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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」第3回

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」

桜島噴火

東亜国内航空運航課

「桜島が爆発したようです」
 一枚のテレックスを持って運航課員が松田課長のデスクに駆けよった。
「またか。よりによってこんな嵐のときに爆発か!」憮然とした調子で松田はテレックスに見入った。
 桜島噴火の情報は鹿児島気象庁の航空測候所からその都度、テレツクスで各航空会社の運航課に知らされる。
「まあ、鹿児島に住んでいるかぎり、桜島の噴火は避けられない事とは言えよく爆発するよな…」と呟きながら、松田はテレックスの紙を爪で弾いた。
「でも、今日の噴火はたいして大きいものではないようですね。体感地震もなかったし、爆発音も響かなかったですからね」
 運航課員が「不幸中の幸い」ですか、と笑ってつけ加えた。
 桜島は今年に入っても頻繁に噴火を繰返していた。つい数日前も地震を伴ったかなり大きな噴火が起こったばかりである。
 年に数度、大きな爆発音と揺れ、そして火山灰が鹿児島市内まで降ることはあったが、大抵の場合は観測所で「空振」、すなはち噴火時に起こる空気の振動が観測される程度の噴火が多い。
「たしか、窓ガラスは響かなかったよな?」と松田が窓を振り返って尋ねた。
 空振が大きい場合、ビリビリと窓ガラスが振動したり、ときには窓ガラスが割れたりする。それは噴火の規模を知る目安のひとつになっていた。
「ええ。気付きませんでした」
「雷は?」と松田が駄目を押すように運航課員に確認した。
 火山噴火の場合には激しい空気の振動が生じて、それが大気中の磁気に変化を起し、激しい雷が発生することがある。
「まだ、確認していませんが、起ってはいないようですね。雷があれば567便が何か言ってくるでしょう」

松田運航課長インタビュー

― 今、桜島が爆発したというテレックスが入りましたが?
「噴煙が飛行機に対する影響が大きいものですから。それで(桜島の噴火は)鹿児島特有の他所では見られない情報ですよ。(現在)桜島が爆発して、(このテレックスによると)丁度、噴煙がサウスウエストサイドに流れています。これは風の情報ですね。850ミリバール、5000フィート(高度)が40度の17ノットの風。それから、700ミリバール、いわゆる10000フィートが40度の8ノットの風。500ミリバール(2万フィート)が330度から10ノットの風。この様に(各高度における)風の流れの方向をこれが(テレックス情報が)アドバイスしてくれるんです」

― (桜島の噴煙は)飛行機にかなりの影響を与えるものなのですか?
「はい。一昨年の12月に噴煙でトライスター(トライスターL1011)のコックピットのガラスが割れまして、それ以来…」

 インタビューの途中で567便から運航課に無線連絡が入った。松田は一瞬、インタビューを中断して無線に耳を傾ける。
「567.トーアドメス・薩摩。どうぞ」運航課員がマイクを取って567便に応答を求めた。

567便コックピット

「はい。12時55分。58分。オペレーションはノーマルです」
 離陸作業が一段落するとコックピット・クルーは会社の専用無線周波数(カンパニー・フリクエンシー)で運航課に離陸の状況や時間などを連絡するのが定まりになっている。
 小山副操縦士はランプアウトの時間が12時55分であること、離陸が12時58分で飛行が順調なことを鹿児島支店運航課、コールネーム”トーアドメス薩摩”にレポートをして、奄美大島空港の予定到着時刻(ETA)も伝えた。
「着予定が14時15分です」
「はい。567便。了解しました。(こちら)トーアドメス薩摩。行ってらっしゃい」と運航課員が567便に答える。
 567便との交信に耳を傾けていた松田運航課長はインタビューに戻った。

― (今の交信で)桜島の噴火のことは飛行機(567便)には報告しないのですか?
「ええ。飛行機がテイクオフして出発するときには(飛行機から)桜島がよく見えるものですから問題はないのですが、(鹿児島空港に)帰ってくるときはアドバイスするし、また丁度、桜島の高さ4000フィートから5000フィートぐらいに雲がかかっているときには、(噴煙が)どちら側に流れているかわからない。それで風をアドバイスして噴煙の流れの方向を(飛行機に)知らせるのです」

 そのとき、再び運航課に無線が入った。受信機を通してレシプロ機がランナップ音が聞こえる。
「トーアドメス569。トーアドメス薩摩、どうぞ?」
 567便に引き続き奄美大島空港へ向かうことになった2機目のYS-11、569便が出発準備を完了して駐機しているスポットから運航課を呼んできたのだ。
「こちら569。薩摩、どうぞ」
 今度は運航課員が569便に桜島の噴火を伝えた。
「12時58分に桜島が爆発しました。(567便からの)インフォメーションはまだ入っていません。567が今、ディパーチャーしましたから(詳細が分かり次第に)後ほど送ります。どうぞ」
 569便との交信が終わると、すぐ上昇中の567便が桜島の噴火の様子を運航課にレポートを始めた。

567便コックピット

「トーアドメス薩摩。こちら567ですけども、桜島の灰が南の方に流れているように見えます。もう少し経ちましたら、くわしく報告します」
「はい。よろしくお願いします」
 マイクを置いて大井機長が小山副操縦士に声をかけた。
「かなり高く上がっているね。あの灰は」
 空が幾分明さを増したためか、雨雲の中でも噴煙が黒々と際立って見えた。
 煙は幾重にも重なり、層をなして雨雲を突き破り、3000メートルに近い上空にたなびいている。その突端は強い北風を受けて水平に切れて、かなとこ雲を逆さにしたように聳えている。
「ああ。凄いですね…」と小山副操縦士も桜島の噴火を眺めて驚いた表情を見せた。
 コックピットのスピーカーから567便のすぐあとに離陸した全日空ジャンボ機の交信が聞こえた。
「鹿児島ディパーチャー。オールニッポン546 デパーティング ナウ」(鹿児島出発管制へ。こちら全日空546便です。今、離陸しました)
「オールニッポン546。ラジャー レーダーコンタクト クライム トウ 270。リポート リービング 10000 オーバー」(全日空546便へ。了解しました。貴機をレーダーで捕捉しています。27000フィートへの上昇を許可します。10000フィートに達したら報告願います)
「クライム270。レポート 10000」
(27000フィートへ上昇。10000フィート通過時にレポートします)
 続いて管制官はニアミスを避けるために、567便に他機の情報(トラフィック・インフォメーション)を伝える。
「トーアドメス567。8000 トラフィク ナウ。 イレブン オクロック ゼン シックスマイルズ ノースバンド クライミング」
(東亜国内航空567便へ。8000フィートに飛行機がいます。11時方向、6マイル先を北に向かって上昇中です)
 大井機長は雲の中に視線を走らせて上昇していくジャンホ機を追い、小山副操縦士はすぐに管制官に知らせた。
「トーアドメス567。ルッキング フォア。ナウ リーチング 7000」
(東亜国内航空567便です。探しています。まもなく高度7000フィートです)
「トーアドメス567。トラフック クリアー 。クライム アンド メインティン12000 リポート パッシング 10000」(進路に他の飛行機はありません。そのまま12000フィートへ上昇を許可します。10000フィートを通過するときには報告して下さい)
 交信を担当する小山副操縦士が管制官に復誦すると、大井機長はカンパニー周波数で、再び桜島の状況を運航課に報告を始めた。
「トーアドメス薩摩。567 どうぞ」
「567.トーアドメス薩摩。どうぞ」
(567便へ。こちら東亜国内航空運航課です。どうぞ)
「567です。桜島の灰はだいたいトップ(が)7500(フィート)から8000(フィート)に上がっています。かなり濃い灰のようです。流れている方向はサウス(南)から200度方向(約南南西)ではないかと思います。どうぞ」
 YS-11は現在、桜島の噴煙とほぼ同じ高度に達している。運航員が567便のレポートを復誦し終える。
「やはり、(噴煙の方向が)南に回ってくるだろうな…」噴煙を眺めながら大井機長が言った。
 灰が南に回るとすれば当然風は北風である。すると鹿児島より南にある奄美大島でも現在、風は北から吹いていることになる。奄美大島の着陸予定滑走路は020。すなはち北北東方位なので北風はランウエイ・ヘディングになり、状態は少しは良くなるかもしれない。
 大井機長が運航課と交信している間、管制の無線を傍受していた小山副操縦士が、
「569がすぐ(あとを)追っ掛けてきます」と、567便に続いて奄美大島へ向かう569便YS-11が、離陸を完了して鹿児島ディパーチャー管制に入ってきたことを機長に報告をする。
「今、上がったばかりです」
 台風22号で閉ざされた離島への足を開く為に、今、2機のYS-11が奄美大島に向かって飛行を開始したのだ。
 これは台風時ならではの特別なYSの飛行編隊であった。

早川所長インタビュー

― YS-11が離島運航に欠かせない飛行機という理由は?

