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第7回「国際日付変更線が見える?」

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1970年代はファーストクラスでは国際日付変更線通過記念証を配布していた。当初は立派な扇子だったがこれが色紙になりその内、経費節減で無くなってしまったが。

国際日付変更線を通過する頃を見計らって、機内で「只今、国際日付変更線を通過しました」と案内していたのです。日本からの行きの便では日付が1日戻るわけで、これがお客さんにはなかなか理解できなかったようでした。実は私自身も、理屈では何となくわかるのですが、イマイチ納得できなかったのが正直なところでした(笑)

通常の生活では時差という概念が無いので当然ですが、先の戦争で真珠湾攻撃に向かっていた日本艦隊が作戦会議の中で
「国際日付変更線を通過すると日付が1日戻るとしたら、今日この艦からハワイを砲撃しても日付が昨日に戻るのだから砲弾は届かないのではないか?」
という真面目な質問が交わされたという笑い話があったほどで、現在でも大半のお客さんは納得してはいないと思います。
なぜなら、この手の質問が依然としてあるというのが現実だから。
成田を1日の夜出発したのに、ホノルルには1日の朝到着するのですから・・・やっぱりなんか納得出来ないのです。

さて、当時も今も、国際日付変更線は教科書の地図上では太平洋の真ん中に線がチャンと引かれています。そこで実際にそんな線があるのだろうと信じているお客さんもいたのです。

ホノルル行きの便で、ある地方の団体客に後部客室担当責任者の男性パーサーが「もう直ぐ国際日付変更線の上空を通過します。良く見ていてください」
と冗談のつもりで言ったのですが、「ヘーッ、これは土産話になるな。写真を撮らなきゃ」と言うお客さんがいて、それにつられて我も我もとカメラを取り出しこの記念すべき一瞬をカメラに収めようと窓外に目を凝らしていたので、当のパーサー(実は私)は「冗談ですよ」と言おうとしたら、何とその団体客の添乗員までもがこの冗談を信じて
「皆さーん、もう直ぐ国際日付変更線が見えますから、シャッターチャンスを逃さないように!」
と団体客に声を掛け始めたのです。
しかも、「どんな線なんだ?」とのお客の質問に

「紅白の線だそうですよ」、
「しかし、船がその線を通る時はどうやって通るんだ?」、
「紅白のブイで間隔を空けてあるので、その間を航行するそうです」

なんて、私の言に悪乗りして言ったものですから、困ったのは当のパーサーの私で、まさか添乗員にまで本気にされるとは思っても見なかったのですから。
やがて、くだんの団体客から
「どれだ?見えたか?」
「イヤー、わかんなかったなー」、
「そっちは見えたか?」
「いいや」
10分程経過して、「なんか見えなかったなー」と言う彼等からの落胆した声に、私は「生憎丁度雲がかかっていてチョット見えませんでしたねー」と言ってごまかしたのですが、添乗員の「残念でしたが、帰りにもチャンスはあるので!」の言葉に今更冗談だと言えなくなってしまたのです。
さて帰りの便で彼等に国際日付変更線が見えたかどうか? また質問された帰りの便のスチュワーデスはどう対処したのか、今もって気になっています。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
© 風天マン
【著作について】実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」のすべては風天マンが著作権を保有しています。一般的な「引用」の範囲を超える紹介を除き、商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ info@airjapon.com(管理人:竜子)までお問い合わせください。

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第6回 プロローグ・最終号「生い立ちから入社まで」6

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<初めて飛行機で上京、最終試験に挑む>

いよいよ、東京での最終試験を受けるために、当時の板付空港(現在の福岡空港)から、初めてボーイング727という飛行機に乗ったのです。まさに天にも昇る心地でしたが、あのフワッとする離陸の時の気持ちは何とも言えない下半身がスーッと冷やされるような、そんな不安な感じでした(笑)。その便には、九州から8名が最終試験を受けるために乗っていました。素敵なスチュワーデスのお姉さんが、我々の席に来て「頑張って、合格してね。今度は一緒に仕事をしましょうね。楽しみにしてるわよ!」と笑顔で囁かれた時に、こんな綺麗な女性達と仕事ができるんだと、改めて絶対に受かってみせるという思いを強くしたものでした。

