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映画で巡る空の旅・キネマ航空フライト601便「パリ空港の人々」

「パリ空港の人々」 OMBES DU CIEL (1993/フランス)

【スタッフ】
監督 フィリップ・リオレ
製作 ジル・ルグラン/フレドリック・ブリリョン
脚本 フィリップ・リオレ
撮影 ティエリー・アルボガスト
音楽 ジェフ・コーエン

【キャスト】
ジャン・ロシュフォール/マリサ・パレデス/ティッキー・オルガド/ラウラ・デル・ソル/ソティギ・クヤテ/イスマイラ・メイテ

無効旅券を持っていたためシャルル・ドゴール(パリ)空港のトランジット・ゾーンに暮らすことになったイラン人の実話をもとに作られている。トランジット・ゾーンは治外法権とまではいかないまでも国家が直接に権力を行使したくない外国人居留区画といったほうが良いようだ。したがい管理責任は空港長にあり、かれもまた空港内の規則を優先して事務的に処理をすることになる。

日本国の発行する旅券に守られた日本人が経験することはまずない世界を主人公に置き換えて経験できるのも映画です。

物語は深夜に到着するボーイング747のクローズアップではじまる。主人公はフランスとカナダの二重国籍で、居住地はイタリア、妻はスペイン人という複雑な身のうえの図像学者のアルチュロ。モントリオール空港でパスポートや財布の入った鞄と靴を盗まれたのだがとりあえず残された搭乗券で飛行機に乗った。どうもシャルル・ド・ゴール空港で待つ約束の妻に頭が上がらぬらしい。

運がわるいことに日曜日で12月30日の深夜ということで本人を証明する写真が入手できずパリの入国管理局で足止めを食らい靴下のままの情けない姿でトランジット・ゾーンに戻される。

そこには1週間以上も入国が認められず、父親が迎えに来るのを待っている黒人少年ゾラ。国外追放となり国籍を剥奪されたラテン・アメリカ系の女性アンジェラ。何処へ行っても滞在を拒否される虚言癖の自称元軍人のセルジュ。そしてどこの国の言語か分からない言葉を話す黒人の通称ナック。彼らはもう何ヵ月もここで放置されたまま各々の居場所をつくり擬似家族のような生活をしていた。

ゾラに連れられトランジット・ゾーンをさまようアルチュロは人気のなくなった空港内を右往左往する細君と締め切られたガラス越しに遭遇するが会話がかみ合わず細君はヒステリーをおこしてしまいファースト・クラスという無人のカプセルホテルに泊り設備に八つ当たりをはじめる。

翌31日になってもアルチュロの国籍証明は得られずさらにもう一日と引き伸ばされる。そうして彼らが空港内でどうやって生活するのかを学んでいく。

大晦日のどさくさにまぎれてゾラが故郷で夢見ていたセーヌ川の船を見るつかの間のパリ見物のシーンがやるせない。そしてアルチュロは元旦にカナダ大使館から写真が届いて入国できることになるが…。

登場するのはマグダネル・ダグラスDC-10、ロッキードL-1011 トライスター、ボーイング747で初代ジャンボ機の揃い踏みが見られます。ちなみに“ジャンボ”は客室通路が2本以上ある広胴機を指しており747の代名詞ではありません。したがいエアバスA380はスーパージャンボと呼ばれます。

パリ空港の人々

その他、鶴丸印の-400や737が遠景に出てきます。いずれもロケによる実写です。

この話のモデルとなった、サー・アルフレッド・メヘランは「ターミナルマン」(バジリコ)という著書を出している。また、おなじ実話からスティーヴン・スピルバーグが監督してトム・ハンクスが主演した「ターミナル“TERMINAL”(2004)」がある。こちらの空港シーンは全部セットで撮影されたそうだ。それもあってかよくもわるくもアメリカ映画で主人公とストーリィの展開は軽い。とはいえ主人公にかかわる空港で働くアメリカ移民にのしかかる世知辛さはでている。飛行機は747のノーズがでてくる。とするとこの飛行機も大道具かCGか?

