したのです。結果は総論賛成でした。
ところが、事前に取り決めた前提条件の話しになった段階で、それまでになかった条件が提示されたのです。
2つの組合執行部はそれぞれに数千名の組合員を説得するには、これまでの前提条件では不可能だと言い始めたのです。時間の経過と共に、3者は感情論も入り混じり、結果的に物別れになったのでした。
私は、自分自身の非力さを思い知らされると同時に、双方に根深い恨みの感情が存在していることを改めて認識させられたのでした。

当事に比べると、現在は第二組合が圧倒的多数になり、穏やかな関係になってきたのはいいことだと思いますが、いずれにしても、組合分裂による問題はさまざまな形で深い影を落としてことだけはまぎれもない事実で、それがお客様不在というJAL全体のサービス低下に影響しているのも現実なのです。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
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