「離島はご承知のように、大部分の滑走路は1200メートル、幅も30メートルという小さいもので、しかも、離島特有の気象条件、(すなはち)横風が強いとか、海面から近いために潮風を受けるとか、非常に気象条件、あるいは飛行場の条件が悪い中であのように飛べるのはYS-11を除いては(他に)ないわけです。したがって、私どもが担当している奄美群島方面はYS-11に頼らざるをえないのです」

― 現在、東亜国内航空鹿児島支店にYS-11は何機いますか?
「7機、預かっていますが、その7機で一日、20便ちかく我々の管轄で運航しています。(YS-11)は離島の人たちにとっては生活の足と言いますか、ほんとうに無くてはならない存在になってしまっています。そのために最近、路線の合理化などの(問題)がありますが、離島の人たちにとっては(路線の合理化)は非常に深刻な問題ではなかろうかと考えています」

 この567便の台風飛行が行われた昭和56年を起点に振り返ると、昭和40年4月、日本国内航空(東亜国内航空の前身)が、YS-11を東京、徳島、高知線に初就航させて以来、すでに16年の歳月が経っており、とくにYS-11が昭和47年に製造を中止してから8年が経過して、当時YS-11の経済効率の悪さが目立っていた頃であった。。
 YS-11の整備費は昭和50年を100とした場合の指数は、昭和55年では249・1と2倍以上に跳上り、燃料効率はやはり昭和50年を100とすると昭和55年では333・8と3倍の指数を示していた。
 一方、当時は東亜国内航空では路線のジェット化が急速に進み、将来の国際線への周航を睨んで航空会社として大きく飛躍する時であった。
 待望の大型ジェット旅客機Aー300を8機購入契約を結び、昭和50年に始まった東京ー福岡、札幌など幹線の運航を充実させると共に、得意とするローカル線にもDCー9スーパーやAー300を投入し、東京ー鹿児島、福岡ー鹿児島、東京ー三沢、大分、帯広などを次々とジェット化し、ジェット旅客機による大量な旅客運送とスピード化など合理化の波が押し寄せていたのである。
 そんな中で採算に合わないYS-11の路線が閉ざされるなど問題も生じていた。
 早川所長は公共交通機関である航空会社の使命としても離島の生活の足を確保するためには、赤字覚悟でもYS-11によるキメ細かな運航を続けることが必要であると考えていたし、主張もし、その運航に情熱を傾けたひとりであった。
 嵐の奄美大島へ向かう567便に搭乗している旅客も離島運航におけるYS-11の必要性について次のようにインタビューに答えている。

567便客室、乗客のインタビュー

「僕は(鹿児島の)野菜市場に勤めています。22号台風の影響や植えつけの状態など視察に行くために(奄美大島便に)乗りました。YS-11は(私達にとって)一番手っ取りばやい足です。今日のように(離島への)船はちょっとした台風では欠航しますから、YS-11はどうしても必要ですね。もう、10年くらいYS-11に乗って(離島に行って)いますから(YSに愛着があって)、途中で故障したり、欠航したりすると淋しいですね。それから、与論島へ飛ぶYS-11(の路線)が無くなると聞いて、どうしょうかなと考えています。永良部島まで(YS-11で)で行って、永良部から船で行くなど考えると淋しいなと思います」

▼鹿児島-奄美:航空路地図
鹿児島-奄美:航空路地図

つづく

武田一男

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」/全9回
録音&解説:武田一男 ©Director’s House

【著作について】「台風飛行」の文章、または付録の音源に収録している音楽、音声の一切は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」第2回

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」

YSー11奄美大島行き567便 出発

東亜国内航空鹿児島支店運航課

 現在午後12時10分。運航課では567便の大井千明機長と小山政則副操縦士、それとディスパッチャーの山本が、嵐の奄美大島へ飛行するためのブリーフィングを始めていた。大井機長が長身を折り曲げるようにしてテーブルの上に置かれた天候データーに目を通している。
 データによれば台風は奄美大島の南にあって北上を続けているが、予定コースよりかなり東にそれた様子なので、その分、状況は好転しているのかもしれないと思いながら、大井機長はディスパッチャーに尋ねた。
「いや…」と、若い機長の希望的な観測を打ち崩すように山本ディスパッチャーは、ボールペンを指で遊ばせながら首を傾げた。
「良くなりつつあるというよりも、むしろ台風が北へ進むと風としてはゆっくり西に回りますよね」
 奄美大島着陸には西風は危険な風である。ランウエイは02方向と200度方向、すなはちほぼ南北へ走る滑走路が一本あるだけなので、南から来る台風が島の洋上を北へ進めばランウエイ上では西風、すなはち危険な横風となる。
「まあ、急激には回らないでしょうが…、良くなる状況ではないことは確かですね。風が西側になればね」
「そうですか…」大井機長は天候データだけでは推し量れない風の勢いに内心驚きを感じながら、「それで奄美のディスパッチ(運航課員)からの報告は受けたのですか?」
「ええ。データとしては(風の方向は)340度ぐらいで、27、8(ノット)の風が5分に一回くらい、20ノットを越える風はかなり頻繁に出ると報告を受けています。そしてときたま、一分くらい風がストーンと落ちるらしいのですよ。だからタイミングがよければ(着陸可能)と現地は言っていますが…」
 山本ディスパッチャーは改めて机の上に広げたデータ資料の中から強い風が吹いているところを指差して強調した。そして「実際にこの風が吹いているということ?」と困惑気味な表情を見せる大井機長にたたみかけるようにつけ加える。
「ええ。吹いています…。覚悟せねばならんでしょうね」
 しかし、早川所長が言うように、島に帰りたいという乗客のことは勿論のこと、欠乏しているであろう生鮮食料品や医療品など離島の現況を考えて、一刻も早く飛行機を飛ばせたいという離島パイロットの強い気持が、大井機長を突き動かす。
「しかし、どうですか、今の状況より風は強くはならないのでしょう?」
 機長の気持は山本ディスパッチャーにも理解出来るし、所詮同じ気持ちであった。たしかに、鹿児島を離陸すれば奄美大島までは約80分のフライトなので、到着する頃には今の台風の動きからその中心は島の洋上を通過しているだろう。理論的には現時点よりも風は落ちる筈である。だが、台風の複雑な風の動きはデータだけでは推し量れないことも長年の経験からわかっていた。
「あとは、(風の)ダイレクション(方位)だけの問題ですね」と再び駄目を押すように問い返す機長に、
「ええ、まあ、そうですがね…しかし」と、少し考え込みながら山本デスパッチャーは否定的な見解を言下に匂わせた。そして、
「機長。那覇でも330度(北北西)から、今朝と同じような風が吹いていますよ」と今回の台風は台風一過の青空とはいかなくて通過したあともまだ乱風が残っていることを伝えた。
 飛行機を飛ばせる、飛ばせないは機長とディスパッチヤーの合意によるが、最終結論は機長の判断に委ねられている。
 数十名の乗客と乗員の生命が懸る機長の判断をより正確なものにするためにも、場合によっては重箱の角をつつくような意地悪とさえ思える情報も提示して運航の安全を期すのもディスパッチャーの仕事である。そのことは大井機長も熟知していた。
 機長という職務は常に新たなる局面に対峙して判断、決断の連続であるが、民間航空の場合、安全運航という使命のためには臆病とすら自ら思えるくらいに慎重な判断にならざるをえないのが普通である。スピードが速い、システム化された大型ジェット旅客機の運航の場合は、とくにそうで、その結果として便を欠航させる場合も多々生じることは止む得ない。
 だが、一般の旅客運航に比べて、利用者のより身近なところで生活に結び付いている離島運航の場合は欠航の意味が多少異なる。
 欠航は即、離島住民に多大な影響を与えるのだ。
 とくに今日のような台風の時はなおさらで、離島運航は”多少の困難が予測されても運航すること”も機長の使命のひとつであった。 熟慮の末、途中で鹿児島に戻ることになるかもしれないが、大井機長は飛ぶことを選んだ。
「どうですか。燃料を積んでリターン条件でいきましょうか?」

