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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第1回 関西国際空港

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 大阪湾にかかる春の霞が次第に黄昏色に変わる午後五時。長い橋を渡って空港に近づくと関西国際空港はまるで宇宙基地が海に浮かんでいるように見えた。
 シルエットになった管制塔が空へ飛び出すロケット塔のように聳え、それをとりまくターミナルビルや滑走路が放つ光の渦が、暮れかかる美しい空と海の狭間で人工的な別世界を造りだしている。

関西空港夕景 by H.Masui

 出発ロビーも別世界だった。チェッキングカウンターで搭乗手続きをするグループのざわめき。セキュリティ検査の警報ブザーの音。サンフランシスコやパリに向かう航空会社のファイナルコール。免税店のレジの音。迷子の呼び出し。ゲートへ走る靴の音…。
 旅立ちの華やかな旅情と興奮が金属とガラスでできた幾何学的な空間の中で喧騒となって渦巻いている。
 そのロビーからガラス張りのエレベーターで三階登った空港北ビルにある日本エアシステム運航課は、出発ロビーの喧騒が嘘のように静かであった。
 この時間は他に飛行する便も少なく、したがって乗員の姿もまばらで、ときどき自社の飛行機から入ってくる会社宛のカンパニー無線に運航課のスタッフが応答する声が聞こえるだけで、広い室内は図書館の中のような雰囲気であった。
 その右角のカウンターでホノルル空港へ向けて出発するハーレクインエアの飛行前の打合せが行われていた。
 プレスのきいた紺色の制服で包んだ三人のクルーが、テーブルに広げた飛行ルートや気象データーの一つ一つを手慣れた様子で確認し合っている。
 日焼けした精悍な顔に溢れる自信と威厳さえ感じさせる機長、長身を折り曲げるようにして端正に話す白人のアメリカ人パイロット、陽気な仕草で笑顔を絶さない南アメリカ出身の航空機関士、普段とは違いクルーの姿を遠巻きになぜか気遣うように眺めているディスパッチャーや運航部員達…。最後に機長が書類にもう一度、目を通し、二、三質問すると飛行プランに承認のサインをした。
 すべて手順通り、傍目には普段の日とは何も変わらない。
 一息入れて機長は飛行プランを立案したディスパッチャーに歩み寄って、いつもするように笑顔を見せてひと言、「ありがとう」と礼を言った。
 しかしそのひと言に機長の万感の想いが込められていることは、ディスパッチャー始め、部屋の中にいるすべての人たちにはわかっていたが、誰も特別な言葉を掛けようとはしなかった。
 その思いやりが無言のうちに機長の胸にしみた。
「シップは?」と機長が尋ねる。今日乗務する便は鹿児島発、関西空港経由でホノルルに向かうハーレクイン8673便でチャーターフライトであった。
 鹿児島からのクルーは関西空港で交代する。それで関西空港から新たに搭乗するコックピットクルーは客室乗務員の打合せ(ブリーフィング)を、ゲートに駐機する飛行機の中で行うことになっていた。
「ちょっと遅れましたが、もうゲートに入っています」と運航課員が答える。
「ではそろそろゲートへ行くか」
 テーブルの上に広げた飛行データーを集め、黒い皮のパイロットケースに納めながら、機長は今日一緒に飛ぶダウニング副操縦士とネイヤー航空機関士に声をかけた。
 これもいつもと変わらぬ出発前の風景であった。
 そのとき運航課の女性スタッフが遠慮がちに機長に小さな花束を差し出した。それを機会にフラッシュの光とシャッターの音が響き、運航部が一瞬場違いな雰囲気になった。
 ちょっと驚いた様子で機長は花束と女性部員を相互に眺めて少し淋し気な表情を見せ、改めて居並ぶ運航部の人たちに無言で軽く頭を下げた。
 三宅嘉光機長。ハーレクインエアの取締役オペーレーション本部長は、今月の二十八日、あと三日で満六十才の誕生日を迎える。その誕生日は還暦という人生の節である日と同時に彼にとっては特別な意味があった。
 会社の規定によると六十才の誕生日をもってパイロットは定年として現役の飛行業務から離れることになっている。その誕生日がこのハワイへのフライト乗務期間の途中に訪づれることから、今日が三宅機長の現役最後のフライトの日になっていた。
 ラストフライト。
 それはパイロットが長年慣れ親しんだ空を去る最後の飛行である。
「それでは…行ってきます」と三宅機長は過去、数十年繰り返したフライト前の厳しいパイロットの表情に戻って、もう一度、運航スタッフに目礼すると、すでに入り口で待機してるクルーと一緒に運航課を出た。
 制服に身を包んだ機長の左手に握られた小さな花束が、何故か不釣合で淋しく見えた。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」はじめに

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「最後の飛行」をスタートするにあたって

 今日から「航空100年」のキャンペーンにちなんで新しいコックピット・ドキュメンタリーを始めます。このコンテンツはハーレクイン航空のDC-10三宅嘉光機長が関西国際空港からハワイ・ホノルル国際空港に飛んだラストフライトを軸に、日本の民間航空の歩み、それと日本航空やパンアメリカン航空などが開拓した広大な太平洋の航空史をまじえて構成する大河的航空ドキュメンタリーです。
 以前、このコンテンツはCD付き単行本「ラストフライト」(愛育社)として発売したのですが、今回、その元原稿から余分な箇所を削り、必要な部分を加筆して、かつ、全編に航空サウンドが入るのでなく、要所、要所でサウンドが入るように分散し、サウンドの効果と文章の独立性を高めるための工夫を凝らすなど内容を一新しています。この構成は僕としては初めての試みでもあり、従来の航空ドキュメンタリー「機長席」や「ヒマラヤ飛行」などとは若干のテイストの違いもあるかもしれません。「違い」といえば、今までこのブログに作品を寄稿する場合、ほぼ、全体を完成させて編集長の竜子さんに送っていましたが、今回はまったく違ってオンエアーとほぼ同時に次の回の原稿制作をしている状態(たとえば今、第2回目の原稿を書いている状態)なので、期日に遅れる可能性が大であります。その点、謹んでかつ、前もってお詫び申し上げます。

 それから、僕からも読者の皆様にお願いがあります。そんなライブな状態ですので、皆様の読後感といいますか、ご批判をふくめてご意見を聞かせて欲しいのです。ライブ進行なので、その次の回にはすぐ訂正できますし、改良も可能です。要は完成終了したあかつきには(現在の状態では10回の連載になるか、8回で終わるのか、僕自身もわかっていませんが)、読者の方々には「ああ、面白かった」と言ってもらいたいし、著作制作者の僕としては「とても良い作品になった」と満足をしたいのです。真意をご理解の上、ご協力下さい。お願いします。
 でも、自画自賛みたいで恐縮ですが、僕の従来の作品の中でもダントツに面白い作品になると思っています。恐縮です。

武田一男

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世界の航空史サウンドエッセイ「わが心のキティホーク」第1回

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 YS-11の生みの親、木村秀政名誉教授が晩年、まるでご自分の人生を振り返るかのように綴られた珠玉のエッセイ「わが心のキティホーク」に感動し、その本をサウンド・エッセイにしたいと提案すると、快く引き受けて下さり、また、先生の著「世界の航空史案内」(平凡社カラー新書)を合わせて「音による世界航空史」にしてはどうか、とのご提案まで頂き、先生ご自身のナレーションに加え、先生の貴重な航空機のサウンドコレクションまで使わせて頂いて完成した作品です。エッセイ「わが心のキティホーク」のもつ詩情豊かな雰囲気をだすために音楽や効果音なども使い、かなり苦労して完成までに時間がかかリました。それだけに僕としては例えようのない愛着をもっている作品でもあります。過去、レコードで発売した際には航空各方面から身に余る賛辞を頂きました。今回はその作品を木村先生の想い出をこめてノーカットでこのブログで4回にわたってご紹介したいと思っています。ご試聴いただければ幸いです。

武田一男

木村秀政

★「わが心のキティホーク」挿入:10
※「▶」の再生ボタンをクリックするとサウンドが流れます。
木村秀政先生の解説をお楽しみください。

ライト兄弟 フライヤー1号機

★「わが心のキティホーク」挿入:11
※「▶」の再生ボタンをクリックするとサウンドが流れます。
木村秀政先生の解説をお楽しみください。

フライヤー1号機
 世界の航空界の常識では1903年12月17日にウイルバー・ライトとその弟、オーヴィル・ライトが飛行機による動力飛行の世界最初の成功者で、その飛行はノースカロライナ州キティ・ホークで行われました。その様子を木村先生は愛情をこめて語られています。過去、僕が木村先生におめにかかるたびに感じたことは、先生の飛行機に対する無心の愛情でした。その愛情がこの作品をとても暖かいものにしてくれました。

 それから、その12馬力エンジンを持つフライヤー1号機はワシントンのスミソニアン博物館に保存され、その完全なるレプリカがキティホークのライト兄弟記念博物館に飾られています。ご興味のあるかたはぜひ、お訪ね下さい。

ライト家の三男・ウィルバー・ライト
ウィルバー・ライト

ライト家の四男・オーヴィル・ライト
オーヴィル・ライト


フランスの翼 ヴォアザン・ファルマン機

★「わが心のキティホーク」挿入:12
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木村秀政先生の解説をお楽しみください。

ヴォアザン・ファルマン機
 人が空を飛ぶ道具の開発は1783年に気球、1797年の空中からのパラシュート落下、そして1852年の飛行船初飛行などすべてフランスが世界最初ですが、そのフランスでライト兄弟と時を同じくして飛行機を開発していたのがヴォアザン兄弟です。ヴォアザン兄弟はライト兄弟より一年も早くグライダーを完成させていましたが、エンジンつきの飛行機は1907年11月5日にノルマンディ海岸で初飛行させています。そのヴォアザン機のパイロットであったアンリ・ファルマンが翼に補助翼をつけて飛行性能を安定させたのがファルマン機で、日本の徳川大尉が購入して代々木公園で日本最初の動力飛行を成功させたのもこの飛行機です。それが1910年12月19日で、この日を起点にして今年の日本の航空100年のキャンペーンが行われることになりました。


ブレリオ機 世界初の英仏海峡横断飛行

★「わが心のキティホーク」挿入:13
※「▶」の再生ボタンをクリックするとサウンドが流れます。
木村秀政先生の解説をお楽しみください。

ブレリオ機
 やはり、同じ時代、フランスにはルイ・ブレリオという飛行家がいました。彼はライト兄弟やヴォアザン兄弟、ファルマンなどの複葉機ではなく単翼機にこだわって試行錯誤し1909年に素晴らしい単翼のブレリオ11型機を完成させ、その飛行機で最初の英仏海峡横断飛行に成功し一躍空の英雄として賛美を受けました。この洋上飛行は所要時間が32分だったそうです。また、この飛行機でベルギー人、ジェオ・シャベーツが3000メートルの高度を飛行し、初めてのアルプス横断飛行をしたことも航空史の輝かしい歴史として残っています。