当時、東京丸の内にあったJALの本社で役員面接があり、「君は短所に男尊女卑とあるが、一緒に仕事をするのはスチュワーデスで、お客さんにも女性がいるが大丈夫か?」と聞かれ、「はい、そこは仕事ですから、適当にやります」と答えた。

次に「君はフランス語が得意だということだが、フランス語で自己紹介をしてくれ」。
これは得意だったので、「なかなか発音がいい」と誉められました。

最後の決め手は「空手をやっているようだが、何かひとつやってみせてくれるか?」と言われ、失礼しますと学生服を脱ぎ、派手な空手の型を気合を発してやった。
「これはハイジャックの時に役立ちそうだな!」と役員全員がうなずいていたので「やったぜ!」と、その時点で内心、合格を確信したのでした。

3日後、合格の電報が滞在ホテルに届き、ついに最後の体力・適性試験を受けることになったのです。体力や適性検査には絶対の自信があったので、これであの綺麗なスチュワーデスのお姉さん方と一緒に仕事も出来るし、高い給料も、外国にも行けるとウキウキしていたのです。ところが、ここで思わぬ窮地に陥ったのであります。

大学2年の時に、肥料工場でバイトをしていた時、密室の状態の工場で、突然塩素ガスのパイプが壊れ、そこからガスが噴出、作業をしていた社員や我々バイト生が声帯と目をやられ、私は緊急入院したのですが、その事故が原因で視力が2.0から0.6迄低下したのです。応募資格には「裸眼で1.0以上」でしたが、何とかごまかせると考えていたのです。視力検査の前に、例の検査表は2.0まで全部覚えていたのですが、検査担当者の指す棒の先がちゃんと見えず、疑念を持たれてしまったのです。別の顕微鏡の親玉みたいな機械で視力検査をされたので、もうバレバレです。検査担当者の「これじゃ、ダメだな!」の冷酷なひと言で、ガーン!でした。

1次の筆記試験から始まり、2ヶ月間でやっとここまでこぎつけたのです。ここで、断念するのは何としても口惜しいという気持ちが強く。こうなったらいちかばちかの勝負に出る(?)しかないと決めて、ある作戦を決行することにしたのです。

2次面接試験から役員面接試験、そして今回の適性検査までずっと私の次の順番にいて一緒にここまで受かってきた、N君に頼み込んで、適性検査票を確認している看護婦さんを一瞬離席させて、その間に私が自分の視力の項目を書き直す計画に協力してくれるように頼み込んだのです。

それまで、私が常に彼より先に試験が終わるので、その都度、彼には有益な情報を流していたこともあって、私の土壇場の起死回生作戦に全面的に協力してくれて、結果的に、この冷や汗ものの作戦計画は成功したのです。その作戦とは、適性検査の終ったN君に、急に腹痛になって床を転げ回ってもらい、検査表の担当者の看護婦さんにも離籍してもらうことでした。その一瞬の間隙をぬって、私の検査表を訂正したのです。訂正印も、机にいくつかあった印鑑のうち三文判ではなく、正式な印鑑を拝借した。入社後わかったのだが、その時の印鑑はなんと適性検査の責任者の印だったのです。

こうして、結果的になんとかスチュワード訓練生として、入社できたのでした。
翌年、御殿場にある自衛隊の戦車部隊への体験入隊から始まった半年間の厳しい訓練期間を経て、正式にスチュワードとして辞令をもらったのは、その年の暮れのことでした。半年間の訓練期間中に、東京大卒の同僚をはじめ3名が専門訓練中に辞めさせられたのでした。赤軍派による、「よど号ハイジャック事件」が起きた年でもあり、私自身、一時期学生運動で逮捕されたこともあったので、私は自分の運の強さに感謝したものです。

当然ですが、その後の数年間は、あの同僚のN君には頭があがりませんでした(笑)

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
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第5回 プロローグ「生い立ちから入社まで」5

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半官半民の航空会社を受験

就職浪人ができる家庭環境ではなかったので、結構焦っていたのですが、生来少し楽天的な面もあって、「どうにかなるさ!」とタカをくくっていました。

ある朝、下宿のオバサンが「ネー、こんなんがあるけど、知ってる?」と言って新聞の1面広告を差し出してくれたのです。カッコイイ制服姿の男性(モデルと思い込んでいたのが、後に本物だと判明する)の写真があり、目に飛び込んできたのが「今日はホノルル!明日はパリ!」の大見出しのJALのスチュワードという職種の募集広告でした。申し込み期限は10日後でした。給与が先の大手M物産の約1.5倍という破格の待遇だったこともあって、翌日の夏季実習ゼミは、この話題で持ちきりでした。既に他社に内定していた連中も、目ざとくこれに応募することになり、総勢12名で、その日の午後、福岡支店の採用人事担当者に会いに行ったのでした。