大井機長へのインタビュー

― キャプテン。着陸できるかどうかは現場(奄美大島)の天候次第ですか?
「今、地上にある(鹿児島支店で入手可能な)データで見た限りでは(着陸可能か否かは)五分五分です。一応、(奄美大島は)特殊空港ですので、横風成分が16ノットまでなら降りれますが、今、その限界ぎりぎりにあるんですよ。それで(奄美大島上空に)到着した時点で(横風が)限界内にあれば進入を開始するし、限界以上であれば上空でホールド(待機)するなり、明らかに着陸の可能性がなければ(鹿児島に)引き返すということです」
 567便の運航が決まると、東亜国内航空の鹿児島支店は俄かに慌ただしくなった。
 航空局に奄美大島への飛行プランが提出され、コックピット・クルーは客室乗務員とブリーフィングを行い、整備員は燃料を搭載、グランドスタッフは搭乗手続きを開始する準備に入った。

東亜国内航空567便YSー11コックピット

 12時40分。567便のエンジンが始動した。
 567便に使用されるYSー11の機体番号はJA8804。製造番号は2081であった。
 YSー11は全部で182機が製造された。製造された順にそれぞれ2000番台の製造番号がつけられている。
 初号機は2001。最終号機は2182。すなはち567便YSー11は81番目に製造された機体である。
 機名は「たかちほ」。初飛行は1968年の9月16日。YSー11が旅客機として実働を始めて約6年後の機体である(初号機が初飛行したのが1962年8月30日。最終号機の初飛行は1973年4月11日)。
 この機体は初飛行のあと、ブラジルのクルゼイロ航空に納入されて南米の空を約8年飛んだ。その後1977年8月4日に東亜国内航空が購入して「たかちほ」と名前を変えて今日まで約4年間、日本の空に就航させている。
 ちなみに、この機は鹿児島ー奄美大島を飛び、すぐ、与論島を往復、奄美大島から鹿児島に戻ると大阪へ飛行することになっている。YSー11は酷使に耐える機体の頑丈さも取り得のひとつであった。
 2081号機、567便の力強いエンジン音が嵐の鹿児島空港に響き渡った。
 大井機長はエンジンを始動させながら右席に座る小山副操縦士に声をかけた。コックピットの前方には不吉な気持にさせる灰色の雲が見える。一瞬、強い風が機体を揺すった。
「(普段の低気圧)前線のときはね、今日ぐらいの風だったら、そんなに気にならないけど、台風と名前がつくとなんだか嫌な気分だね」
「ええ…」と頷きながら、小山副操縦士は先ほどから胃のあたりが軽く締め付けられるような気がしていた。恐怖という意識はないが、これから約1時間半の台風飛行を前にして、身が引き締まるこの気持は明らかにいつものフライトとは異なっている。きっと機長も同じなのだろう、と思いながら、気を紛らわすように窓の外に視線を移した。
 いつもは青い空と濃い緑で色鮮やかな鹿児島空港の風景が、今日は灰色のベールに深く包まれている。
 少し先のゲートには風にさらされた自社機のDCー9が見え、コックピットのスピーカーからは、そのDCー9が管制塔と交わすフライトプランの交信が聞こえていた。
「トーアドメス546。クリア トウ スタート オオサカ。プロポージング 270」
(東亜国内航空546便です。エンジン始動をします。(ディスティネーションは)大阪。(飛行高度は)27000フィートを希望) 
 かん高く迫り上がるターボプロップのエンジン音が安定すると両翼のエンジンが始動を完了した。YSー11は競技を前にしたアスリートのように機体中に活力を漲ぎらせ始めた。
 大井機長が励ますような仕草で副操縦士の肩を軽く叩く。そして半分は自分自身にも言い聞かせるように呟くのだった。
「それほど、心配することはないんじゃない…」

567便客室

 大井機長が客室にエンジン始動が完了した旨を知らせると、キャビンアテンダントはすぐにボーディング・アナウンスを始めた。
「皆様、お待たせ致しました。本日もTDA東亜国内航空をご利用頂きましてまことに有難うございます」
 今日の客室には城悦子、新原由美子のふたりの客室乗務員が搭乗していた。
 いつも奄美大島便に乗務しているふたりには、満席の機内に顔見知りの客が多かった。
 この567便は数日欠航した後の初便なので、いつもよりは機内持ち込みの手荷物が多かったが、ほとんどの乗客はYSー11に乗り慣れていて、自分でテキパキと手荷物を荷棚に整理し、余分なものは足元の座席の下に詰め込んで、客室乗務員として手助けすることもほとんどなかった。
 最前列に座っている中年の女性客の座席の下から、スーパーマーケットのビニール袋に入れたダイコンの葉と牛肉のつつみが覗いているのを頬えましく思いながら、客室乗務員はアナウンスを続けた。
「本日は台風22号の影響により奄美大島上空は大変、風が強く、上空に参りまして着陸不可能な場合は鹿児島空港に引き返すことも予想されています…」
 何とかこの乗客達を無事、奄美大島に降ろすことができますように、と祈るような気持ちで客室乗務員は再びマイクに向かうのだった。

567便コックピット

 コックピットではエンジン・スタートを終えたクルーが管制塔に滑走路までのタクシー(地上走行)の許可を求めていた。
「カゴシマグランド。トーアドメス567。リクエスト タクシー」(鹿児島空港地上管制へ。こちらは東亜国内航空567便です。タクシーの許可を願います)
「トーアドメス567。クリア タクシー ランウエイ34」
(東亜国内航空567便へ。滑走路34へのタクシーを許可します) 12時55分。大井機長はスロットルを押してエンジン・パワーを上げると567便は強風を受けながら、ゆっくりとスポットを離れた。
 風の為にプロペラの音が普段より遠退いて響いたり、すぐ耳元で聞こえたりしながら風に波打っている。
 ランウエイに向う誘導路の上には他機の影はなく、上空の灰色の空を海鳥が群れをなして北風に流されて海の方向に飛んでゆくのが見えた。
「本日は台風22号の影響により奄美地方は風が大変強く、上空に参りまして着陸不可能な場合は鹿児島空港へ引き返すことも予想されております。あらかじめご承知おきくださいませ。尚、天候調査の為、皆様のご出発が1時間10分ほど遅れていますことをお詫び申し上げます…」
 アナウンスが終わる頃、567便はランウエイ34の端に着いた。「テイクオフ・チェックリスト!」
 離陸の計器点検が始まった。
「テイクオフ ノティフィケーション」
「ノティファイ」
「ピート ヒーター」
「ノー ユース」
「フュエル ヒーター」
「オフ」
「グランド クーリングファン アンド スピィル バルブ」
「オフ アンド マニュアル」
「W・M・システム」
「オン」
「トランスポンダー アンド DME」
「オン」
「ガスト ロック」
「スタンバイ」
 離陸時の計器点検が完了し、「クリア フォア テイクオフ」と離陸許可を確認すると、大井機長はYSー11を誘導路の端に入れた。
 滑走路は雨に濡れて、ランウエイの向側にある数束の刈り残された草が強い風になびいている。
「ウエットローリング テイクオフ コール 80 V1 VR V2 チェック エンジンインストルメント。ガストロック オフ アンド フリー」
(ウェットローリングのテイクオフをします。V1 V2時にはスピードをコールして下さい。エンジン計器の確認とガストロックはオフにして下さい)
 小山副操縦士が復誦し、ガストロックをオフにする。
 大井機長は一度体内から息を吐き出し、眼前に連なる灰色の滑走路を眺めた。
 「レッツ ゴー」
 大井機長はスルットル・レバーをテイクオフの位置に上げ、ブレーキを外した。
 機体がゆっくりと弧を描き、機首がランウエイ方向に向く。そして轟音をあげて雨で光る滑走路を走りだした。
「フライトポジション、ライトアウト、プレッシャーUP、エンジン、ノーマル」計器類をチエックする小山副操縦士の声が響く。
 風の音とエンジン音がビリビリと機体を振動させた。
「80ノット」(スピード80ノット)
「ユー ハブ」
「アイ ハブ」
「V1 VR」
 大井機長は操縦悍を引いて機首をあげる。機体が風を捕まえて浮いた。
「ギヤ・アップ!」(車輪上げ!)
 12時58分。台風の奄美大島に向けて、567便VSー11が鹿児島空港を離陸した。
 鹿児島上空は台風の余波で生じた雨雲が広く覆って、567便は離陸するとすぐその雲の中に入った。
 ゆっくりと右旋回が始まる。
 灰色の雲の切れ端がプロペラにからまって引きちぎられた綿のように後方へ乱れ飛んだ。
「ディパーチャー コンタクト」
(鹿児島空港出発管制に連絡して下さい)
 今後は管制エリアが離陸を担当する鹿児島タワーコントロールから鹿児島レーダー管制へ移管する。
「カゴシマ・レーダー トーアドメス567 エアボン」
(鹿児島空港レーダー管制へ。東亜国内航空567便は離陸完了しました)
 右旋回を完了して大井機長は機首を南に向けた。両手から伝わってくる力強い機体の感触、心地良いエンジンの響き。身体に馴染んだ計器類…。視界が少し開けて、黒い雨雲の切れ間から灰色に沈む鹿児島湾が見え隠れしてくる。
「クライム トウ 7000 リポート アット 7000」
(7000フィートまで上昇して到達次第に報告して下さい)
 管制官の指示に親指を立てて大井機長が了解した旨、副操縦士に伝え、小山副操縦士は管制官にその交信を復誦する。そしてふたりは上昇時の計器点検(クライムチェックリスト)を始めた。
「クライム チェツク プリーズ」と大井機長。
「はい。ギヤ・レバー&ライト」と小山副操縦士。
「アップ&アウト」
「フラップ」
「アップ&ニュートラル」
「クライム パワー」
「セット」
 …次々と15項目のチェックリストが読み上げられ、計器が確認されていく。
 二つ三つの低い雨雲の塊を抜けると、又少し視界が良くなって、前方に桜島の姿が霧に霞んで見えた。
 567便は鹿児島湾を左に見ながら鹿児島市上空から薩摩半島にそって南下するコースを取る。鹿児島から奄美大島までおよそ1時間17分の飛行である。
「クライム・チェツク コンプリート。着は14時15分です」
 計器点検を終えた小山副操縦士が、奄美大島空港への到着予定時刻を知らせた。
 午後2時15分着予定は、567便の定刻スケジュールから1時間15分遅れて奄美大島に着陸することになる。
 離陸の手順を終えて、クルーがほっと一息ついたそのとき、眼前に見える桜島が突然、噴火を始めた。