世界の航空史サウンドエッセイ「わが心のキティホーク」
著作・録音 武田一男 ©Director’s House
【著作について】「わが心のキティホーク」の文章、または付録の音源に収録している音楽、音声のすべては武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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「高度一万メートルの再会」(武田一男)

「高度一万メートルの再会」

 個人的な話で恐縮ですが、僕にとって今年の5月は懐かしい友や珍しいひとに逢うことが出来るラッキーな月のようです。
以前、アップル・ハウスという学生のフォークグループのレコーディング・ディレクターをする機会に恵まれました。優秀なグループで当時、権威のあった「東京音楽祭」に入賞するなど学生グループでは群をぬいた人達でした。3人編成のグループですが、僕が彼等を好きになったのはエレキに走る若い人が多い中で、徹底してアコースティックにこだわるとても繊細な響きを持っていたグループだったからです。
 何枚かのレコードをリリースしどれもオリコンのベスト10に入る作品を彼等は作ったのですが、大学を卒業するとグループを解散し彼等はそれぞれ自分の道を進んだのです。レコード関係者の多大な賛辞をうけながらもプロの道を進むことなく、最初にきめた通り、惜しげもなく自分の道に向かう彼等のいさぎよさも僕は好きでした。

 それから30年以上、彼等と会っていません。唯、15年前にそのグループで作曲を担当していた平川君(そのときは土木建築の設計をしていました)が脳腫瘍のために亡くなったときにお葬式で会っただけで、昨日までお互いに多忙にまぎれて音信が途絶えていました。 ところが、メンバーのひとりでボーカルを担当していた百塚君がこの「週刊飛行機ダイスキ」のブログを見て、編集者の竜子さんに連絡をとり、僕の家に訪ねてきてくれました。それはブログが取り持つ30年来の再会でした。

 実は僕も彼等に会いたくて半年ほど前に彼等が作った「高度一万メートル」という曲を、このブログのテーマソングとして使ってもらい、アップルハウスのメンバーの誰かが聴いてくれたら、このブログに連絡があるだろう、と編集者の竜子さんにお願いしてオンエアーしてもらっていたのですが、やっと念願がかなって、このブログを見て百塚君が連絡をくれたというわけです。唯、百塚君との再会は嬉しかったのですが、彼は同時につらい知らせも持ってきました。一年半ほど前に、メンバーで作詞をしていた渡辺君が脳溢血で倒れ、現在、病院でリハビリをしているというのです。渡辺君はちょっとシニカルでしたが、その裏に溢れるような人間愛を持った人で、病気になる前はコピーライターとして活躍していたそうです。作曲の平川君と作詞の渡辺君が今、音楽作品を作っていたらきっとヒットメーカーになっていただろうと思います。そのくらいセンスある人達です。一日も早く病魔に勝って復帰してもらいたいと祈っています。渡辺君の復帰を願って、竜子さんにお願いして再度、「高度一万メートル」をフル画面で流してもらうことにしました。彼等の暖かい歌を聴いてあげて下さい。

 百塚君は六本木で創立50年という老舗のやきとり店をお父様から受け継いで二代目のオーナーとして頑張っています。土地柄、有名人も沢山来るお店ですが、百塚君のポリシーとして廉価でリーゾナブルなプライスで”日本一の味” のやきとりをサーブしているのだそうです。皆様もぜひ、六本木に行くことがあったら、百塚君の「アコースティックなこだわりある、やきとり」をぜひ味わって下さい。お店は「味の店 八ちゃん」。六本木の交差点を溜池に向かってくだった左側で通りに面しています。電話番号は03- 3583-6459。飛行機のブログで見たよ、と言って頂ければ彼は喜んでサービスしてくれると思いますよ。

 話は変わりますが、桃田素晶さんをご存じですか? このブログでYSコックピット・ドキュメンタリー「雨中航路」を書いている人です。僕の録音した音をベースに書かれたドキュメンタリーですが、唯、音を聴くだけよりはるかに現実感があって面白く、僕も毎週楽しみにしているコンテンツです。そんな仕事を一緒にしている彼と、実は僕は会ったことがないのです。メールでは長い歳月やりとりして、旧知の間柄のように感じていますが、まだ、一度も本人とは会ったことがない。インターネットというものは不思議な人間関係を作るものなのですね。その桃田素晶さんが在住している大阪から所用で東京に行くので5月27日にお会いしたいというメールを頂きました。桃田さんといい、百塚君といい、僕にとって楽しい出逢いがつづく5月です。
 とりとめのない私事でおつきあい願ったこと感謝します。

武田一男

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」最終回

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」

奄美大島へ着陸

東亜国内航空鹿児島空港支店運航課

「まだ、着陸していないのか?」早川所長が時計を見ながらいらいらした調子で尋ねた。
「着陸すれば、奄美から連絡がある筈です」心配しているのはこの部屋にいる運航課員全員なんですよ、と言い返したい気持を押さえて松田運航課長が応えた。
「いいから、こっちから連絡してみろよ」
「ですが、彼等も567と569の着陸を控えて多忙なときですよ」
「いいから、電話しろよ。そしてその電話を切らずにつないだままにしておけよ」
 所長の剣幕に運航課員のひとりが電話で奄美大島支店を呼んだ。
「こちら鹿児島です。567は? …え!…はい、わかりました。忙しいときにおそれいりますが、電話は切らないで着陸までつないだままにお願いします」
 電話が終わると運航課員が現在の状況を説明する。
「今、ちょっと(コックピットは)忙しい時期だと思います」
ー まだ、着陸決定をしていないのですか?
「ええ。今から着陸体制に入っていきますので、それで(風の具合が)悪かったら、もう一度上がって(ゴーアラウンドして)、(滑走路の)状態が良ければ、もう一回、トライをしますが、悪ければそのまま、(鹿児島に)返ってくると思います」
 現在14時05分。

567便コックピット

 右旋回が終わると灰色の海の向こうに雲の切れ間から北へ伸びた滑走路がぼんやりと見えた。
「ランウエイ・インサイトだね」(滑走路確認)
 滑走路を視認したことを小山副操縦士がすぐ無線で奄美レディオに伝えた。
「トーアドメス567。ランウエイ インサイト」
「ギヤ・ダウン!(車輪下げ)」
 風とエンジン音の中で大井機長の声が響く。油圧の音が響いて車輪が降り始めるとさらに風の抵抗が強くなった。突風が機体を駈けぬける。
 風は今、330度方向から吹いていた。大井機長は機首方向を風に合わせて567便を斜めにしながら下降を続けた。
 横風着陸の場合、機軸と滑走路方向に角度をとって進入する。567の場合は機首方向330度、進入方向は020度でおよそ50度の編流修正角度を持っている。この操作をクラビング(CRABBING)という。文字通り、蟹の横ばいである。
 そして横風に対抗しながら斜めに進入し、接地直前に機首を滑走路に正対させるのだ。この操作をデクラブという。
 この横風着陸は航空機の機種によってどれだけの横風に耐えうるか限界値が違うが、ジェット旅客機と違って機重が軽く、進入スピードも遅いYS-11の場合はその操作が非常に難しい。しかもオートパイロットが無い567便はなおさらである。
 大井機長は吹き付ける風にこの葉のように翻弄される機体を全力で操って下降を続けた。
「コンタクトはストレート・インで」
 小山副操縦士が無線で奄美レディオを呼び掛けた。
「トーアドメス567。ベースレグ ナウ」
(こちら東亜国内航空567便です。これから最終進入です)
「ラジャ。ベースレッグ。トーアドメス567。クリア トウ ランド ウインド 340ディグリー アット23ノット レポート 3マイル フロム ランウエイ ファイナル」
(最終進入、了解。東亜国内航空567へ着陸を許可します。現在、滑走路上の風は340度方位から23ノット。最終進入時、滑走路の3マイル手前を通過するときは報告して下さい)
「ラジャ。チェック 3マイル」
(了解、3マイル手前で報告します)
「デイトリム セット」
 上下、左右に激しく揺れつづけるコックピットでは着陸の最終計器点検が始まった。
 そのとき、コックピットの裂風とエンジンの騒音を突き破るようにスピーカーが鳴った。
「トーアドメス アマミ。一方送信(返事を必要としない送信)です」奄美大島の東亜国内航空運航課からのカンパニー無線である。
「ちょっと風が強くなった状況です。だいたい330度方向から22(ノット)のステディ・ウインド(一定方向からの風)のようにとれます。それと(突風は)28ノット。お気をつけて下さい!」
 一般的には着陸前、運航課員は飛行機からの要請で滑走路などの状況を無線で伝えるのが普通であるが、このときは運航課が自発的に567便を呼んだ。それだけ滑走路上の状態が急激に悪化していたのだ。
 激しく揺れるコックピットの中でクルーは最終の計器チェックに忙殺されていた。再び、地上の運航課員のボイスがたたみかけるようにスピーカーから聞こえた。
「567.こちら奄美です…」
 あらんかぎりの力で機体を操りながら、大井機長は副操縦士に指示した。
「了解、と言ってくれ」
「はい」と答えながらもクルーにはその時間がなかった。すぐに着陸前のファイナル計器点検を続行する。
「アンチ・アイス」
「オン」
 ……計器点検の最中も気流は悪くなる一方だった。
 何時、着陸を断念してその場を離脱してもおかしくない嵐の中で大井機長はYS-11を操っていた。
 DCー10の名機長だったハーレクイン・エアーの三宅機長は、「昔、僕はYSを操縦しているとき、どんな嵐の中でもYSを落す(墜落させる)という気がしなかったね。ともかく自信があった」と言う。大井機長も同じ気持だったと後で述懐するが、その自信は訓練されたパイロットとしてもさることながら、YS-11に関してはパイロット一人一人がまるで整備マンのように機体構造を熟知していたからだともいう。
 第ニ次大戦の頃、アフリカの僻地をDCー3で飛んでいたイギリス人のパイロットが或る日砂漠に不時着させたダコタ(DCー3)を見ながら、「大丈夫だよ。俺だったらドライバー一本あれば、こいつを元通り飛ばしてみせるよ」と言い放つその自信と同じように。
「レディオにウインド・インフォメーションを貰おう」
 下降の打合せ通り、スレッシュールド通過時で20ノット以上の風があればゴーアラウンドする。そのためにも滑走路の瞬時の風の情報を管制官に知らせてもらう必要があった。
 小山副操縦士が奄美レディオを呼ぶとすぐにインフォメーションが入ってきた。
「アマミレディオ。トーアドメス567。ファイナルアプローチ ウインド・インフォメーション コール プリーズ」
(奄美レディオへ。こちら東亜国内航空567便です。最終進入に入りますので、滑走路上の風の状況を知らせて下さい。お願いします)
 管制官はウインド・インフォメーション コールが依頼されると、風の方位、速度が変化するごとに逐一、航空機に知らせることになっている。
「アマミ ラジャ。ランウエイ020 ウインド 340ディグリー 12ノット」
340度方位から12ノットの風。一瞬風が弱まった。風が弱い息に入ったのだ。
「330 アット 19」(330度から19ノット)
 YS-11は海から再び陸地に入った。突風で右に流される。
「320 アット 26ノット」
 又風が強くなった。機体が激しく上下に揺れる。
 タッチダウンまであと3マイル(約4・8キロ)。管制官が着陸の許可を出した。
「567.ランウエイ クリアー ウインド 330 22ノット」(567便へ。滑走路はクリアーです。330度から22ノット)
 大井機長が横目で滑走路を確認した。機首と滑走路の角度は依然として約50度の開きがある。567便は斜めの姿勢のまま進入を続ける。
 急激な乱気流で再び機首がはね上がった。渾身の力で立て直す大井機長。そして呟いた。
「これは…ちょいと無理かな?」