ところが、この広告の効果は大変なもので、福岡支店には既に各大学から殺到した200名程の学生が順番待ちをしていました。我々は2時間待って、やっと担当者の話を聞くことが出来ました。

今回の採用人数は60名で全国で既に8000名の応募があった。多分最終的には1万名になるだろう。英語が相当できないと無理だよとの話でした。ところが、実際は全国で1万5千人が応募したとのこと。試験も4次試験まであり、体力と適性検査もあることも、初めて知ったのです。英語の得意なESS(英語クラブ)の部長とも仲良くしてたので、急遽彼を中心に英会話合宿を彼の自宅でやることになり、精鋭7名で英語しか話さない約束の2泊3日の合宿をやったのです。

1次は一般常識と英語の筆記試験で、精鋭7名中、3名が合格。なぜか本命のESS部長はダメでした。
2次試験は英会話の面接試験で、米国人と日本人教官による個人面接でした。

たまたま、試験の前日の夕食時に、手の指のそれぞれの名前を下宿の英語学科の学生が話題にしたので、知らなかったので教えてもらったら、なんとそれを試験官から聞かれたのです。それで、2人の面接官から語彙が豊富だと誉められたので、英会話の面接試験は絶対大丈夫だと思っていました。ところが、合格通知の電報が届かないので、半ば諦めて、その晩は遅くまで不合格になった連中と残念会でしこたま飲んで、部屋で二日酔いで寝こけていたら、下宿のオバサンが昼頃、合格の電報を持ってきたのでした。

3次試験は東京で実施されるということで、福岡支店に航空券を受取りに行きました。例の偉そうな採用担当者に資料を渡され、別の女性職員から航空券を受け取り、「頑張ってね!」と励まされました。お礼を言って帰ろうとした時に、例の採用担当者に呼び止められ、「君の下宿の部屋は一応整理整頓してたほうがいいよ」と言われたのです。私は「エッ?」と答えると、彼は意味ありげに片目をつぶって「そういうことだよ」と言って自分の席に戻って行きました。

彼の言ったことが何のことかわからず、考えていたら、以前に誰かが「大手企業は興信所に頼んで、身元調査をやるらしい、学生運動家はそれで落とされるそうだ」という話を思い出したのです。私は早速下宿のオバサンに、誰かそれらしき人が尋ねてきたかどうかを聞いたが、まだだということでした。早速、オバサンに事情を話し、隣室の後輩で超真面目な九州大学工学部で航空力学を専攻していた学生に頼んで3日間だけ、部屋を交換することにしたのです。そして、フランス語の本や空手着と写真だけを入れ替え万全の体勢を整えたのでした。

案の定、翌日の留守中に興信所の調査員が昼間尋ねてきて、オバサンにいろいろと質問をして、最後に私の部屋を見たということだった。オバサンから、その夜「彼は、余程航空会社に就職したいんですね。フランス語の本以外に、航空力学関連の専門書まで勉強してるのですな・・・」と感心して帰ったよ。ということを聞かされて、オバサンと優秀な後輩に感謝したのでした(笑)。

学校の学生課には、学内随一の実力者のS教授が話をつけてくれていたので、学生運動で逮捕された件はバレナイという確信はあったのです。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
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第4回 プロローグ「生い立ちから入社まで」4

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就職は条件付内定

逮捕されて写真を撮られ、それが九州全域の大学の学生課に回されたので、私は大学の学生課から呼び出され、詰問されることになり、退学処分の窮地に立たされることになったのです。私の場合は珍しく体育系で学生運動をやっていたので、1度だけですが、応援団を中心とした体育系の右翼連中30人のグループに大学近くの海岸に呼び出されてリンチを受けたことがありました。さすがに私の所属していた空手部の連中は手を出しませんでしたが。