つづく

武田一男

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」/全9回
録音&解説:武田一男 ©Director’s House

【著作について】「台風飛行」の文章、または付録の音源に収録している音楽、音声の一切は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」第1回

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」

1981年10月1日大型台風22号発生

東亜国内航空鹿児島空港支店運航課

「今朝5時現在には、この台風22号は南大東島の北東、約230キロ、足摺岬のちょうど真南約600キロぐらいの海上にあり、一時間に30キロの速さで北北東に進んでいます。中心の気圧が935ミリバール、最大風速が45メートル、また25メートル以上の暴風半径は250キロとやや狭まって台風は衰えを見せ始めていますが、まだ大型で強い台風です。
 台風を取り巻く外側の雲が今朝からこの南岸地方にかかり始めてきましたが、本州の南の海上には前線が停滞していまして…」

 東亜国内航空、鹿児島空港支店の松田仁宏運航課長は、この二日間の彼のベッド替わりになっている運航課のソファーに胡坐をかいて座り込み、TVの台風情報に聞き入っていた。
 松田は支店の運航管理を統括しているベテランの運航管理者(ディスパッチャー)で、今年で44才。自衛隊の航空管制官から民間航空のディスパッチャーに転身したという異色のキャリアをもつ根っからの”飛行機屋”であった。
 彼はディスパッチャーという正確さと緻密さが求められる仕事のせいか、それとも、規律を重んじる航空自衛官の出身であるためか、日頃から身だしなみには気使っていた。
 といっても、特別おしゃれというわけではない。唯、Yシャツの少しのしわやネクタイの捻じれなどには、すぐ、気がつくので、妻に、少し神経質すぎますよ、と、ひやかし半分の愚痴を言れたりした。
 しかし、一昨日からその神経質は影をひそめ、徹夜で首のまわりが油汚れしているのも気にならない様子だった。
 それどころか、昨晩、妻が会社に届けてくれた新しいYシャツとネクタイ、グレーのウール地のベストもソファーの角に放り投げたままで枕替わりにしていた。
 松田はティッシュ・ペーパーでメガネの汚れをとると、再び、TV画面に見入った。
 今回の台風は俗にいう迷走台風で、沖縄までの洋上を数日かけてのろのろと北上し、今朝から、沖縄の東の洋上でほぼ停滞状態になっている。
 紀伊半島沖には低気圧前線があり、四国や中国地方には雨を降らせているものの、台風自体は雨量が少ない割には強い風が吹く、”風台風”というのも今回の特徴であった。
 昨夜の午後9時の時点では、中心気圧が935ミリバールもある大型台風だったが、ジグザグに迷走する内にややで勢力が衰えた。とはいうものの現在でも960ミリバール。今年最大の台風であることに変わりはなかった。
 予定では台風の中心は鹿児島の東約150キロの海上を通過するので直接、九州に上陸することはない。しかし、鹿児島でも風は次第に強くなって、瞬間風速で20メートル近い風が吹きつづけていた。
 松田はTVから目をあげて窓の外を眺めた。
 大きな銀杏の木が強い風を受けてやっと色付き初めた葉を無残にも散らせている。
 そのとき風の音に混じって聴きなれた爆音が聞こえた。
 爆音はヒーンというターボプロップ独特のエンジン音を響かせて、風に揺れるように波打っている。松田は素早く時計に目をやった。11時15分過ぎであった。
 この時間帯、耳に届いたレシプロエンジンの音は、今朝奄美大島に向かった東亜国内航空561便に違いなかった。

 561便は今朝、8時30分に天候調査を兼ねて奄美大島空港へ向かったが着陸出来ず、50分程前に奄美大島の上空から鹿児島空港に引き返す旨、奄美大島支店から連絡があったYS-11機である。
 本州へのジェット便はまだ辛うじて運航を続けているが、離島への便は一昨日の午後からすべて欠航していた。
 松田はソファーからゆっくりと腰をあげた。そして嵐の中を着陸出来ずに戻ってきたパイロット逹から、島と台風の様子を聞くために運航課のカウンターへ向かった。
 精悍な顔に疲れた表情が見える二人の若いパイロットが、空港の入り口から運航課に入ってくるなり、松田は待ち切れないように声をかけた。
「やはり無理だった?」
「ええ。エンルートは雲も少なくてさほど問題はなかったんですが、奄美大島の上空が悪かったですね」
 フライトバックから取り出した飛行プランとデーター類をカウンターのテーブルに置いて、YS-11の機長になりたての、まだ若い平田機長が答えた。
「強いの? 風は…」
「25、6ノットぐらいかな。でも、横に回ってきたので断念しました。与論島だったら降りていたんですがね」
「ああ。無理しない方がいいね。奄美は特殊な空港だからな」
「ええ」
 着陸条件が悪い空港は会社の運航規定において特殊空港に指定され、安全基準が他の空港より、厳しくなっている。
 例えば横風の着陸の場合、一般的には25ノットの風まで着陸可能という安全基準が、奄美大島空港の場合、16ノットまでと制限されている。それは空港の近くにある海抜180メートル弱の大刈山と淀山の存在が、西から吹く風のときに乱気流を作りやすいとされるからだった。(註、2001年には、長さ2000メートル幅45メートルの滑走路が、海側に新設されたので問題はなくなった)
「お客さんは?」
「少し気分が悪いひともいましたが大丈夫です。唯、欠航が続いているので早く奄美に戻りたいというお客さんが沢山いましたね」
「そうだよね。今日はなんとかしなければね」
 この数日、船便も欠航し、離島は孤立した状態になっている。
 ご苦労さんでした、とパイロットの労をねぎらって松田は所長と今後のフライトを相談するために所長室に向かった。