東亜国内航空鹿児島支店運航課

 567便の着陸の様子は逐一、つないだままの電話で奄美大島から報告されていた。
「ちょっと、きびしいって。見ていてもハラハラするそうです。充分気をつけてやって(着陸して)欲しいって・・」
 運航課員は祈るように言った。

567便コックピット

 耳を圧する風とエンジンの騒音。ウインド・インフォメーションを告げる管制官の声がとぎれとぎれに聞こえる。
「330 アット 14」
 330度と風の方位は変わらないが、風速は14ノットに落ちた。小山副操縦士は最終の計器点検を確認して報告した。
「350 アット 15」
 風は15ノットと若干落ちたが、350度と横にまわった。
 奄美大島の場合は横風のリミットが16ノットに制限されている。限界ぎりぎりである。
「110ノット!」
 小山副操縦士が大声で進入スピードを告げた。
「340 アット 15ノット」
 再び、風が落ちた。そして少しづつ正面にまわり始めた。
「スレッシューホールド!」
 着地直前、高度50フィート(約15メートル)通過。大井機長が機首を正面に向けた。それに合わせるように風が正面に来る。
「010 アット 15 」
 010度、ほぼ真正面から15ノットの風。着陸は今だ。滑走路がうしろに飛ぶ。
 567便YS-11は滑るように奄美大島空港の滑走路に着陸した。

東亜国内航空鹿児島支店運航課

 電話のベルが響いた。さきほど運航課員が祈るような気持で電話を終えるとき、思わず、受話器を置いてしまっていたのだった。
 全員に緊張が走る。
「え! あ、そうですか! はい。わかりました。どうもありがとうございました」そして運航課員はしっかりと受話器をかけて、早川所長に報告した。
「着きました。567、奄美到着です!」
 早川所長はほっとして無性に熱いコーヒーが飲みたくなった。それは松田も同じだろうと思いながら、「俺の部屋でうまいコーヒーでもどうだ」と運航課長の肩を拳固でつついて立ち上がった。

 YS-11の伝説的な名パイロットとして知られる浜園広幸機長が、離島運航に携わる航空マンの気持を熱く語った。

「私はまあ、無理はしていませんけど、フライトしていてですね。少なくとも可能性があれば挑戦します。これは飛ぶため、運ぶためもとは別に、離島の人がいかに航空路を大事にしているか分かるからです。(離島では)船以外は飛行機しかありませんから。だから少しでも可能性があれば、これに応えなければと思っています。このときの(無事、着陸したときの)島の人の表情は、言葉では言い表せませんね。ほんとうにジーンときますよ。…言葉にはなりませんね。

▼奄美大島進入図
奄美大島進入図

▼奄美大島地図
奄美大島上空地図

武田一男

【特別付録】このドキュメンタリーは航空サウンドでも楽しめます。
※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」/全9回
録音&解説:武田一男 ©Director’s House

【著作について】「台風飛行」の文章、または付録の音源に収録している音楽、音声の一切は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」第8回

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」

嵐の中のアプローチ

「ラジャ。567。チェック オーバー アマミ」と小山副操縦士が管制官に答えた。
(567便。了解しました。奄美空港上空で報告します)
 今日の奄美大島へのアプローチは島の北から入り、機首を南に向けて島の北部を横断して一端、空港上空を飛び抜け南の海上に出て、再び、右旋回でUターンをして機首を北に向け直して滑走路020へ着陸する。チェック オーバー アマミとは、空港上空を通過するとき管制官へレポートするということである。
「サーキットブレーキはオールOKです」と小山副操縦士。
 頷いて、大井機長は再度、着陸を断念する風の限界スピードを確認した。
「(風の方向が)330度あるからさ、20ノットまでだな」
「はい。20ノットまでです」
 ランウエイが020度なので、風の方位330度ということは進入方向の50度左前方、すなはち、時計方位の10時方向から横風気味に吹くことになる。
「プラス10でギリギリだからさ。スレッシュールドを通過するとき、大きい声で(進入スピードが)何ノットか言ってくれ。それからさ。リミットを(風が20ノットを)オーバーしたときは、オーバーと叫んでくれ」
 スレッシュールドとは着陸寸前の高度50フィート(約15メートル)のことで、その地点を失速速度の1・3倍以上の進入速度で通過することが規定されている。
 今日の場合、風の方向を考えてスレッシュールド通過時に20ノット以上の風が吹いていれば、着陸を断念してゴーアラウンド(着陸やりなおし)することになるのだ。
「そして…」と大井機長は着陸時の打合せを続けた。
「ゴー・アラウンドは、(エンジン出力を)マックス・パワーにしてフラップは15(度)」
 それから、大井機長は小山副操縦士を振り向いてにっこりと笑った。
「あわてないでいいからね。その他のコールアイタム(着陸時に二人のパイロットが相互に声で確認する事項)はカンパニー・スタンダード(通常の会社規定)だ」
 そして二人は雲に閉ざされた薄暗いコックピットの中で、下降(ディセント)計器点検を始めた。
「サーキット・ブレーカー」
「チェックド」
「フェルシステム」
「チェック&オート」
「アンチ・スキッド」
「オン」
「キャビン・プレッシャー」
「セット」
「プロップ・シンクロ」
「オフ」
「ランディング データ ブリーフィング」
「えー、チェック&コンプリート」
 計器点検が終わる頃、雨雲を抜けた。現在高度6000フィート。 周囲が幾分明るさを増して、雲の切れ間から奄美大島が見え始めた。
 日頃は緑豊かな美しい島が南の蒼い海に浮かぶが、今日は灰色の霧の中にまるで不吉な亡霊のようにかすんで沈む。
 風で機体が左に大きく流された。
 眼下の海は無数の白波が蛇のウロコのように縞をなして幾重にも広がっている。
 風は高度を下げるにつれて強く吹いているようだった。大井機長は海面を眺めて言った。
「ファイナルは、さ。コンテニュー ウインド インフォメーションを貰おうな」
(ファイナル・アプローチのときは、連続して風のインフォメーションを貰おうな)
 一般の着陸の場合は管制官が着陸許可を出すときに、滑走路上の風の強さと方向を飛行機に知らせるだけであるが、今日のように風が強い場合は最終進入から接地するまで、管制官に滑走路上の風の変化を連続的にコールしてもらうことが出来る。
 奄美大島の最北にある笠利崎の半島が足下に迫った。
 暗い灰色のシートを広げるように急速に低い雨雲が島の南部を覆い始める。島の上空ではもっと風が強くなることが予測された。
「ADF NO2アプローチだからね」大井機長は今日の奄美大島への進入方式を確認した。
 ADFNO2進入方式はハイステーション(空港上空)を2000フィート以下で通過し、機首方向170度で南の海へ出て、高度を下げながら右旋回、機首を010方向にして滑走路020へ進入するのだ。
「よし、カンパニーへ風の状況を聞いてくれ」
 大井機長は奄美大島の東亜国内航空運航課に無線で連絡するように指示した。
 もし、島を離脱するならこれ以上高度を下げたくない。この嵐の中では出来るだけリスクが多いゴーアラウンドは避けたいのだ。
 再び機体が激しく左右に振れる。小山副操縦士が背中にかかるハーネス式のシートベルトをきつく締め直してマイクをつかんだ。
「トーアドメス アマミ 567 風の状況は如何ですか?」
 奄美大島空港の一室で、固唾を呑んで567便の進入を見守る運航課員の不安気な声が、すぐにスピーカーから流れた。
「はい。先程から(風のインディケーターを)見ておりますと、やはり(風の)センターは330方向からの14、5ノットのステディ・ウインドになります。だいたい弱いときで10ノットから12ノット。そのときの方向が310度前後、20ノットから45、6ノットのときは340度方向を出しております。丁度、今は弱い域に入っている状況です。どうぞ」
「了解」と大井機長。
 機が薄い雲の流れに入った。すぐ激しいレインシャワーが窓をたたく。奄美大島の民家が眼下で雨に霞んだ。
「タイミング良さそうだね」
 たしかに今は滑走路上の風の状態はいい。だが、着陸時に風の弱い息にあたる何の保証もない。願わくば、今の状態が着陸まで続いてくれることを祈るのみだった。
 前方に雲の間から奄美大島の空港が視野に入る。現在、高度2000フィート。
「トーアドメス アマミ こちら569。どうぞ」
 10分遅れて飛行している569便が奄美大島の運航課を呼ぶ無線が聞こえる。
「はい。トーアドメス569。トーアドメス・アマミです」
「こんにちは。569の着予定は14時25分。オペレーションはノーマルです。14時のウエザーがありましたらお願いします」
 569便が下降を開始するにあたって着陸データを作成するために最新の奄美大島の天気情報をリクエストしているのであった。
「プラップ10」(フラップを10度に下げて下さい)
 進入体制に入った。強風の中でフラップを下げると翼が風を捕まえて揚力が強くなる分、制御が難しくなる。
 機体が急激に上に浮き、突風が激しく機体を揺った。YS-11の両翼がまるで鳥のようにばたばたと羽ためいている。
 大井機長は額に汗をにじませて全力で激しく揺れる機体を押さえ込んだ。
 すぐ下に奄美大島空港の滑走路が、流れる霧の灰色のベールにつつまれて長い帯びのように横たわっている。
 567便は滑走路上空(ハイステーション)を高度1700フィートで横切って一端、海へ出るのである。
「このまま、ハイステーションを出ますからね」
 567が海へ機首を向けると風の音がエンジンの音に混じって豪々と響き始めた。