ところが、幸いにも、私は当時、大学空手部で有力な選手と評価されていたこと、フランス語科の優秀な学生(九州地区のフランス語会話コンクールで優勝)でもあったことから、当時私に目をかけてくれたフランス語科の名誉教授S氏の力で、2度と学生運動はしないとの約束で、退学は免れたのです。ただ、その頃も現在も私の主義は同じで、別に世に言う左翼思想ではなく、日本という独立国家の主権維持のために日米安保条約に反対していた訳です。米国の傀儡政権に成り下がってはダメだというのが、私の一貫した思想で、この思いは今現在も抱いています。後に、私が三島由紀夫氏が主催していた九州盾の会に加入したのも、同じ思想だったからです。

ところが、私が所属した下部組織はいわゆる右翼の集まりで、半分暴力団もいたので、直ぐに退会しました。私の高校時代の友人で柔道部にいた通称ゴリ(ゴリラ)は、そのまま、この組織に所属して、20年後にあることで再会したら、いっぱしのオヤクザさんになっていました。彼はさしずめ大学でのインテリ・ヤクザのはしりかもしれません(笑)。

周囲の学生の就職が決まっていく中で、S教授の紹介で私の受験した会社は、いずれも条件付での内定ということだったのですが、結局やめることになったのでした。A新聞社は面接試験で希望を聞かれ、「パリ支局勤務です!」と答えたら笑われて、「福岡県下のK市での3年間の勤務」が条件でした。支局なので、上司がいて女性の事務員もいて、記事を書くのかなといったイメージを描いていたのですが、毎週1回、その土地で起こった面白そうな記事を福岡支局に送るのが主な仕事だということでした。そこで、さっそくK市の支局を訪れました。確かに支局の表札はあるにはあるのですが、普通の6畳2間と台所があるだけのアパートの1室で、1人で支局をやっているのです。そこの住人(新聞記者)は4年目だと言ってましたが、ボーッとした感じで、話す内容もまるでヤル気のない人だったので、描いていた支局との差があり過ぎて(笑)結局やめました。

次に条件付で内定したのが、大手のM物産でした。やはり、面接試験で「パリかニューヨーク支店勤務を希望します!」と答え、担当した面接官から将来はその道もあると言われ、その気になって決めるつもりでした。条件は「ボルネオ、現在のブルネイでのプラントで3年間勤務すること」でした。私はてっきり、石油か大きな工場のプラント事業だと思い込んでいました。それに、当初から外国に行けるのがとても魅力でした。

翌日大学の先輩を訪ねて、条件付き内定をもらったことを報告に行きました。そこで彼から「プラントでもそれはプランテーシヨン、つまり植林のことだよ」と言われ、ガッカリしたのですが、幸いに子供の頃から、杉やヒノキの植林は家で手伝っていたので、違和感はないし、まーいいかと思っていました。ところが、先輩は「以前、ジープでうちの社員が現地採用の職員とボルネオの植林現場に行く途中、腕時計をはめた片手をジープの窓から出して走っていたら、現地の土人がその腕時計欲しさに、蛮刀で腕ごと切り落としたということだ。命は取りとめたらしいが、それに風土病も多いしな…」という親切な話をしてくれたので(笑)、結局ここも辞退しました。

外国に進出する予定のホテルも受験しました。1次試験は受かったのですが、そこは余りの給料の安さに、面接試験はキャンセルしてしまいました。

夏までに、友人達の大半は内定をもらい、就職が決まっていく中で、私を推薦してくれたS教授も、めったに採用してくれない大手企業のいずれをも、辞退した私にあきれたようで、「夢みたいなことばかり考えないで、もっと現実を直視しろ!」と苦言を言われたものでした。田舎育ちの世間知らずの私は大学4年間でも、世間という社会の厳しさについてなんにも学んでいなかったのだと思います(笑)。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
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第3回 プロローグ「生い立ちから入社まで」3

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<学生運動で2度逮捕される>

高校になると、市内の5つの中学から本当に勉強のできる連中が集まっていて、やはり記憶力の悪さを努力でカバーするには限界があり、1学年は600名でしたが、1年の時を除き、2年、3年と、ずっとトップクラスには入れませんでした。