奄美大島から戻ったYSの平田機長インタビュー

― 今日は何便で(奄美大島へ)飛んだのですか?
「今日は561便(鹿児島ー奄美大島)、562便(奄美大島ー鹿児島)の一往復です」
― 何時の離陸だったのですか?
「出発が8時ちょうどの定刻だったのですが、7時の天候が(出発するには)いっぱいいっぱい(の状態)だったので、8時の天候を調査するということで出発を(8時)20分ぐらいにセットし直したんです。
 奄美大島の空港は特殊空港になっていますので、普通の空港より(着陸条件が)押さえられています。とくに山側から吹き下ろす風はかなり操縦性に問題があるものですから。
 それが(奄美大島空港の着陸条件が)、いっぱいいっぱいであるということと、台風の動きによってその風が、より悪い方向に動くであろうという判断のもとで、出来れば早く、良い状態のときに行きたい(奄美大島空港に着陸したい)という気持があったのですけどね。
 それでウエザー(気象情報)を取ってOKだという判断のもとで(鹿児島空港を離陸した)のですが。唯、お客さんに対してはリターン(奄美大島の天候次第では鹿児島に)する可能性があるということをアナウンスしてもらって。
 それで飛び上がって9時の天候を又、機上で貰ったんです。(それは)実際、我々が判断の基準にしている気象観測所が出すオフィシャル・ウエザーというものなんですが、9時のデータが(そのときの)最新のデータなんです。
 それと現地の(奄美大島の)空港の運航管理者(ディスパッチャー)にコンタクトして(空港の)現況を尋ねたのですが、あいかわらず(着陸には)いっぱいいっぱい(の状況)で、多少悪い方向に風向きが変わりつつあるということでした」
― それは8ノットから30ノットくらいの風の息があるからですか?
「はい。ステディといいますか、例えば同じ方位から(風が)10ノットから20ノット(一定に)吹いている分には、まあいいんですけどね。風の息があるというのがいちばん飛行の安全性に関係するんですよ」
― (その時は)ランウエイ(奄美大島空港の)から見ればどちら方向の風だったのですか?
「(ランウエイの)左前からですね。それが段々真横に変わってくるんです」
― すると、状態が悪くなってくるんですね。
「ええ。悪くなってくるんです。そのあと(奄美大島の)ディスパッチャーが向こうから(無線で)呼び掛けてきて、風が強くなったことと、より横風気味になった、というリポートがあったのです。(そのとき)こちらはまだ上空で、天候は良かったものですから比較的落ち着いた感じで進入を開始するときでした。
(しかし、一般的に言えば)水上(海面)の波頭の砕け散る方向で風向を知ることが出来ますから、そのとき機上から海を眺めると波頭によっては約30度くらいの開きが上空から確認できたのです」
― 視程は良かったのですか?
「そうです。視程は良かったし、雲の状態もほとんど薄い感じの雲だけだったのですが、(機上から見た)水上(海面)の波頭で(地上近くでは)かなり(強い)風がいろんな方向から域を持って吹いているのがわかったし、それと最終的にディスパッチャーから貰ったインフォメーションを加味して、おそらくこのままアプローチすれば凄いタービュランス(乱気流)があると判断したのです。低高度で着陸復行、すなはち着陸できずに上昇するのは、あそこ(奄美大島)の場合、危険なんです。それで早い時期に管制許可を貰って(進入を断念し)、そう(決断するまで)約1分か2分ぐらいだったかな。そのとき丁度奄美大島の上空にさしかかっていました。それからまっすぐ鹿児島に戻ってきたのです」

東亜国内航空鹿児島支店所長室

 松田課長は所長室へ向かう途中でロビーを覗いた。
 狭いロビーは、今561便で奄美大島から戻った客と、これから奄美大島や与論島に飛ぶ便を待っている客でごった返えしていた。
 長椅子に座りきれずに荷物と一緒に床の上に腰を下ろしている客もいる。大半の乗客は路線バスに乗るように飛行機を利用している離島の人たちである。
 中には松田の顔見知りの客も何人かいた。奄美大島で小さな病院を開業している医者。製粉業を営む中年の男性。離島を担当エリアに持つ証券マン。
 角のテーブルでは鹿児島に法事に来たという漁業長の娘が子供たちに弁当を食べさせていた。
 それを見ながら、松田も急に空腹を覚えた。考えてみればお昼近いのにまだ朝食もとっていない。所長も同じだろうと思って、ロビーの売店に立ち寄ってサウンドイッチの袋を二個買うと所長室に向かった。

 ドアを開けると、所長は新しいYシャツに着替えてネクタイを締め直しているところであった。
 眼鏡をかけた細身の鹿児島支店空港所長の早川貞雄は、どちらかと言えば、一見、役場の助役というタイプだが、実はニューヨーク航路の貨物船で通信士として働き、世界の海を股にかけたという経歴の持ち主で、地味な風貌に似合わずガッツある情熱家で知られていた。そして、鹿児島空港の所長になってからは、離島運航には並々ならぬ意欲を燃やしている。
「よう。俺も今、君に電話しようと思っていたところなんだ」
 少し乱れたうしろ髪を手櫛で直しながら所長は言った。
 昨夜は多分、所長も所長室で仮眠を取っただけなのだろと思いながら、松田はサンドイッチの袋を差しだして、食べますか? と尋ねた。
「ああ、もらうよ。コーヒーでも煎れるかな」
 部屋の角に置いているパーコレーターから、炒れたてコーヒーをカップに注ぎながら、所長は背中で尋ねた。
「561が戻って来たみたいだな」
「はい。今、平田機長から話を聞いて来たところなんですが」
 松田はかいつまんで561便の状況と奄美大島の天候について報告した。
「そうか…。今日は何とかせねばならんな」テーブルにコーヒーを運びながら所長が言った。
「奄美大島と与論島に運ばなければならない生鮮食料品も山積になっていますからね。それに頼まれている医療品もありますし…。何とかしたいですね」
「台風自体はどうなんだ?」
「さほど変化はありませんが、台風が少し東寄りになった分、今朝より幾分良い状態でしょう。問題は風の息ですね。奄美大島の上空で待機して風が弱まった瞬間を見計らって降りるかないでしょうね」
「お客さんは?」
「今朝の便で戻ってきたお客と次の便を待っているお客を合わせると、百名は越えるので最低二便は必要ですね」。
「よし、お客は振変えて567便と569便で何とかできるだろう。YS二機の出発準備を始めてくれ。ともかく準備して待とう。飛ぶ、飛ばないはパイロットの判断だからな」
「そうしましょうか」
「ところで、次の便の機長は誰だ?」
「大井機長です。すでに待機中です」

 鹿児島支店には離島を中心に飛ぶ、長年のキヤリアをもつYS-11のベテラン・パイロットと、ジェット旅客機に進む過程としてYS-11に乗務する若いパイロット逹がいた。
 大井機長は後者に属し、DCー9の副操縦士からYS-11の機長になって1年半目、今年で33才になる将来を嘱望されるパイロットであった。
「ああ、彼なら何とかしてくれるだろう。すぐにでもブリーフィング(打合せ)にかかってくれ」

早川所長インタビュー

「数年前にも沖永良部台風という強烈な台風がありました。このときも、当然、船は何日間も欠航したちまち、島の生鮮食料品とか必需品が不足しました。
 こういった場合、一刻も早い船とか飛行機の復興が望まれ、それは島の人たちにとっては切実な要望になります。
 台風の場合、台風で荒れた滑走路の上を低空飛行して滑走路を(着陸可能かどうかを)チェックしながら第一番目の救援物資を運んだというようなこともあります。
 パイロット逹は飛行機を操縦することをプロとしているわけです。だから、自分の飛行機に愛着を持つのは当然です。彼等は離島の足を支えているというプライド持ちながら、このYS-11に全力を傾注して安全運航をしようとしているのです」

 周知のごとく東亜国内航空は東亜航空と日本国内航空が1971年に合併した会社で(1988年に日本エアシステムとなった)ある。YS-11を使った歴史は古く、日本国内航空は1965年4月1日に日本最初のYS-11定期路線を羽田-徳島-高知の路線で開設しており、東亜航空も同年5月10日に大阪・伊丹から広島、同じく伊丹から米子にYS-11の定期運航を始めている。そしてこの両社が合併して東亜国内航空が発足すると海外に輸出されていたYS-11を買い集め、東亜国内航空は42機のYS-11を運航する世界最大のYSユーザーであった。
 そして早川所長は、プロ意識に徹していた故十島機長の想い出のフライトについて語った。