奄美大島ランディング

東亜国内航空鹿児島運航課

「おい。奄美大島から何か言ってきたか?」
 早川所長が運航課に入ってくるなり、大声で尋ねた。数人の運航課員が落ち着かない様子で机のまわりを立ち動いている。
「奄美大島から連絡はありません。まだ着陸していません。多分、現在、アプローチ中ですよ」
 567便が無事着陸したかどうかを知るには奄美大島運航課から直接、電話で聞く以外に方法はない。
 松田課長が身体をずらせて、所長のためにソファーの空間を明けた。所長はそれを無視して隣の机から椅子をひっぱり出して、電話の側に後向きに座った。そして我慢の限界にきている子供のように両足で交互に床を踏み鳴らす。
「静かにして下さいよ、所長」たまりかねて松田が大声で怒鳴った。こんなとき、待つ身はつらい。過去、台風のたびに数え切れないほど経験していることだったが、いつもいたたまれない気持に追い込まれる。
 そのとき電話のベルが鳴った。一斉に全員の視線が黒い電話に集まる。担当の運航課員がすぐ受話器を掴んだ。
「オーバー・ステーション? ああ、ターニング インバウンド。ああ、ちょっと(風が)強いですね。はい。そうですか。風の息としてはどんな感じですか?…・はい。わかりました。じゃまた、トライしたら教えて下さい」
 受話器を置いて運航課員が現在の567便の状況を説明する。
「今、ちょっと風が強くなっているみたいですね。今、オーバー・ステーションといいまして滑走路の近くに無線標識があるんですが、そこをヒット(通過)して、もう一回(海へ)出ていって(海から滑走路に)入ってくるところをやっていますから」

567便コックピット

 567便は奄美大島を横断して南側の海上に出た。予想したように追い風が強くなり飛行機が小刻みに揺れる。
「アウトバウンド170度」と機長。高度1700フィート、機首方向170度。
 小山副操縦士がマイクをとって奄美大島空港レディオにハイステーションの通過を知らせる。
「アマミレディオ。トーアドメス567。ADF NO2アプローチ」
(奄美レディオへ。こちらは東亜国内航空567です。これからADF NO2方式でアプローチします)
「567、ラジャ。ウインド 340ディグリー 16ノット。リポート ターニング インバウンド」
(567便了解。現在の風は340度から16ノットです。旋回し終わって最終進入に移ったら報告して下さい)
 風は横風であるがまだ弱い息のままである。この状態があと5分続けばと思いながら小山副操縦士は交信を終えた。
「フラップ20」と大井機長。
 復誦しながら副操縦士は下げ翼の位置を20度にした。油圧でフラップが下がる振動が風の音に混じって機体に伝わってくる。
 アプローチの計器点検が始まった。
「アプローチ・チェックリスト」
「シートベルト&ノースモーキング」
「オン」
「フュエル ブースターポンプ」
「ボース オン」
「フュエル ヒーター」
「オン」
「ギャレバー」
「ニュートラル」
「バイパス レバー」
「ノーマル」
「ハイドロ プレス&QTY」
「チェツクド」
「フュエル トリマー」
「ハーフ セット」
「レディオ アルティメイター」
「セット」
「アプローチ チェツク イズ コンプリーテッド」
 進入時の計器点検が終わると、567便はUターンポイントに近づいた。右旋回を始める地点は空港から南に約10マイル(約16キロ)の海上である。
 眼前には灰色の太平洋。その水平線は黒く厚い雲に閉ざされ、眼下の海は白波が沸き立っている。
「インバウンドはライト・ターンで010だね」(最終進入は右旋回して進入方向は010度だね)
 大井機長が確認した。
「はい。(高度)1200フィートです」と小山副操縦士。そして右側の空に機影がないことを目視して、
「ライト・サイド・クリアー」と機長に伝えた。
 大井機長は567便をゆっくりと右旋回させる。
 右に旋回を始めると、今まで真うしろから吹いていた風が次第に正面にまわって豪々とした風音とともに機体が上下に揺れ始めた。
 高度1200フィート、約360メートル、右に傾いた主翼が泡立つ水面を切り裂くように思えるほど海がすぐ近くに見える。
 突風が果断無く吹きつけて右へ右へと流される飛行機を、大井機長は全力で正面の進入コース010方位に向けた。オートパイロットの装置がない567便YSは、離陸から巡航、そして着陸まですべてマニュアル操作である。その操縦は滅法体力を使う。とくにこの嵐の中では。
「やっぱり2000フィートあたりから気流が悪いね」ぶるぶると振るえる操縦悍を握り締めながら大井機長が言った。
「山の陰に入りますからね」
 奄美大島空港は島の北にあり、空港のすぐ横(北)に大刈山という181メートルの山がある。その山を越えて吹く北風が乱流を起こす原因のひとつになり、奄美大島は着陸が難しい空港に指定されている。
 高度が下がるにつれて山の影響が現われて、再び機体が激しく上下し始めた。

つづく

武田一男

【特別付録】このドキュメンタリーは航空サウンドでも楽しめます。
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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」/全9回
録音&解説:武田一男 ©Director’s House

【著作について】「台風飛行」の文章、または付録の音源に収録している音楽、音声の一切は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」第7回

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」

離島の緊急フライト

 日頃は”乗り合いバス”のような離島運航も、離島住民の緊急医療には欠かせない使命がある。長年、離島に飛ぶYS-11は空の緊急車の役目を果たしてきた。早川所長は次のように語る。

早川所長インタビュー

「例えば離島方面は(本土に比べて)医療体制が遅れています。離島の人たちが重い病気で手術をしなければならないというとき、(病人を)鹿児島や沖縄まで飛行機で移動させなければならないなどは、離島運航やローカル(運航)の大きな特色であります。私たちは一年間に150回あるいは200回も患者輸送をします。それは本土では考えられないことです。(患者)を担架のまま(飛行機の)座席に結び運びます。場合によっては医者同行で酸素吸入をしながら患者を運ぶことも一週間に2回くらいあります」

東亜国内航空の客室乗務員も次のように話す。
― 離島で病気の人を運ぶことがありますか?
「はい。それはしょっちゅうですね。離島で交通事故にあって(患者を都市の)大きな病院に移さなければならないときなど、急遽YSのうしろの座席に担架をセットして運んだというケースや医師同行で点滴をしながら運ぶなど多々ありますね。離島には小さな病院しかないので・・・」
 大井機長もそんな緊急輸送の経験が沢山あるという。この奄美大島へ567便で飛行する一週間ほど前にも緊急フライトがあったばかりであった。
 それは奄美大島の木工所に勤める男性が、誤って機械で親指を切り落した。その男性を急遽、手術のために鹿児島まで運んだフライトである。
 そのときの様子を奄美大島の東亜国内航空の運航課員と大井機長は次のように語っている。
 運航課員「木工所で(指を)切断したんです」
 大井機長「奄美では手術が出来ないから、(患者を)鹿児島の市民病院まで運ぶというので、(奄美大島空港から鹿児島空港へ飛ぶ)最終便に乗せたのです。(指を切断した状態なので)時間的に余裕がないのです。なぜなら(切断された)指が(手に)くっつかなくなってしまうから、気を使いました」
 運航課員「そうですね。(指を切断してから)24時間以内に縫いあわせの手術をすればOKということだったので。それでね。大井機長。翌日、(無事手術が成功したので) そのときのパイロットの方々に何とお礼を言えば良いのかと、身内の方から、わざわざ、お電話がありましたよ」 
大井機長「いや。(それは)嬉しいですね。いやー、(その後、患者さんが)どうだったかと思ってね。(切断された指は)新しければ、新しい程(時間が経過しなければしない程)くっつきやすいでしょうからね」
 運航課員「はい。(あのとき、患者の)奥さんが切断された指を冷凍してナイロン袋に入れましてね。それで(患者に同行して)持って行かれましたからね」
 そのとき、血にまみれた夫の切断した親指を、氷を詰めたビニール袋の中に入れて傷ついた夫に寄り添い、最終便の後部座席に座っていた奥さんの姿が忘れられないと、運航課員は話すのだった。
 大井機長も手術に間にあわせるために、可能な限り飛ばしましたよ、と当時を回想する。