田舎の中学と町の中学のレベルの違いを認識させられることになりました。これは、また私が勉強に関して味わった最初の挫折でした。高校入学当初は国立大学を狙っていたのですが、早くも2年でそれを諦め、私立の外国学部に絞っていました。大学受験で福岡という都会に出て、そこで初めて行き交う人と車の多さに驚き、交差点の信号機を初めて見たのもその時でした。高校迄、私は「こんな田舎の生活は嫌だ、外の世界に出たい!」と常に思い続けていました。20数年余り前に流行った「オラ東京さ行くだ」の歌そのものの生活だったのですから、あの歌には共感を覚えたものでした。

高校時代に、当時は「西洋かぶれ」と言われていた同級生の町医者の子供がいて、彼から外国、特に欧米諸国の話を聞かされたことがキッカケで、その頃から外国にほのかな憧れを抱きはじめたようです。とくに彼の家で聴かせてもらったイブ・モンタンのシャンソンに西洋文化の香がして、フランスという国に行ってみたいと漠然と思ったものでした。高校3年の時に、義父が希望していた弁護士か外交官(可能性は低いのに)から商社マンに職業選択して、英語は誰でも話すので、ここはフランス語を習得すべく、福岡にあるフランス人教師のいた西南学院という私立大学に入学したのです。

入学後直ぐにフランス語同好会と空手部に入会して、初めて野良仕事から開放されて、「捨て子だ、もらい子だ!」と変な目で見られたり、言われたりされることもないので、カゴから飛び立った小鳥のように初めて「自由」を実感して、青春を謳歌していた時期でもありました。当時は、長髪やフォークソングが流行し始めた頃でもあり、私もギターを弾き始め、シンガーソングライターを気取っていたのもこの頃でした。当時の仲間で、その後、プロ歌手としてデビューしたのが財津君を中心としたグループ「チューリップ」です。

フランス語の授業だけは欠かさず出席して、最前列で熱心に勉強しました。そのうちに、いつも最前列に4名の学生がいたので、親しくなり、同じく就職も外国に行ける企業を希望していたこともあって、我々は「ダルタニヤンと三銃士」とフランスの小説から名前をとって自称していました。ちなみに私がダルタニヤンでした(笑)。最終的に、1人を除き3人は外国に行く企業に就職することになったのです。大学3年から学生運動が盛んになり、九州では最高学府の国立九州大法学部にいた高校時代の親友が学生運動のリーダーをしていたこともあり、私も学生運動にのめり込んでいきました。その彼は、内ゲバで大怪我を負い、その後退学処分になりました。

九州の佐世保に米国の原子力艦エンタープライズが入港した時に、私も反米デモに参加して、機動隊とぶつかり、その間、ヘルメットやアノラックに機動隊の装甲車から放水された塩素系塗料が付着していたので、いつの間にか写真も撮られて、これが後に逮捕のキッカケになったのです。

当時、昼間は我々学生は機動隊とゲバ棒と警棒で殴りあうのですが、相手はプロで身体もデカク、まともにぶつかったら勝負にならないのですが、報道陣が周囲にいるので、機動隊の連中も手加減するのです。ただ、機動隊のなかには、我々学生を憎んでる連中もいて、彼等は1人を4,5人で取り囲み、盾で報道陣から見えないようにして、警棒で打ったり、蹴ったりする連中もいて、仲間の多くが骨折したりしていました。しかし、その内に我々は徐々に追い詰められて佐世保商店街のアーケードに逃げ込んでいました。最初の頃は、商店街の人達は我々に好意的で、我々が逃げ込めるようにシャッターを少し開けておいてくれて、逃げ込むと彼等はお風呂を用意してくれて、放水車の塩素系の塗料で顔や手に火傷を負ったのを洗浄させてくれたり、食事を提供してくれたり、なかには闘争資金をカンパしてくれる人もいました。しかしその後、アーケードが機動隊との主戦場になると、我々は投石や火炎瓶で機動隊に応戦するので、商店街の被害も甚大で、我々に好意的だった商店街の人達も我々を疫病神と思うようになっていきました。そして、ついに私は佐世保大橋の機動隊との衝突で、逮捕されたのです!