「宮内庁がチャーターしたYS-11に皇太子ご一家(現天皇陛下)がご搭乗されて、鹿児島から種子島まで飛行されたことがありました。そのときのキャプテンが、今は亡き十島機長で、彼は大戦時に戦闘機のパイロットであったベテラン機長でした。
 その日も今日みたいに嵐の日でした。台風ではないのですが、低気圧の前線が停滞して鹿児島地方は低い雨雲に閉ざされ、強風が吹く日でした。
 私は種子島で皇太子ご一家をお待ちしていたのですが、低くたれこめた雲の下、海面すれすれにYSが滑走路に向かってくるのです。 普通なら雲の上から一定の高度を保って降りて来るはずが、超低空で進入してくるのですから驚きましたね。そして滑走路の上を一度ローパス(低い高度で通過)して再び上昇して着陸しました。
 着陸は素晴らしいものでしたが、(超低空で進入した理由を)あとで十島機長に聞いたところによると、鹿児島から種子島まで出来るだけ揺れない高度で飛行した結果だということでした。
 それでも途中はかなり揺れたようで、皇太子はじめお子様たちはご気分が悪くなられたそうです。唯、美智子妃だけは毅然とされていたと伺いました。私にとっては十島機長の想い出とともに、皇太子ご一家に直接お目にかかれた忘れられないフライトになりました」

つづく

武田一男

【特別付録】このドキュメンタリーは航空サウンドでも楽しめます。
※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」/全9回
録音&解説:武田一男 ©Director’s House

【著作について】「台風飛行」の文章、または付録の音源に収録している音楽、音声の一切は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」はじめに

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はじめに

 日本の翼YS-11の航空ドキュメンタリーをお届けします。
 以前、僕は日本中を駆け回ってYS-11を取材し、その音によるドキュメンタリーを制作したことがあります。YS-11のエンジン音、離陸、着陸音はむろん、コックピットの録音、それからYS-11の運航に従事する航空マン達のインタビューなどなど…。それらの膨大な取材テープを構成し「日本の翼 YS-11」として5枚組のレコード、カセットによる記録作品をまとめました。
 その中に、東亜国内航空の鹿児島支店の人達がYS-11で薩南諸島の離島運航に携わるエピソードがあります。鹿児島を台風が襲うというきびしい状況の中でYS-11で離島運航を行う鹿児島支店の人達の姿は、実に生き生きとして、苦節を乗り越えて空を愛する心情にあふれていました。僕はこのエピソードに感銘を受け、その後、離島運航のエピソードを独立させ航空ドキュメンタリー作品として単行本「台風飛行」(朝日ソノラマ社刊/2001年)で出版しました。その作品「台風飛行」を今回、このブログで公開させて頂くことになりました。

 基本的には文字による航空ドキュメンタリーですが、文の末巻に音によるドキュメンタリーも入れました。これまでこのブログで「ヒマラヤ飛行」「機長席」など音と解説によるドキュメンタリーを公開させて頂きました。この二つの作品は、音が解説文に同調しており、音を聴きながら解説文を同時に読む、という方法で制作しました。が、今回は解説文と音はそれぞれ独立しており、まず、解説文をお楽しみ頂いたあと、解説文の最後につけた「音」を聞いて頂ければ、相乗効果でより具体的な情景が読者の皆様の脳裏に沸くであろうという発想で制作しております。もちろん、解説文だけでも、末巻の「音」のみでも航空ドキュメンタリーを楽しむことは可能です。

 どちらにしても、YS-11で離島運航に携わってきた東亜国内航空の鹿児島支店の空の男達の生き様を、そして彼らの努力が現在の航空業界の礎になっていることを知って頂ければ著者として本望であります。

武田一男

航空ドキュメンタリー YS-11「台風飛行」/全9回
録音&解説:武田一男 ©Director’s House

【著作について】「台風飛行」の文章、または付録の音源に収録している音楽、音声の一切は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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Good Speed Always 2【武田一男さんからの寄稿】

日本航空もく星号事故の明暗

「私はね、忘れもしない昭和27年の4月9日の朝、福岡へ帰ろうと思って羽田空港に行ったの、雨が降って寒い朝だったわ」当時母は福岡と東京にお店を持ち、月に2,3度飛行機で往復していました。母は日本航空の常連客でだったらしく、ほとんど航空券は予約せず搭乗する際に空港のカウンターで買っていたので、その朝もカウンターに直接行ったそうですが、何となく気がおもくなり、それに東京でやり残した用事を思い出したこともあり、そのまま、空港からタクシーで東京の家に帰ったそうです。その飛行機が朝7時34分発大阪経由福岡行きの日本航空「もく星号」でした。

「もく星号事故」の詳細は松本清張さんの「日本の黒い霧 上」にくわしく綴られているのでそれを引用します。「昭和二十七年四月九日午前七時三十四分、日航機定期旅客便福岡板付行「もく星号」は羽田飛行場を出発した。折柄、空には密雲垂れこめ、風雨があった。この機は離陸後館山上空を通過したのち、離陸後二十分後に消息を絶った。・・中略・・マーチン202型双発機、全員三十七名の他郵便物214キロ、燃料1000キロを積んでいた」
当時、羽田から大阪、福岡に向かう出発方式は羽田を離陸し館山上空で高度2000フィート、それから大島に向かい大島上空6000フィートをチェックして静岡に向かう、というものでした。ところが、もく星号は館山通過後、雲中飛行の末、大島の三原山に激突し乗員乗客37名が全員死亡。三原山の高度は2400 フィート。何故、機長が館山通過後に高度を上げなかったか、米軍管制の謎、乗客として乗っていた日本の財界人暗殺疑惑・・などなど、その墜落原因は今もって謎につつまれています。

この「もく星号」の話には後日談があって、二年前、孫のテニスの試合の応援に有明のテニスの森に行ったとき、彼のテニス友達のお母さんと話す機会がありました。何かの話題から「もく星号」の話になり、そのお母さんのお祖父様がその事故で亡くなられたことを知りました。亡くなられたお祖父様は当時、八幡製鉄の社長をされていたそうです。

そのとき想ったのは母のことでした。多分、57年前の肌寒い朝、羽田の日本航空ロビーで母はそのお祖父様と一緒の場所にいたのでしょう。そして母はタクシー乗り場へ。そのお祖父様は搭乗ゲートへ・・・。人間に「運」が存在することはわかっています。「運」は生まれたときに授かるものなのか、絶対的な第三者がその都度、その都度、ひとに「運」を授けるものなのか、そのどちらにしても言えることは、悲しいほど不平等に存在することです。
僕が航空界で尊敬するひとりに千葉明義さんというひとがいます。千葉さんと知り合ったのは東亜国内航空で彼が広報課長をしているときでした。A300の空輸でヨーロッパから羽田まで一緒に苦労した想い出があります。その後、彼は要職を重ね日本エアシステムの北海道空港支店長から新千歳空港の重役まで上り詰めました。とても心暖かいひとです。その千葉さんが日本エアシステムの晩年に行ったキャンペーンがあります。「Good Speed Always」というキャンペーンです。

彼は言いました。「マイレージとか、夏の沖縄集客とか、航空会社には必要なキャンペーンがあるけど、僕は航空会社が利用されるお客様ひとりひとりの”幸運”を願うキャンペーンもあって良いと思う」と。心優しい彼ならではの発想だと感動したのを覚えています。それ以来、僕には「Good Speed Always」 がとても大切な言葉になりました。

竜子さん、竜子さんのブログ、それにコメントを寄せる「まったり」さんや「Airman」さんはじめいろいろな人達が「強い運」に恵まれますように。
「 Good Speed Always」

武田一男

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Good Speed Always 1【武田一男さんからの寄稿】

「ラマダン・フライト」

エールフランスのエアバスがスペイン上空からジブラルタル海峡を越えると風景が一変しました。眼下はそれまで続いていたイベリア半島の田園地帯が突如として荒涼とした肌色の砂漠の山野に変わり、それは右手に広がる濃紺の南太平洋まで延々と続いています。空と海と褐色の大地が織りなす壮大な北アフリカの風景、がそこにありました。