奄美大島下降

 奄美大島に近づくにつれて空の様子は一変し、険悪になっていった。
 今まで続いていた灰色の雲は暗い雨雲に変わり、幾重にも層を作って牙を剥き出すように行く手に立ちはだかっている。
 雲の中から那覇コントロールの無線が奄美大島への下降許可を告げた。
「ラジャ。567。クリアー トウ アマミ レディオ ビーコン バイ プレゼント ポジション ディレクト アマミVOR ディレクト ディセント メインテイン3000 ナウ リービング12000」
(了解しました。567便。奄美ビーコンに沿って現在地からダイレクトに奄美大島VORに向かいます。直ちに高度12000フィートを離れて高度3000フィートまで下降開始します)
 管制官に567便が応答して、奄美大島への進入が開始された。「ラジャ。567。リポート リービング9000」
(こちら那覇コントロール、了解。567便へ。高度9000フィート通過時に報告して下さい)
 流れる暗雲が激しい雨を呼び、コックピットの窓を打つ。窓ガラスにはその雨が滝になって流れている。
 客室乗務員がコックピットに客室の準備が出来たことをインターホンで知らせてきた。小山副操縦士が応える。
「はい。どうも有難うございました。キャビンはOKです」
 大井機長は頷いて、9000フィート通過時には管制官に報告する旨、小山副操縦士に確認した。
「リポート リービング9000だからね」
 雲の中で機首が下がって567便は下降を始めた。コックピットの空気がピーンと張り詰める。
 客室ではキャビンアナウンスが流れた。
「当機はこれより次第に高度を下げて参ります。尚、高度降下に伴いまして気流の関係で揺れて参りますので、お座席のベルトをしっかりとお締め下さい。尚、途中ご気分の悪くなられたお客様はご遠慮なくお座席の前のポケットの白い袋をご使用下さい」
 さすがに乗り合いバスの中のように寛いでいた乗客も窓越しに険悪な雲を眺めて、身を引き締めるようにシートベルトを着けて椅子の背を立てる。先ほどから焼酎を呑んでいた中年の男性も、ビンを足元のバッグにしまって不安そうな表情になった。
 高度が10000フィートを切ると、再び厚い雨雲に入った。
 コックピットは夜のように暗くなり、小山副操縦士が計器類の照明を点灯した。オレンジ色のライトが灰色のコックピットの中ににじむように光る。
 一瞬、機体が激しく上下に揺れた。高度を下げるにつれて気流がますます悪くなる。
「キャビン・プレッシャー(客室の与圧)。セット。それから13時ウエザーでランディング・データーを作って下さい」
 機長の要請で小山副操縦士が、素早く13時の気象データを基準にして着陸に必要なデータを作成する。
「はい。風は340度から16ノット。ガスト28(ノット) QNは2950(ミリバール)です。エレベーションは59。OAP28度。デイトリムが75%。ランディング・ウエイトは5万1515(ポンド)、スレッシュールドが97(ノット)、99(ノット)フラップUPスピードが113(ノット)、ファイナルが124(ノット)です」
 機長は前方を見つめたまま言った。「プラス10でいくとディスタンス(着陸に必要な滑走路の距離)がどれだけになる?」
「トーアドメス567 QNHアマミ 2958」
 大井機長は管制官が気圧を間違えてレポートするのを聞きながら、「今、間違えているな。プラス10でディスタンスは?」と、再度、滑走路の距離を確かめた。
 最低16ノット、最悪の場合28ノット以上の強風が予測されるランディングには通常の進入スピードより速くしなければ、機体が風に流されてしまう。
 大井機長はプラス10ノット(着陸データ上の進入速度より10ノット速いスピード)で着陸するつもりだった。しかし、進入スピードが上がればそれだけ、使用する滑走路の距離が多く必要になる。
「トーアドメス567 QNHアマミ2950 アンド セイ ユア アルティテュード?」
(東亜国内航空567便へ。奄美空港の気圧は29・50インチです。現在の高度を知らせて下さい)
 管制官は再度、気圧を訂正した。飛行機の気圧高度計は滑走路上の気圧を基準としてセットすることで、正確な現在気圧が必要なのだ。
「トーアドメス567。リービング9400」
(東亜国内航空567便です。現在高度9400フィートで降下中です)
「ラジャ。567 クリアー フォー アプローチ トウ アマミエアポート コンタクト タワー アマミ・レジオ」
(了解しました。そのまま奄美大島空港への進入を許可します。以後は空港タワー・コントロールの奄美レジオとコンタクトして下さい)
 飛行高度が10000フィート前後まではACC那覇コントロールの管轄であるが、それ以下は空港管制が担当する。
「ラジャー。クリアー フォー アプローチ アンド コンタクトトウ アマミ・レジオ」
 副操縦士が交信を復誦して、無線周波数をアマミ・レジオ118・1に合わせた。
 567便は雨雲を抜けるとすぐ又、黒い雲の層に突っ込んだ。激しい上昇気流につかまり機体がふわりと持ち上がって、すぐに高速エレベーターに乗っているようにスーッと下がる。パチパチと激しい音がしてフロントガラスを小さな氷の粒が打った。
「1200ギリギリだな」
 左右に揺れる飛行機を操りながら大井機長が言った。プラス10のスピードで進入すると、計算では滑走路の距離は1200メートルぎりぎりまで使うことになる。奄美大島空港の滑走路は1200メートルであった。
「先にアマミ・レディオにコンタクトしておこう」
 今度は突風で機体がぎしぎしと軋んだ。小山副操縦士が奄美大島空港を呼ぶ。
「アマミ・レディオ。トーアドメス567。パッシング9000 エスティメート アマミ 1410 オーバー」
(奄美レデオ。こちら東亜国内航空567便です。現在高度9000フィートで進入中、奄美大島到着は14時10分の予定です)
「トーアドメス567。アマミ・レディオ。ランウエイ020 ウインド 330ディグリー 22ノット テンパラチャー28 QNH2950 レポート オーバー アマミ」
(東亜国内航空567便へ。こちら奄美レディオです。使用滑走路は020。風は330度方位から22ノット。気温28度。気圧は29・50インチです。奄美VOR上空に到着したら報告して下さい)
 雲中飛行の不安を和らげるように、暗雲を抜けて奄美レディオの無線のボイスが力強く響く。

つづく

武田一男

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」/全9回
録音&解説:武田一男 ©Director’s House

【著作について】「台風飛行」の文章、または付録の音源に収録している音楽、音声の一切は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」第6回

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」

奄美大島へ

 薩南洋上、高度12000フィート。眼下は見渡すかぎり雨雲である。
 灰色の絨毯を敷き詰めた広い雲の層に、所々、らくだの瘤のような黒い塊がいくつも突き上げて険悪な様相をみせ、すぐ上空にはやや明るい灰色の厚い雲が、低い天井のように覆っている。
 567便は、その雲の層に挾まれた細長い空の空間を一路、奄美大島に向けて南下していた。今は10分遅れて後続する僚機569便YS以外は、20000フィート以下の高度に他の航空機は全く飛行していない。
 567便の飛行コースは薩摩半島を枕崎上空で抜け、東シナ海に入り、機首方向207度で屋久島の西約40マイルを通過して北緯30度線に向かう。
 30度線を東経129度49.16度にあるBOMAPポイントで通過。ここまで鹿児島からおよそ100マイルの飛行距離である。その後、機首方向207度で東シナ海を南下、奄美大島の北北西約30マイル洋上にあるポイントSATLAへ向かう。
 SATLAはBOAMPからおよそ65マイルの洋上の地点、そしてSATLAから奄美大島へ左旋回し、機首を166度に変えて下降を開始する。
 奄美大島に至るエンルートの気流は、心配するほど悪いものではなかった。
 鹿児島の南端から種子島付近にかけて9000フィート近くまでの高さに伸びていた雨雲の中では、かなり揺れたが、雲を抜けてからは、強い追い風による小刻みな揺れ以外は激しい気流の乱れはなく、台風時の飛行とは思えないほど平穏な巡航であった。
 巡航中は定期的に計器類に目を走らせ、管制交信に耳を傾ける以外、とりたててする仕事もないコックピット・クルーにとって比較的くつろげる時間帯である。
 しかも、普段ならこの薩南諸島の海上を飛行するときは、大きなガラスの窓越しに南の太陽が燦々と降り注ぎ、コックピットの中は暖くて眠りさえ誘う居心地の良い場所になる。
 だが、今日はまるで違っていた。
 日差しが雲に遮られたうす暗いコックピットの中で、二人のパイロットは口数も少なく落ちつかない様子を見せていた。
 嵐の奄美大島への着陸を考えると、この一時的な平穏が早く終わればいいとさえ思える。それは戦場で数時間後に始まる総攻撃を前に落ち着かない気持で待機する兵士のように、つかの間の平穏な時間がよりいっそう緊張感を高めるような気がするのだ。
「やっぱりさ…」
 大井機長は張り詰めた雰囲気を和らげるように副操縦士に話しかけた。
「鹿児島で勤務するかぎり、台風に当たる確立は多いよね」
「多いですよ。毎年、必ず当たりますね」
「東京で勤務するときは、めったに当たったことはなかったけどね」
そして大井機長はしみじみとした調子で呟くのだった。
「鍛えられるよ…」
「運の悪い人なんか毎回当たるんですよね」
「(鹿児島へ)来るたびにな…」
 雲を隔てた上空から沖縄や本土に飛ぶジェット旅客機の交信が聞こえてくる。
「フクオカ・コントロール。ジャパンエア611。メインテイン310」
(こちら福岡コントロールです。日本航空611便へ。高度3100フィートを維持して下さい)
「ジャパンエア611。ラジャ」
(日本航空611便、了解)
「フクオカ・コントロール。オールニッポン98。リービング290 フォー 170」
(全日空98便へ。こちらフクオカ・コントロールです。高度29000フィートから17000フィートへ降下して下さい)
「オールニッポン98。ラジャ」
(全日空98便。了解)
 そのとき、567便の無線が鳴った。
「569?」
 10分あとを飛行している569便が無線で呼び掛けてきたのだ。小山副操縦士がマイクを取る。
「トーアドメス567。トーアドメス569。呼ばれましたか?」
 高度7000フィート前後を上昇中の569便が雲の中から、先行する567便に現在の飛行高度と気流の状態を尋ねてきたのだ。
「(567便の現在高度は)10000(フィート)ですか?」
「(現在高度は)12000(フィート)です」小山副操縦士が答える。
「10000(フィート)でも、やはり雲がかかりますか?」と569便が尋ねた。
「10000でもいけると言ってくれ」
 大井機長が10000フィートで雲が切れることを569便に伝えるように副操縦士に指示を出す。
「10000でも問題ないと思います」小山副操縦士がすぐ機長の指示を無線に乗せる。
「はい。了解です」と569便。
 飛行中に他の飛行機と交信を交わすことは多々ある。例えば、電波の具合で管制官と連絡が出来ないとき、先行する他の航空機にコンタクトして管制官へ到着予定時刻や飛行高度などを伝えてもらう場合や、これから飛行するルートの天候などを尋ねる場合などである。
 569便と交信が終わると、大井機長はインターホン電話で客室乗務員を呼んだ。キャプテン・アナウンスをするためである。
「あの、13時ウエザーをもらったのですが、12時と変わっておりません。そういう状況で(奄美大島への)着陸は五分五分ですね。それでは(アナウンスを)始めますのでお願いします」
 そして機内放送のためにマイクを取った。

「ご搭乗の皆様。本日もTDA東亜国内航空をご利用頂きまして真に有難うございます。操縦席より飛行状況のご案内をさせて頂きます。567便奄美行きは定刻より約1時間ほど遅れて出発しております。
 現在、飛行高度12000フィート、約3600メートル。飛行速度、毎時400キロメートルで順調に飛行を続けております。
 只今の位置は薩摩半島の南端から約50キロの所を飛行しております。当機はこれより北緯30度線を13時38分に通過いたしまして、目的地奄美空港には14時15分の着陸を予定しております。尚、航路上の天候は目的地までは、ほぼ現在のように、大きな雲もなく順調な飛行が続くものと思われますが、着陸進入に関しましては、かなりの揺れが予想されます。
 目的地奄美空港の天候は出発前に、ご案内申し上げました通り、台風の影響でかなり風が強くなっておりまして、現在のところ着陸出来るぎりぎりの状況でございます。
 最悪の場合には鹿児島空港に引き返すことも充分考えられますのでご了承ください。何かご不便な点がございましたら客室乗務員までお申し出下さい。本日はご搭乗有難うございました」

 乗客たちは”最悪の場合、鹿児島に引き返す”という機長のアナウンスなど気にもしていない様子だった。そんなことは離島では日常茶飯時なことだった。
 乗客たちは機内に持ち込んだ手弁当をおいしそうに食べ、ちびりちびりと懐から取りだした焼酎を呑む者もいた。
 乗客の大半は顔見知りで、機内はさながら村から村へ走る乗り合いバスの車内のように打ち解け、寛いで、機窓から嵐の雲を心配気にながめているものなど一人もいなかった。