取調べでは、執拗な拷問(指の間に鉛筆を挟み締め上げる)にも鳴かなかった(白状しなかった)ので、3日後に釈放されました。その後、再度逮捕されましたが、前回と同様、拷問にも耐えて黙秘を続けたので、結局取り調べを担当していた主任警部補のK氏も諦めて、と言うより私はリーダー格ではなかったし、留置所も満杯だったので、釈放してくれたのでした。このK氏とは、その20年後、彼が警察庁からの出向で台北の亜東協会(領事館)に勤めていた時に奇遇にも台湾でのパーテイー会場で再会するのですが、この話は別の機会にお話しすることにします。

夜、屋台で我々が一杯のラーメンやチャンポンを2人で分け合って食べていると、横にいた機動隊の連中が見かねて、奢ってくれることもありました。仲間の筋金入りの活動家は「国家の犬の奢りが食えるか!」と言ってましたが私なんかは空腹を満たす方が先立ったので、「ありがたくご馳走になります」と素直に彼等の好意に甘えていました(笑)。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
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第2回 プロローグ「生い立ちから入社まで」2

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<異国人に初めて遭遇>

幼少の頃から義父母には従順であるべきとの思いがあり、農作業や山仕事の手伝いは良くやっていたと思います。
九州の山間部の戸数20戸、人口100人余りの村で高校時代まで過ごした。この村は今でも、川の水は飲めるし、蛍が飛び交う自然豊かな土地です。実は元朝日ジャーナルの編集長で、以前、ニュース・キャスターとして活躍している筑紫哲也氏が隣村の出身だということを知ったのは、ずっと後に彼がニューヨークから帰国する時に、機内で2時間ほど話した時でした(筑紫さんとの出会いは別の機会に掲載させてもらいます)。なんと私が通っていた小学校の先輩にあたり、その後、その小学校が過疎化のあおりを受けて廃校になったのですが、このことは彼がテレビで喋ってたのを聞いて、初めて知ったのです。

小学校1年生の時に初めて、夜の7時から9時迄の2時間電気が使えるようになったが、それまではランプの生活でした。
古い新聞紙でランプの煤をとって、磨き上げるのも私の日課でした。早朝起床すると、先ず室内と土間の掃除、鶏、ウサギ、ヤギの餌をやり終えて、2キロを走って小学校に通っていました。鶏は鶏卵を取るためで、鶏小屋の巣箱から夕方、卵を取るのですが、ある時、手を入れたら、卵を飲みに来ていた青大将(蛇)を掴んでしまい、噛まれてしまいました。それ以来蛇嫌いになったのでした。

兎は食用で、ヤギは乳を得るためでした。ヤギの乳搾りも私の毎朝の仕事でした。冬の寒い朝はお湯を沸かして、乳房を温めないと、乳が搾れないのですが、数日間私が時間がなくて、完全に絞りきらずに学校に行ったところ、それが原因でヤギは乳腺炎という病気になって、死んでしまいました。めったに怒らない養父から、「責任は最後まで果たさないといけない!」と、その時はこっぴどく怒られました。

学校給食が始まったのは、私が小学校を卒業した翌年からでした。従って、私は学校給食を食べた経験がありません。
中学は8キロの砂利道を自転車で通い、高校は15キロをバスで通っていました。小学校から高校迄、帰宅すると家畜の世話や農作業を手伝い、日曜日はもっぱら山仕事に従事する毎日でした。その当時は、どの家でも子供達は3、4人兄弟で、こっちがケンカで勝つと、その兄貴が出てきて「もらい子のくせに、生意気だ!」と言われ、よく泣かされました。

私も1人兄がいましたが、同じく養子で、12歳も年齢差があり、血のつながりも全くないので、助勢を頼めるような関係ではなかったのです。そんな状況だったので、泣かされた夜は、星空を仰いで「なんで、父さんは僕を残して死んだの!なんで母さんは一人っ子の僕を捨てたの!」と感傷的になって、ポロポロと泣いていました。

そこで、こうなったら勉強で勝ってやると決めて、記憶力は抜群に悪かったのですが、野良仕事をしながらも、勉強はよくしました。小中学校では常にトップクラスで、中学では2、3年と生徒会長もしました。中学2年の時に、初めてIQテストがあり、私の結果が余りにも悪かったので、職員会議で話題になり、もう一度私だけが受けることになりました。校長室で、担任の先生のもとで、受けたのですが、結果は同じでした。ガックリしてる私に「いいか、努力は天才に優るんだからな!」とその先生は慰めてくれたものでした。