こんなパノラマを享受できるのは、パリ・オルリー空港を離陸し、アフリカ、モロッコのカサブランカ空港まで飛ぶこのエアバスのコックピットを録音するために操縦室に乗せてもらった役得だと思いました。

エアバスは北アフリカに入ると、海と砂、紺色と褐色を二分するモロッコの海岸線にそってケニトラ、ラバトの街を飛び越えカサブランカに近づくにつれて次第に高度を下げてゆきます。5000フィートぐらいから白いもやが出始めました。太平洋から吹く海風が砂漠の熱気に暖められ水蒸気となってもやが発生するのです。3000フィートを過ぎると完全に視界が閉ざされて、まるで雲中飛行をしている有様でした。飛行高度や方位は目の前にある計器を見れば分かりましたが、イベリア半島最南端のマラガまで英語で交信していたコックピットクルーも元フランス領のモロッコに引き継がれると管制交信をフランス語に変えたので、このとき僕は着陸方法やランウエイの状況などの情報がまったく理解できずにいました。ただわずか分かるのは、エールフランス機の前を飛んでカサブランカに着陸しようとしているサウジアラビア機318便が管制と交わすアラビアなまりの英語交信を傍受して、このエアバスもサウジアラビア機同様に滑走路17レフトにビジュアルアプローチをするのだろうということぐらいでした。もやの中からルフトハンザ381便に滑走路35ライトへ向かえという管制の英語の指示が聞こえました。

九月の強い日差しが容赦なく降り注ぎ、白いもやのあちこちで水滴が光り、まるで空中にダイヤモンドの粒を蒔いたようにキラキラ輝いています。2000フィートを過ぎるとギヤダウン、1500フィートで機長は自動操縦を手動に変えました。そのとき、フランス語でクリア ツウ ランドと思える管制指示とサウジアラビア318便が着陸してスポットへ向かう英語の交信が聞こえました。だが、その交信は途中からアラビア語にかわり怒鳴り合うように喋っています。一瞬、アラビア語の中に英語がまじり、すぐアラビア語に戻って交信が続きました。高度が600フィートを過ぎると突然、白いもやが消えて砂漠の太陽にぎらぎら照らされたランウエイが二本見えました。左のランウエイの末端に飛行機が斜めになって停まり、右のランウエイからは着陸体制に入ったエールフランス機に向かってまっすぐに一機のシェット旅客機が離陸するのが目に入りました。

そのときの機長の動作は素早かった。僕が呆然としている間にフルパワーに上げた出力で45度に迫る角度の右急旋回をすでに始めていました。その傾きで僕の左側を飛び抜けたであろう旅客機(ルフトハンザ 381便)の姿は見ることができなかったのですが、僕の右側、副操縦士の横の窓を見て僕の全身が凍り付いたのです。

窓いっぱいに見えたのは羊の群れでした。その群れが窓の中で左右に分かれて走り出したのです。このときの高度はわずか150メートル。僕は右側の主翼が羊がわかれたその真ん中の地面を切り裂くのだろう、と瞬間、観念しました。脚を出したまま高度150メートル上空で急旋回する大型旅客機の姿。下から見ていた羊飼いたちもきっと度肝をぬかれたでしょうね。だが、僕の予測とは違ってエアバスは徐々に高度を上げ始めました。そのとき耳をろうするエンジンの音の中にトランペットの美しい音色が聞こえたのです。僕の耳は無意識のうちに騒音を選り分けて必死に音楽を探していました。そして次第に硬直していた背中の筋肉がゆるむのがわかりました。あとで聴いた話ですが、このときフライトエンジニアが客室で流れている音楽を操縦室に流したのだそうです。「あのとき、俺たちに必要だったのはリラックスして自分を取り戻すことだった」。後にその音楽が「マホガニーのテーマ」という曲だったことが分かったのですがこの曲はその後ネスカフェのCMで使われて有名になり、僕はそのCMを見るたびに「左右に分かれて走る羊の姿」を思い起こしてぞっとしたものです。

エアバスはそのあと2000フィートまで上昇し右旋回しランウエイ17ライトに無事着陸しましたが、地上走行中に今度はモロッコ軍のハーキュリーズと誘導路で正面衝突しそうになり、ハーキュリーズが待避路に入って事なく終わるというシーンもありました。

カサブランカ空港のレストランで機長が話してくれたところによると、「ランウエイ17レフトに着陸したサウジアラビア318便が何故か誘導路の入り口で止まってしまったので管制官がエールフランス機に17ライトへの着陸を変更するように指示してきた。そして滑走路の反対側35ライトに誘導していたルフトハンザ381便に離陸許可を与えたのだ。多分そのとき我々の着陸を17ライトに変更したことを管制官は一瞬忘れたのだろう、そして318便と381便という便名も紛らわしかったであろうし、ランウエイが微風だったこともあり、本来なら17ライトで離陸させるルフトハンザ機を北向きに離陸させサービスをしたつもりだったのだろう」と。「しかし本当の原因は今日がラマダンの月だったからだ」と言い切りました。「ラマダンの月」。聡明な竜子さんはご存じとおもいますが、蛇足ながら説明しますと、ラマダンの月はイスラム教ビジュラ暦の第九の月でイスラム教徒はその一ヶ月間、毎日、日の出から日没まで飲食を断つのです。「カサブランカ空港の管制官もサウジアラビア機のクルーもハーキュリーズに乗っていたモロッコ兵もすべて断食をして眠かったのだろう}と機長は言ってこう付け加えました。「ラマダンの月は彼らは夜遅くまで昼間とれなかった飲食をして過ごす。だから、我々、ヨーロッパのクルーはこの時期にアラブ圏に飛ぶフライトを”ラマダン・フライト”と呼び、決して油断しない。管制官の指示さえ頭ごなしには信用しないように心がけている」

僕は東京に戻ってこの話をまだ当時健在だった母にしました。「あなたは私に似て運が強いのですね」とほっとしたように笑い「私も飛行機で九死に一生を得たことがありますよ」と母は自分の体験を語り始めました。

つづく

武田一男

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「ヨーロッパ-東京16,000キロエアバスA300大空輸作戦」

『8481がどうやってフェリーされてきたのか気になります!!』
とのまったりさんのコメントに対してのレスポンスです。

ANAフェリーのコックピットは、今のANAではとても考えられない別世界でした。歴史ですね。
東亜国内航空のA300はご指摘通り短距離機のB2です。だから大変でした。
フランスを出て二日目の寄港地アブダビまで飛ばねばならない、しかし航行距離が短いのでアラビア半島が越えられないのです。だからどこかで給油が必要。アテネで給油してレバノン、イラクを通るR-19ルートを使えばアブダビまで最短ルートですが、一週間まえから始まったイランとイラクの戦争のため飛行できない。エルサレムで給油すると以後のアラブの飛行許可が下りないのでこれは論外。となれば、カイロまで飛んで給油しそのままエジプトをナイル川にそって南下、ルクソールで左折しルートA-1に入りサウジアラビアとイラクの国境にそってアラビア半島を横断、バーレンからアラブ首長国に入る方法しかないのです。

唯、この場合距離がめっぽう長くなるので、高度33000フィート以上で飛べて強い向かえ風がなければという好条件で何とかアブダビまでとどくのです。が、途中、戦争による飛行制限がなどあって、高度をそれ以下に落として飛ぶように管制の指示が来ればカイロに戻るかサハラ砂漠に不時着してフェリーは終わり、というシビアーな状態でした。結局、何とかアブダビにはとどいたのですが、それはそれで途中、いろいろありました。

まず、カイロではエアバス発行給油カードが使えす(当時のエアバス社はまだ信用がなかったのでしょう。とくにアラブ世界では)約200万円の現金が必要になりその調達が大変でした。ともかく拝み倒して給油してもらいアラビア半島に入ると今度は通信不能…。戦争下のイラク国境上空ですから、国籍不明機に戦闘機が迎撃するかもしれないと、もうコックピットは大緊張状態。このとき前を飛行しているサウジアラビア機に VHFで通信代行をしてもらって国籍不明機ではなくなり、バーレン近くで通信も可能になってアブダビに無事着陸。