567便乗客の客室インタビュー

「しょっちゅう乗っておるんですけどね。毎月いっぺんぐらいはね。台風のときは欠航があったりするんですよ。で、欠航とか、しょっちゅう風が強いときなんか、奄美空港なんか、よう着かんですものね。上まで飛んできて、また引っ返すとか。40分くらい乗ってから、もう、帰ったことがあるんです。(奄美大島は)空港が小さいからYSがいちばん良いです」

567便コックピット

 567便は北緯30度線を予定より早く過ぎた。北風が予測したより速いためだ。
 まだ上空には雲があるものの、下は雲も切れ始めて灰色の荒れる海が所々見渡せるようになった。
「やっぱり、白波が立っているね。まっ白だな」
 大井機長は身を乗りだして海を眺めた。
 いつもは青く澄んでいる南の海は灰色に濁り、大きな波頭が帯を連ねたように海面一帯に伸びている。その波頭を見るかぎり海面にはかなりの強風が予想された。
 台風の中心が過ぎたと考えられる奄美大島もまだこんな風が吹いているのだろうか?
 大井機長は現在の奄美大島の出来るだけ詳細な情報が欲しかった。 しかし、情報を得るにしても、この位置からは奄美大島の東亜国内航空運航課と交信するには、距離が遠過ぎてカンパニー無線はつながらない。しかも奄美大島空港にはATIS(空港情報サービス)もないので、直接、空港から情報を得ることも出来ない。
 そのとき、ふと思いついて大井機長は無線機のマイクを取り上げた。
「564、こちら567。どうぞ」
 564便は奄美大島空港で台風をやり過ごし、今日鹿児島空港へ向かう予定のYS-11である。奄美大島の状況を聞くためにその飛行機に呼び掛けようと考えたのだ。
 もし、564便が予定通り奄美大島を離陸していれば、こちらに向かっているので無線は届く筈である。
 しかし、受信機はザーという空電を発しているだけで、飛行機からの応答はなかった。
「130.1(メガヘルツ)にしているかな?」
 YS-11に搭載している無線機はVHF1とVHF2の二つで、VHF1は管制との交信にあて、VHF2は離着陸前後はカンパニー無線の周波数に合わせ、それ以外を130.1メガヘルツにして緊急時や飛行機間の交信にあてている。
「まだだと思いますけどね」小山副操縦士が小首を傾げながら答えた。
「忙しいときだからな…」と大井機長は、もし、564便が離陸していれば今は上昇中で何かと多忙な時だろうと思いながら呟いた。
 しかし、何としても奄美大島の最新ウエザーが欲しかった。ここまで飛んで来て、みすみす鹿児島に引き返したくはない。
「トーアドメス564。こちら567。感度如何?」
 再度、大井機長は564便を呼ぶ。だが、564便からは応答はなかった。
 無線の受信機からは日本航空903便へ、福岡コントロールから那覇コントロールへの移管を呼び掛ける管制交信が聞こえる。
「ジャパンエアー903。レーダーサービス・ターミネイテッド コンタクト ナハ・コントロール1193」
(日本航空903便。こちら福岡コントロールです。レーダー誘導の限界です。以後は那覇コントロール周波数119.3メガヘルツに連絡して下さい)
 北緯130度線は福岡コントロールと那覇コントロールの管制エリアの分岐点である。
 日本航空に引き続き、福岡コントロールが567便を呼んできた。「トーアドメス567。レーダーサービス・ターミネイテッド。コンタクト ナハ・コントロール120.5」
(東亜国内航空567便へ。こちら福岡コントロールです。レーダー誘導の限界地点です。以後は那覇コントロール120.5メガヘルツへご連絡下さい)
「トーアドメス567。ラジャー。120.5」
(東亜国内航空567便です。120.5了解しました)
 VHF1の周波数を120.5メガヘルツに変えて、小山副操縦士は大井機長に管制が変わったことを報告した。
「今、コンタクトはナハ・コントロールです」
 大井機長はVHF2で564便とのコンタクトに腐心していた。どうしても情報が欲しい。そして、何とかこの飛行機を奄美大島に降ろしたい。それは離島を飛ぶパイロットの使命であった。
「今、まだ、(564便は無線のボリームを)しぼっているみたいだな」
 大井機長は再び、564便を呼ぶ。
「こちら567。564。感度いかが?」
 そのとき、564便が応えた。大井機長の顔に安堵の色が走る。
「お忙しいところお手数ですけども、奄美の状況を少し聞かせて頂けますか?」
 上昇中のコックピットの多忙さに気使いながらも、大井機長は気が急く思いで尋ねた。
「えー、了解しました」
 564便のボイスは明瞭にスピーカーから流れた。
「奄美はデータ通り、320(度方向)から360(度方向)くらいで、だいたい12、3ノットの風が多いんですが、ときどき20ノット、あるいは25ノット、ときには30ノット吹くこともありました。空港のインディケーターによると、12、3ノットの風が1分か2分くらい続きまして、それから20から25ノットの風が30秒くらい続くといったような繰返しの状況でした。風の変化が非常に激しいようでした。どうぞ」
 奄美大島の状況は予想した以上に悪いものだった。大井機長は礼を言って無線を閉じた。
 着陸時、320度から360度方位の風は、ほぼランウエイヘディングで正面の風になり20ノット以内なら問題はないだろう。  しかし、25ノットから30ノットの強風が混じるという風の変化は厳しいものがあった。
 実際、着陸の瞬間にその風が吹けば、翼面荷重が少ないYS-11の特性から考えて機体が翻弄され着陸を断念せざるをえない。
 しかし、接地するとき12、3ノットの風に当たれば着陸はたやすいものになる。
 唯、風がそれほど西に回っていないのが唯ひとつの救いであった。「これはタイミングだな」
 大井機長は小山副操縦士の顔を見て言った。
 奄美大島に近づくにつれて、コックピットは次第に緊張感が増し始めていた。

つづく

武田一男

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」/全9回
録音&解説:武田一男 ©Director’s House

【著作について】「台風飛行」の文章、または付録の音源に収録している音楽、音声の一切は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」第5回

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」

航空整備マンの功績

 567便が奄美大島に向かっている間、YS-11の運航を影で支える航空メカニックの人達の影の努力を紹介しょう。この努力があってこそYSの離島運航があったのである。

鹿児島支店整備主任のインタビュー

― 台風時のYS-11の整備についてお話を伺いたいのですが?
「まず、台風の時はその規模によって(YS-11)を他の空港に逃す(エバゲーション)するか、(鹿児島空港に)スティさせるかどうかを台風対策本部と相談して決めます」
― 待避(エバーゲーション)する場合はどんな点に気を使いますか?
「それはまず、何処に待避させるかということです。台風の進路によって空港を決めます」
― 待避するときは整備員も同乗するのですか?
「待避する空港に整備員がいない場合はもちろん同乗します」
― 待避が出来なくて鹿児島空港にスティさせる場合は?
「7機ともスティさせるのは大変苦労があります。整備員を一機一機に張付けて、夜の11時過ぎ風が強くなるころからエンジンを回してYS-11を風に正対させました」
― 風に飛行機を正対させるとはどういうことですか?
「ええ。風の方向に飛行機を向けて駐機する、正対させるんです」
― そのとき何故、エンジンを回すのですか?
「風に飛ばされてしまうからですが、普通はトーイングカーを飛行機に繋いで正対させます。台風の時は風が強いので煽られて危険ですから、飛行機に整備員が乗ってエンジンを回し、タキシングでそのときの風の方位に機首を合わせて向きを変えるんです。又、機内に鉛のバラストを積んだり、燃料を満タンにして機重を重くして風に煽られにくいようにします」
― そのとき留意されるのは?
「なにしろ夜中に7機のYSを並べて、同時にエンジン・ランをするものですから、風もさることながら飛行機同志の接触事故に最も注意を払います」
 夜、嵐の中で駐機場に並んだ7機のYS-11が、翼を揃えて一斉に回すエンジンの音は耳を轟する騒音となる。
 そして風の方位が変わるたびに、まるで海に泳ぐ魚の群れのように、全機が一斉に機首を風に向けて方向を変える。
 その長い繰返しの中で、雨と風に打たれながら各飛行機の間を走り回り、懸命に飛行機を守る整備マン逹・・・。
 インタビューを終えた整備主任が一言、漏らした言葉が印象的であった。
「要は、うち(整備)の連中は、滅法、飛行機が好きなんですよ。子供みたいにね・・・。」

 ここで簡単にYS-11の歴史を振り返って見ると、第二次大戦後、純国産の旅客機としてYS-11の構想が正式に発表されたのが昭和31年の5月、そして製造を担当する会社、日本航空機製造が昭和34年6月に設立され、1号機(試作機)が初飛行したのが昭和37年8月30日であった。
 それから約12年間、昭和49年2月1日に最終号機がロールアウトして製造が打ち切られたが、YS-11は今だに現役旅客機として世界の空を飛行している。
 YS-11が長寿である理由は、むろん、航空機自体の設計、製造が優れていることもさることながら、YS-11を使用している航空会社の優秀な整備技術がその理由であると言われている。
 中でも東亜国内航空の整備は優秀なことで知られていた。それはこの台風飛行が行われた当時の就航率に如実に現われている。
 昭和54年には95・8パーセントの高率で、この就航率が100パーセントに至らない理由は、ほとんど台風など天候によるものであったという。
 これは驚異的な数字である。何故ならこの時、すでにYS-11は製造を中止して6年も経っていたからだ。
 昭和55年、東亜国内航空はYS-11を42機所有する世界最大のYSオペレーターであった(自社所有は36機、リースが6機)。その42機の他に東亜国内航空の整備スタッフが整備契約を結んでいたのは、運輸省航空局のチェツカー機が5機、南西航空の所有機が5機で、合計52機のYS-11のメンテナンスを行っていたのである。
 当時、彼等メンテナンス・スタッフは「YS-11は、(製造を中止した以後)今、自分たちが手塩にかけて完成品となった」と胸を張ったという。
 そのことは昭和55年9月号の航空ジャーナル社の記事に明解に記されている。
「TDA(東亜国内航空)のYS-11は、LANSA(LANSA航空ブラジル)やVASP(VASP航空ブラジル)、VARIG(ヴァリグ航空ブラジル)、PAL(フィリピン航空)など南米や東南アジアで使われていた中古の買戻し機やリース機が、現在15機もある。
 中古機にはそれぞれ固有の特性がしみついているので、(東亜国内航空機としての)信頼性を同等に保つためにはTDAになじませる改修等が必要になる。……中略……
(これら)中古機については、かならず総分解し、TDAショップ(註 当時、東亜国内航空メンテナンスが誇った豊富なYS-11の部品ストックのこと)の部品と交換し、トラブルがなくてもTDAの整備方式でオーバーホール、リペアを施し、その後、路線に投入した。……中略……
TDAの技術陣は、YS-11と共に育ったと言ってよいだろう。YSを通じて航空技術の基礎を学び、実績を積み重ね、時代の流れの中でYSに近代化を施し、自らも成長すると共に、YSという機体も成長させてきた」