そんな私が、初めて外国人と言葉を交わしたのは中学2年の夏でした。
当時、福岡の板付空港には、米国の駐留軍がいて、突然私の住んでいた山間の村に、もの凄い爆音をたてながら大型ヘリコプターが2機飛来したのです。通常の飛行機が山のはるか上空を飛行するのは時々見ることはあったのですが、低空飛行でヘリコプターが飛ぶのを見るのは村人も初めての体験でした。道端に村人は不安げな顔で集まり始め、この不審な飛来物を眺めていました。
やがて、2機が上空で停止(ホバリング)すると、そのうちの1機からスルスルとロープがたらされ、5、6名の兵士が我々の集まっていた道に降下したのです。いずれも重装備のライフル銃を持った黒人兵でした。初めて大柄な彼等を見て、皆も私同様、昔話の黒鬼を連想したようです(笑)。私も正直、おっかなビックリでした。

彼等が白い歯で笑いかけてきたのが印象的で、何か我々に話しかけてきたので
「Hello、How do you do?」
と言ったのが、私が外国人に使った初めての英語でした。

彼等は一様に、にこやかで、集まった子供達に沢山の珍しいチョコレート、ガム、キャンデイをくれたので、僕は英語が話せる子供だということで、村では一躍評判になりました。私は、彼等がしきりに何か話しかけてくるのですが、全くわからないので「Yes」、「Yes」しか言えなかったのですが(笑)。それがキッカケで英語に興味が出て、勉強もするようになったのだと思います。もしかしたら、日本の幕末にペリー率いる黒船が来た時に、彼等異国人に興味を抱いた坂本竜馬と同じ心境だったのかも知れません。

もっとも志は全く違うのですが(笑)

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
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第1回 プロローグ「生い立ちから入社まで」1

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<幼児期のトラウマ>

主人公である私こと、風天マンの生い立ちから入社までをシリーズで紹介していくことにします。
私はこれまでのハチャメチャな人生を振り返って、やはり幼少の時期の育った環境が、その後の私の生き方に多大な影響を与えているということに気づいたのです。そして、以前何気なく目にした米国の作家が書いた「インデイアンの教え」、原本は「Children Learn What They Live」の本のことを思い出したのです。

批判ばかり受けて育った子は、人をけなすようになります。
いがみあう家庭で育った子は、人と争うようになります。
恐れのある家庭で育った子は、びくびくするようになります。
かわいそうだと哀れんで育てられた子は、自分は哀れな人間だと思うようになります。
ひやかしを受けて育った子は、はにかみ屋になります。
親が他人に対して嫉妬ばかりしていると、子どもも人をうらやむようになります。
侮辱されたりけなされたりされて育った子は、自分に自信を持てなくなります。
励まされて育った子は、自信を持つようになります。
寛大な家庭で育った子は、我慢することを学びます。
ほめられて育った子は、感謝することを学びます。
心から受け入れられて育った子は、愛することを学びます。
認められて育った子は、自分が好きになります。
子どものなしとげたことを認めてあげれば、目的を持つことの素晴らしさを学びます。
分かち合う家庭で育った子は、思いやりを学びます。
正直な家庭で育った子は、誠実であることの大切さを学びます。
公明正大な家庭で育った子は、正義を学びます。
やさしさと、思いやりのある家庭で育った子は、他人を尊敬することを学びます。
安心できる家庭で育った子は、自らを信じ、人をも信じられるようになります。
和気あいあいとした家庭で育った子は、この世の中はいいところだと思えるようになります。

「Children Learn What They Live」

父親は海軍の召集軍人であったが、運良く(?)レイテ海戦で負傷して捕虜になり無事帰国して、45歳で結婚して私が誕生しました。ところが、負傷した腹部の傷が悪化し、私の1歳の誕生日の前日に死亡。従って、私にとって父親の記憶はゼロである。

そして、母は何故か一人息子の私を育てることを放棄したのでした。
その結果、私は2歳の時に、父の姉の嫁ぎ先である山奥の村に養子となり、そこでずっと養育してもらったのです。この体験が、私にとって「3つ子の魂は一生」の例があるように、幼児期のトラウマとして、いろんな場面で、その後の私の生き方に影響を与えることになったのだと思われます。とくに、国際線乗務員という、地に足をつけずに、まさに空中を浮遊する仕事についたことで、いわゆる世間常識から逸脱して少し頭に花が咲いたようなハチャメチャな人生を満喫するキッカケになったようです。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
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