でも、東亜国内航空のパイロットの腕は見事でしたね。トレーニングフライトでエアバス社の教官が絶賛していました。その頃の香港はまだカイタック空港でした。ご承知のように着陸が難しい空港。ビルの間をぬいながら下降し最後は九龍の山の絶壁ぶつかる寸前、絶壁に書かれた白と黒のフラッグを確認するやすぐ右旋回で着陸する難所も、初見、鼻歌で見事なランディング。そして彼らが最も感激したのは、台北の管制エリアが終わり、沖縄の那覇コントロールに移管されたときでしたね。やっと日本の空に帰ってきたとお互いに握手握手…。

ともかく手に汗握る3日間でした。

武田一男

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「ボーイング767コックピット ANAフェリーフライト」

今日は仕事のことを書きます。

ネット配信用航空サウンドの9月配信分を編集していますが、その中の一作品「ボーイング767コックピット ANAフェリーフライト」を今終えたところです。

これは全日空が購入した最初の767二機をシアトルからアンカレッジ経由で羽田まで空輸するドキュメンタリーですが、その途中、いろんなことがありました。カナダ上空でオートパイロットが故障したり、交信で「オールニッポン8481」とカナダやアメリカの管制に機番のコールをすると、「ジャパンエアー 8481」と返されてその都度、怒ったりがっかりしたり・・、慣れない通過ポイントの位置報告ができなかったり、これも慣れないHF交信が聞き取れずに、後から飛んでくる日本航空便に無線で通訳してもらったり・・今の全日空ではとても考えられない海外フライト「創世記」の姿が取材テープには残っているのです。当初、CDで発売したときは、それらをすべてカットしてノーマルな飛行をした767のイメージで編集していたのですが、今回は年月も経ったし全日空の、そして日本の航空歴史の一端として残すためにも、カットした部分も入れて再編集したのですが、聴き終えて前回よりとても人間的な暖かみが加わり微笑ましく納得出来る作品になりました。

コックピット録音中には実はいろいろなことがあって、たとえば「機長席」の取材のとき777が木更津の手前でジャンボ機の後流につっこみ、震度6強の直下型地震に遭遇したように上下に揺れパイロットも思わず声を出すシーンがありましたが、発売に際してはすべてカットしました。エールフランスのコックピット取材では、モロッコに着陸する寸前、離陸してきたルフトハンザ機と正面衝突しそうになったこともCDではカット。
でも、この767や「Man Without Woman」などは「直角な性格」で空に挑むパイロットの姿をそのまま描くのがむしろ良いのかもしれませんね。竜子さんが「台風飛行」のことをジャーナリズムの香りがすると過大に褒めてくれましたが、ジャーナリズムまではほど遠いにしても、聴く人の心に少しは触れることが出来るのかも、と感じています。
では、また。

武田一男

【竜子から】
武田さんの「機長席」(朝日ソノラマ)、これはずいぶん売れたようです。
ということは、この本を購入されたのは、飛行機ファンだけではないのでしょうか? そんな「機長席」をお持ちの方は必見の裏話ですね!

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武田 一男(朝日ソノラマ)
機長席(朝日ソノラマ)武田一男

台風飛行(←Amazonの紹介ページへ)
武田 一男(朝日ソノラマ)
台風飛行(朝日ソノラマ)武田一男

「Man Without Woman」、こちらはレコードです。
「Man Without Woman ヨーロッパ-東京16,000キロエアバスA300大空輸作戦」上巻/下巻(いずれも2枚組)
がタイトルです。竜子は下巻のみで、上巻は持っていません。
これは…なかなか手に入らないと思うので、今はオススメはしかねるのですが、おおざっぱにいってしまうと、「台風飛行」同様に「熱い」オトコのヒューマンドラマ。

東亜国内航空のA300第1号機の3日にわたるフェリーを追っています。全行程16,000キロで16カ国を通過・寄港しているのですが、当時の世界情勢ゆえの緊迫したドラマがあったり、いまではそんなにたいそうなことではないかもしれないけど、当時、日本人によって大型機を運ぶことがどれだけスケールの大きなオペレーションだったのかを思うだけでも胸が熱くなるのです。
そのうち配信があることを期待しましょう(笑)

私からの補足(蛇足)が長くなってしまいました。

【武田一男さんプロフィール】映像ディレクター・音楽ディレクター・航空サウンドディレクター。
「機長席」(朝日ソノラマ)、「台風飛行」(朝日ソノラマ)、「ラストフライト」(愛育社)などの航空ドキュメンタリーの著作をはじめ、雲の写真集「成層圏飛行」など数多くの執筆、著作がある。

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飛行機の音を収録する際のノウハウ

 今日は飛行機の音を録音するひとも多いと思いますので、長年の経験から収録ノウハウなどを書いてみます。

 僕は航空機の動画撮影もやりますが、飛行機の場合、撮影より録音の方が苦労が多いのです。撮影は望遠レンズが使えますが録音にはそれがありません。たしかに遠い音を拾う集音マイクはありますがノイズが多いのでレコーディングには普通使えません。ですから録音の場合、録音物にかぎりなく近づくことが最も必要なことになります。飛行機の側まで行ってそれからどのくらい離れるかを収録メーターを見ながら決めるのです。たとえば離陸の音を録音する場合の最高の場所はランウエイのすぐ側です。しかし、なかなかその場所へ入る空港の許諾は降りません。ですからランウエイに最も近い駐機場から録音するのですが、やはり距離があるので「音の芯」がぼやけてきます。その点、ビデオ撮影は楽ですね。駐機場からも望遠レンズで充分な寄りの絵がとれますから。

 以前、マニラで怖い思いをしたことがあります。マニラ空港の広報担当者にランウエイの側まで行きたいと申し出るとひとつ返事で「いいよ、飛行機にぶつからなければどこえでも行って良いよ」と言います。僕はチップという鼻薬が効いたと思い喜び勇んでランウエイの側の草むらに腰を下ろし3時間、いろんな飛行機の離発着音を収録しました。ふと気がつくと空港のスタッフ達は草むらの彼方、タクシーウエイの端に車を止めて待っているのです。録音が終わって草むらを超えタクシーウエイを渡って彼らの所へ戻るとみんなで「何もなかったか?」と心配そうに聞きます。録音がうまくいったお礼を言うと彼らが言います「実はランウエイサイドの草むらには毒蛇がたくさんいるので誰も近づかないんだよ。おまえはラッキーだった」。オランダのスキポール空港ではランウエイサイドの草むらにもぐらと野ウサギがいて彼らと長い時間草むらに座って音をとったこともあります。

 要は離陸着陸音の録音は便数が少ない地方の空港の方がよいのです。僕ら専門家がいい音、わるい音の基準にしているのは、離陸してその残音が長く尾を引くように消えていく録音が出来たかどうかです。めったに録音できませんね、こんな音は。なぜならせっかく離陸まではいい音がとれたのに後のタクシーウエイで別の飛行機の走行音が聞こえ、離陸した飛行機の残音が消される場合が多いので。それからランウエイは風がありますから、僕は風防をつけたコンデンサーマイクを使っています。エンジンスタートの録音は飛行機の側ですから、風防なしでダイナミックマイクが良いと思います。

結構、難しいのは空港アナウンスの録音です。出発ロビーの天井が高いと周辺のがやがやした雑音もいっしょに拾いますので、なかなかクリアーにアナウンスが録音できません。そういう場合は最高の場所は空港のトイレの中です。天井が低く狭いのでアナウンスはクリアーに拾えます。パリ・シャルルドゴール空港などは僕はほとんどトイレで録音します。

 ロビーで録音する場合は手荷物用の手押し車にテープレコーダーとマイクを入れて、その上をシャツで覆い、比較的天井の低い場所に手押し車ごと放っておく、そして僕は少し離れた場所でいつも本を読んでいます。周囲のひとに気づかれずに楽に音が拾えますよ。
トイレの中といえば、客室でスッチーのアナウンスを録音するときもトイレがいちばん。トイレにテープレコーダーとマイクを入れて便器に座って本を読むといいですよ。

 ながくなりました。次回はコックピットの中の録音方法について書きましょう。
では又。

武田一男

【武田一男さんプロフィール】映像ディレクター・音楽ディレクター・航空サウンドディレクター。
著作には「機長席」(朝日ソノラマ)、「台風飛行」(朝日ソノラマ)、「ラストフライト」(愛育社)などの航空ドキュメンタリーの著作をはじめ、雲の写真集「成層圏飛行」などがある。

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