YS-11、JA8643号機の奇跡

 奄美大島へのフライトから横道にそれるが、YS-11の整備マンたちの優秀さと飛行機にかける愛情を現わすエピソードをご紹介しよう。
 それは事故でスクラップと認定されたYS-11を復元修復して、再び、飛べる飛行機に戻して空に帰した奇跡のような整備マンの話である。
 その事故は昭和42年1月22日に函館で起こった。
 事故を起こしたYS-11は、東亜国内航空の前身である日本国内航空の所有するJA8643機「黒耀号」であった。(註 日本国内航空と東亜航空が昭和46年5月に合併して東亜国内航空となり、昭和63年4月1日に日本エアシステムに社名を変更した)
 JA8643号機の製造番号2007。すなはちYS-11の第7番目の機体である。
 事故の様子は、そのときの朝日新聞の記事を引用する。

YS-11機、離陸に失敗。国内航空 函館で乗客4人けが。

 〔函館〕22日午前11時40分ごろ、北海道函館空港で、日本国内航空のYS-11機「黒耀号」(飛田武男機長ら乗員四人、乗客十二人)が離陸に失敗、滑走路から約二百メートルとび出して畑の雪の中に突っ込んで止まり、乗客四人が頭や腰などに軽いけがをした。

 函館航空保安事務所は同五十分、滑走路を閉鎖して現場を保存、運輸省航空局の楢林主席検査官が同夕刻現場に到着して、二十三日から本格的な原因調査に乗り出す。

 同機は同日午前十一時すぎ、いったん滑走路に出て、離陸体制に入ったが、飛田機長が操縦系統の故障に気づいて一度エプロン(駐機場)に引返して点検、予定より約五十分遅れて滑走を始めた。
 飛田機長の話によると、滑走路の中ほどでプロペラの回転数が上がらず離陸出来ないと断念、同機長は非常ブレーキなどを使ったが、間にあわなかったという。
 滑走路から約百メートルはずれたところには、左右のプロペラと車輪がもぎとられて散乱していた。
 乗客の話を総合すると、止まったときは左エンジンから火をふき、水道のジャ口をひねったようないきおいで油がふき出していたという。乗客はスチュワーデスの誘導で後部右側にある非常口から脱出して大事にはいたらなかった。
 飛田機長の話  滑走中にレバーが激しくゆれるので離陸を中止、非常ブレーキも使って急ブレーキをかけた。

朝日新聞 昭和42年1月23日付け朝刊

 車軸が折れプロペラをとばしたYS-11「黒耀号」JA8643機は、地面に激突し、そのまま約200メートル、胴体のまま滑走したことで、雪の上とはいえ機体は歪み、主翼やプロペラは大きな破損をうけた。
 航空局の事故調査を受けた後、機体は函館空港の日本国内航空の格納庫に保管された。
 そして一ヶ月後、保険会社の調査も終わり、「黒耀号」JA8643機は全損扱いとなり、スクラップと認定されたのであった。
 松尾整備部次長(東亜国内航空)は当時を振り返って、次のように語った。
「スクラップと認定された事故機の残骸は、保険会社が処分するとしてもお金がかかるし、うまくいってもわずかな金で屑鉄として売るしかない。それで、保険会社は格納庫に積み上げた機体をそのまま国内航空に譲り渡したのです。とりあえず我々はスクラップの中から、まだ使える部品を取り外すことにしました」
 昭和42年当時は、YS-11はまだバリバリの新鋭機であった。 とくにローカル路線を中心に運航していた日本国内航空にとっては主力機であり、YSを製造する日本航空機製造も世界中から受注を抱えてライン生産が全盛だった頃なので、YSの部品類は貴重なものであった。
 それで日本国内航空の本社整備部や技術課、各支店の整備スタッフは我先に函館を訪れ、機体から可能な限り、使用出来る部品を抜き去ったのである。中には”記念品”として持ち帰る者もいたという。その結果、JA8643号機はいっそう無残なスクラップと化した。
 その頃、本社整備部の鳴神部長も函館を訪れた。
 彼は函館の格納庫に積まれた残骸をみたとき、かっては美しい姿で大空を自由に飛んでいた飛行機の姿とはとても思えず、胸に迫るものがあったという。そして彼はそのとき決意した。「この残骸をもう一度、飛行機として空に帰してやることは出来ないものだろうか?」と。
 もともと、鳴神部長は日本航空の整備会社JAMCOから日本国内航空に引き抜かれた整備のエキスパートであった。彼は日本航空整備時代から大きな整備を担当していた。
 かってアメリカ人の指導で胴体がバラバラになったダグラスDCー4のケタをつなぐ大修理の経験もあり、骨の髄からの整備マンであった。
 それで鳴神部長は会社にJA8643を復元修復することを提案したのである。
 しかし、大破した飛行機を修復して空に帰すことは、当時としては夢のような話であった。
「その話を聞いたとき、吃驚しましたね。あんなスクラップを修復して、本当に空を飛ぶようになるのかな?」
 整備技術課の内田課長をはじめ整備部スタッフの間でもその提案は信じられないものだったという。
 そんな状況の中で、鳴神部長の整備魂は燃えた。
「この復元修理は日本国内航空の整備マンを育成するには最適の教材になる」と鳴神部長は会社を説得し、会社は復元修復案を了承したのである。
 事実、この復元修理に携わった人たちが、後に整備部の中枢として、東亜国内航空がYS-11の整備にかけては世界一と言われるようになった礎と伝統を築いた。

 年が変わって昭和43年1月、鳴神部長を中心にした修復グループが発足し、JA8643号機の復元修復が始まった。
 しかし修復スタッフは事故以来、一年間、函館の格納庫に寒風にさらされ放置されていた飛行機の残骸を目にして、改めてこのスクラップが再び、空を飛べるようになるのか、という疑念を払拭することは出来なかった。
「当時は空港の中を通れないので、格納庫まで外側のフェンス沿いに、うさぎの小道みたいな雪道を歩いて毎日、通いましてね。寒かったなあ。しかも氷点下に近い格納庫の中には電気すらもなかったんですよ。
 それで農業用の小さな発電機を調達しましてね。薄暗い裸電球を灯して細々と残骸の仕分け作業をしました。が、まだ、(飛べるようになるのかどうか)疑問はありましたね・・・」(松尾整備部次長)
 たしかにそれまで、日本の航空界では事故で大破した旅客機を復元して空に帰したという事例は一件もなかったので、整備マンが尻込みするのは無理もなかった。
 鳴神部長はその一人一人に、「これは絶対に飛べるようになる」と整備マンの魂を吹き込んでいったという。
 彼は日本航空から修理のベテランといわれた故山川技師を参加させ、復元計画は徐々に進み始めた。
 しかし、問題は山積みしていた。まずその一つは、函館空港では工具も設備も不足しているので、飛行機の残骸を日本国内航空のベースである羽田空港へ運ぶ必要があった。
 問題はその輸送方法である。
 当時はまだ、東北自動車道路もなく、北海道と青森を結ぶ青函トンネルもなかった。機体がバラバラであるとはいえ、これ以上破損紛失しない方法で羽田空港まで運ぶことは復元には絶対条件であった。
 これを解決したのは当時の日本通運の函館支社の途方もなくユニークな発想であった。
 それは筏による輸送案である。大きな丸太を並べた上に角材を敷いた特製の筏を組み、バラバラにした飛行機を乗せてタグボートで引っぱり、函館から海伝いに羽田空港のBランウエイ側の運河まで運ぶという海上輸送案である。運河からはクレーンで機体を釣上げてそのまま格納庫に入れるというものであった。
 この輸送案は結果として大成功を納めた。
 筏は10日間ほどかかって羽田に到着し、スクラップは格納庫102ハンガーに無事、収納されたのである。
 本格的修復作業は時を移さず開始された。
 この航空史上、稀に見る修復作業には日本航空や日本航空機製造も全面的に協力を惜しまなかった。
 作業の第一歩はスクラップを完全な飛行機に復元するまでの緻密な作業プランの作成である。そのプランニングには工程管理を担当した斎藤整備部室長があたった。
「事故が起こった昭和42年の暮れは、私は胃潰瘍の手術をして入院していましてね」
 病後の身体にもかかわらず、徹夜を重ねて斎藤室長は工程プランを作成した。
「ともかく(修復作業は)初めてのことばかりなので、何から手をつけて良いのか分からないというのが実感でした。そんな中で若い連中が頑張ってくれましたね。彼等の努力がこの修復作業の支えでしたね」
 その工程プランを略記すると次のようになる。
 1月15日から2月末までは整備の人員手配(スケジュール)とジグ(工具)の準備、そして機体の故障個所の洗い出し。
 2月末から板金作業。3月6日から胴体、4月中旬には前胴(コックピット)、5月には胴体の接続、5月中旬には翼と胴体の接続。そして7月初めにパワー・イン(電源をつなぎ稼働させる)、7月20日テストフライト。
 鳴神部長の指揮のもとに作業はプラン通りに順調に進んだ。
 スクラップだった残骸が次第に飛行機の姿に変わるつれ、それまで疑心暗鬼だった整備マン一人一人に自信と希望がみなぎっていったという。
「正直、最初は疑念がありましたが、(作業を)やり始めて、だんだんと自信が出てきたというか、俺たちにもこの飛行機を飛ばすことが出来るのかもしれない、と思えるようになりましたね」(斎藤室長)
 だが、苦労も並みではなかった。
 まるごと飛行機を一機製造する、いや、むしろ、それ以上の難しさが求められた。
 航空会社の整備格納庫は、基本的に新しい飛行機を製造する工場とは大きく異なる。だから、胴体と胴体、胴体と翼などを理想的に組立結合するジグ(工具)類はない。
 修復作業はそれら一つ一つを自分たちで作り、工夫することから始まったのである。しかも、YS-11の部品はヨーロッパ製が多く、部品調達も苦労が多かったという。
 そんな状況の中でスタッフの「整備魂」は燃えた。
 そして予定通り、7月20日に新しいJA8643号機は完成しロールアウトしたのである。
 普通、YS-11一機をオーバーホールするには、延べ整備時間は3500から4000時間かかるというが、JA8643号機は完成まで約40000時間かかった。
 すなはち、YS-11を10機オーバーホールした分の整備時間を要したことになる。
 テストフライトは当時、YS-11の最高のパイロットといわれた日本国内航空査察操縦士の紺谷隆一機長が担当した。
 無事、飛行が完了したとき、鳴神部長はじめ整備マン逹は溢れる涙を押さえられなかったという。そして結果としてこの修復作業は鳴神部長の意図したように人材を育てあげた。
 JA8643機の修復で、整備マン逹が得た自信と技術は日本国内航空から東亜国内航空へ、そして日本エアシステムへと引き継がれ、誇り高き「整備魂」の伝統を築く礎として残ったという。
 尚、驚くことに、このJA8643機はその後、「ひだか」号と名を変えて現役に復帰し、日本エアシステムが平成元年12月4日にアメリカに売却するまで日本の空を飛んだ。そして現在もアメリカの空を飛行していると考えられる。
 斎藤かつ馬整備室長は今年(平成13年)で75才。今は引退して富士宮市で元気な余生を送っているが、彼は今だに空を飛んでいるJA8643機のことを聞いて、
「それは、多分、修復作業をした整備の連中の魂が入っているからだろうよ」と嬉しそうに笑うのだった。

つづく

武田一男

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」/全9回
録音&解説:武田一男 ©Director’s House

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」第4回

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」

嵐の奄美大島ウエザー

東亜国内航空鹿児島運航課

 運航課のテレックスが鳴って、午後1時(13時)の気象情報が入った。鹿児島気象台が一時間ごとに知らせてくる航空気象情報である。
 松田課長がテレックスを見ながら奄美大島の最新気象情報を語った。
「340度の16。ガストが28。10キロ以上、2オクタスのキューモラスの2000。28度、22度、2950なんですが、風が280度からバリアブルで20度ですね」
 奄美大島空港の滑走路上では、340度方向(ほぼ北)から16ノットの風。16ノットの風は強風に違い無いが、数時間前に比べ、台風の通過によって幾分良い状態であることを示してした。しかし、ガスト、いわゆる時々、28ノットの突風が吹いており、依然として台風下の影響が残っている状況であった。
 視程は10キロ以上と良好で霧や雨雲でランウェイが見えないということもなく、雲は高度2000フィートに2オクタスの積雲があり、温度は28度、露点温度は22度で29.50インチで普段の寒冷前線の通過時の気圧とあまり変わりはなかった。
 唯、風の方位と域が問題であった。280度(ほぼ西)から020度(北北東)の約100度の広がりで変化する風の方位と16ノットから28ノットの突風まで強弱があることを示していた。
 とくに特殊空港に指定されている奄美大島空港は、横風が16ノット以上であれば着陸が不可能になる。使用するランウエイは020方位なので、風が正面(020度)から吹いている時は着陸可能な状況になるが、進入するときに280度の西風を受けると着陸する状態には程遠かった。
「(先ほどよりは良くなったが)まあ、風が020度まで行くとランウエイはヘディング(正面方位から受ける風なので)ですから、問題は無いのですが、(現状では)ウエスタリーのクロス(西側の横風)なので何とも言えません。(着陸するには)タイミングが必要ですね」

567便のコックピット

 すぐ運航課は567便へ13時の奄美大島の気象情報をカンパニー無線で知らせた。
「トーアドメス567。トーアドメス薩摩。えー、13時の奄美の天候をどうぞ…」
 大井機長は管制との交信モニター(VHFNO2)を副操縦士に替わって引き受けて、小山副操縦士が運航課との交信に応じた。
「はい。567です。どうぞ」
「13時の奄美は340度16(ノット)。マキシマム(最大風速)28(ノット)。10キロ以上(視程)、2オクタス・キュームラスの2000(雲量)。28度(気温)、22度(露点温度)、2950(気圧)。ウインドディレクション(風の方位)はヴアリアブル(変動的)で280度から020度です」
 奄美大島では13時現在、西から北北東にかけて約100度の範囲から、16ノットから、最大28ノットまでの風が不規則に吹いているのだ。
 小山副操縦士はすばやくウエザーリポートの一つ一つの数字を丹念にメモしていく。
 もし、奄美大島空港にATIS(エアポート・ターミナル・インフォメーション・システム)の設備があれば直接、奄美大島空港の周波数に機内の無線周波数を合わせて随時、情報を得ることが出来るが、昭和56年当時には、奄美大島空港にはATISがなかった。それで、奄美大島空港の管制エリア以遠から奄美大島の最新天候情報を得る場合には、各航空会社の運航課が飛行機に無線で知らせるのが普通であった。
 続いて運航課は567便に奄美大島周辺の島の天候を伝えた。
「徳之島は350度、23(ノット)、10キロ以上(視程)、3オクタス(雲量)、2500(フィート)、29度(気温)21度(露点温度)、2956(気圧)」
(徳之島空港滑走路の天候は、風が350度方向から23ノット吹いています。視界は良好で10キロメートル以上、雲は高度2500フィートに3オクタスの雲量です。気温は29度、露点温度は21度、気圧は29.56インチです)
「沖永良部島は340度、20(ノット)、マキシマムが32(ノット)、10キロ以上、2の2000、テンプが28、20度、2957。尚、与論島は330度18(ノット)、マキシマムが26(ノット)、10キロ以上、3オクタス3000、28度、26です。どうぞ」
(沖永良部島は340度方向から20ノットの風、最大風速が32ノット)、視程は10キロメートル以上で雲は高度2000フィートに2オクタス、気温は28度、20度、29.57インチです。 尚、与論島は330度方向から18ノットの風、最大風速は26ノット、視程10キロメートル以上、高度3000フィートに3オクタスの雲、気温28度、26度です。どうぞ)
「はい。了解しました」
 小山副操縦士がメモを終えて交信を閉じたとき、567便の飛行高度が10000フィートに達して雲を抜けた。
 大井機長が鹿児島レーダー管制に報告する。
「カゴシマ・レーダー。トーアドメス567。リービング10タウザンド」
(鹿児島空港出発管制へ。こちら東亜国内航空567便です。現在高度は10000フィート)
「トーアドメス567。カゴシマ・レーダー・コントロール。5マイルズ ビフォー マクラザキ。チェンジ&コンタクト フクオカ・コントロール135.3。レーダー コントロール ターミネイテッド オーバー」
(東亜国内航空567便へ。こちらは鹿児島出発管制です。現在地は枕崎(註 薩摩半島の南にあるポイント)の5マイル手前です。以後は福岡コントロール135.3メガヘルツへ交信して下さい。こちらのレーダー誘導の限界地点です)
「ラジャー、567。フクオカ 135.3 グッデイ」
(567便、了解しました。福岡管制の周波数は135.3。グッディ)
 鹿児島空港のレーダー誘導は空港を中心に約30マイルの半径内をそのテレトリーとし、又、航空機が高度10000フィートを超えると、高高度の飛行をコントロールする福岡管制のレーダーが担当する。
 すなはち、567便はこのあと、福岡コントロールと那覇コントロール、そして着陸、進入時は奄美レジオに引き継がれるのだ。
 詳細に言えば、日本の高高度空域は航空交通管制部(ACC)が、日本の空域を四つに分けてコントロール(北から札幌、東京、福岡、那覇の各管制エリア)しているが、567便の飛行は、まず福岡コントロールの南九州西セクターが担当(飛行高度が23000フィート以上は133.85メガヘルツ。22000フィート以下は135.3メガヘルツの周波数)して、北緯30度線付近で那覇コントロール、沖之北セクター(132.3メガヘルツ)に引き継がれ、最終的には奄美大島レジオ(118.1/126.2メガヘルツ)に替わるのである。
 鹿児島レーダー・コントロールと交信を終えた大井機長が、小山副操縦士と管制無線を交代しながら、
「スクォークは?」と、福岡管制エリアに入ったときに指定されている567便のレーダー認識番号を確認した。
「4421です」と小山副操縦士。そして「福岡コントロールへコンタクトします」と、周波数を135.3メガヘルツに切り替えて福岡コントロールを呼んだ。
「フクオカ・コントロール トーアドメス567 リービング10300 アサイン 12000」
(福岡コントロールへ。こちらは東亜国内航空567便です。現在高度10300フィート通過。指定高度12000フィートへ上昇中です)
「トーアドメス567、フクオカ・コントロール。スクォーク 4421」
(東亜国内航空567便へ。こちら福岡コントロールです。貴機のレーダー認識番号は4421です)
 桜島を通過した頃から567便はかなり厚い雲の中に入った。そして高度10000フィートを過ぎるとやっと雲のトップに出たが、青空は見えなかった。
 上空20000フィートくらいに厚い雲の層があり、それが頭上を覆い、丁度今は上下ふたつの雲海に挾まれて雲が作る空間を飛行している。
「やっぱり、風の振れ幅が西に回ってきたな」大井機長が奄美大島の天候に話を戻した。
「ええ、280度まで振れていますね」と小山副操縦士。風がこのまま西に振れれば着陸は困難である。
「ベロシティは変わらないけどさ…」と言って、大井機長は窓越しに広がる暗雲の彼方の奄美大島を見つめるように、前方に視線を投げた。
「はい。13時、奄美です」
 コックピットのスピーカーから、すぐ後を飛ぶ569便へ運航課が天気情報を知らせるカンパニー無線が流れてきた。
 その無線と重なって福岡コントロールが567便へ飛行高度を問い合わせて来る。
「トーアドメス567。レーダー・コンタクト。25マイルズ サウス オブ カゴシマ。セイ、アルティテュード?」
(東亜国内航空567便へ。貴機をレーダーで捕捉しています。現在地は鹿児島の南25マイル地点を飛行中です。現在の飛行高度を知らせて下さい)
 小山副操縦士がマイクを取って答える。
「ラジャー、567。リービング 10タウザント 600ハンドレット」
(了解。こちら567便です。現在高度は10600フィートで上昇中です)
「トーアドメス567、ラジャ。エリア QNH 2956」
(東亜国内航空567便へ。了解しました。現地域の気圧は29.56インチです)
 管制コールを復誦して無線交信を終えた小山副操縦士は、再び、機長との会話を続けた。
「(奄美大島の)クラウド(雲)は減ってきているみたいですけどね…」
 だが、この時点で気象データをどのように分析予測しようとも、奄美大島が台風22号の余波を受けていることには間違いなかった。 大井機長は全日空機の交信を聞きながら、独り言のように呟くのだった。
「しかし、このウエザー(気象情報)だけでは(現地の天候を知るには)限界があるな。(要は)状況を知るにはさ。行ってみなければわからないよね」
 YS-11は一路、奄美大島へ向けて飛び続けた。

つづく

武田一男

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」/全9回
録音&解説:武田一男 ©Director’s House

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