キネマ航空CEO

ターミナルマン

▼ターミナル(スピルバーグ監督/トムハンクス主演)

キネマ航空CEO

「映画で巡る空の旅・キネマ航空フライト」
©キネマ航空CEO

【著作について】「映画で巡る空の旅・キネマ航空フライト」 はキネマ航空CEOの執筆によるものです。一般的な「引用」の範囲を超える紹介など詳細については当ブログ info@airjapon.com(管理人:竜子)、またはキネマ航空CEOまでお問い合わせください。

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映画で巡る空の旅・キネマ航空フライト703便「747 エア・ターゲット」

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「747 エア・ターゲット」 RAPID EXCHANGE (2003/アメリカ)

【スタッフ】
監督 ジョン・ウィンストン
製作 ジェフ・ビーチ/フィリップ・ロス
製作総指揮 ジェームス・ホレンスタイナー/ーマス・J・ニーダーマイヤー・Jr
原作 ジョシュア・ルービン
脚本 トリップ・リード/サム・ウェルズ
撮影 ハワード・ワード
音楽 アーネスト・タイラー

【キャスト】
ランス・ヘンリクセン/ロレンツォ・ラマス/マット・オトゥール/アビバ・ゲール/ブッチ・ハメット/ウェイン・ペレ

アクション映画に理屈を求めていては楽しめないことは事実です。その上でこの作品は理屈の通った映画とはいえないが理屈の部分は小説なら十分書き込めそうに思え、全体の印象は編集か脚色の手抜きのように見えます。残念ながら比較しようにも翻訳はないようです。そんな作品をここで上映する理由はまずほとんどの撮影はヨーロッパで行なわれているようで空気が澄んでいる画面がよいこと。自分がプロデューサーならこう直させるという余地があるのがよい。

ストーリーはレバノンにあるベッカー渓谷に1988年にレバノン政府が設置した紙幣印刷機を使い印刷された精巧なドル紙幣をシリアもかんで大量に流通させた。この対策としてアメリカ政府は、月一回数億ドルの真券紙幣をジュネーブに送り、交換していた。この輸送には墜落の衝撃にも耐えられる金庫を搭載したボーイング 747 – 400 の改造機が作られていて、海兵隊の警護のもとに行なわれていた。悪党どもが吸血コウモリのように相手に気づかれずこの金庫の中身を空中で奪取しようというお話です。なお表カバーのようなシーンは出てきません。やり方は(DVDパッケージの裏のほうにあるように)空中で乗り移る方法を含めて、そうは上手くはいかないだろうと思わせながらも軽快に進みます。結末を一寸だけあかすとアラン・ドロンとジャン・ギャバンが組んだ「地下室のメロディー “M?lodie en sous-sol” 1963 」の結末をさらに派手にした画が見られます。さらにひねりがあるのですがもう一工夫あればさらによかった。

こちらにはスターはいませんが一癖ある俳優がそろっています。主役は冷静沈着な兄ブルークスと陽気で活動的な弟ケッチャムの兄弟。これにスポンサー(元締め)のニューキャッスル(ランス・ヘンリクセン)。ブルークスとは肌の合わないダルトリー、その妹のソフィー。加えてダルトリーの息のかかったビリー、ウィンクラー、パイロットのハビエルのグループ。それぞれが腹に一物をもって「お勤め」に取り掛かる。

ところで 747 専用機の巡航高度から人間が与圧無しで活動できる高度 3000mにまで降下させるためにトロイの木馬として改造されたケータリング・カートの中にはいるソフィが「P- したい」というのにビリーが「時間がない」とすげなく押し込めます。この手の映画ではストーリイの破綻よりもこちらの方が気になります。
ソフィはカートから抜け出たあと「寒い」と震えていました。機内トイレは使えないだろうしなー。長時間緊張の続く犯罪映画でも生理現象の処理はあんまり出てきませんね。アクション映画の細部のリアリティに厳しい人もこのあたりはテキトーに納得しているようです(でも観客の礼儀としてくれぐれも上映中はトイレにお立ちにならないように)。

さて彼らが使うのは大西洋を横断できる高速の小型機ということで後部3発エンジンのビジネス・ジェット ダッソー ファルコン 50 ですが映画の中ではちょっとややこしい。

まずは顔見せ。

「おー、ファルコンだ!」
「747 エア・ターゲット」キャプチャ

「えっ? これかい?!」

「747 エア・ターゲット」キャプチャ

「いーから、出発だ!」

「747 エア・ターゲット」キャプチャ

…ちょっとショボイが…滑走路進入前に大変身ーン!!

「747 エア・ターゲット」キャプチャ

どうやら実物のファルコンは見るだけで借用ができず、同じ後部3発エンジンのヤコフレフ Yak-40 で代用。あとはCGファルコンで何とかなるさという割切りかたもいいではありませんか。

スタンド・インをつとめる Yak-40 は、大きさに関していえば自重と全高を除いて若干大きいようです。また航続距離では 1800km でファルコン 50 の 6400㎞ の足元にも及びません。Yak-40 の主翼は写真では判別できませんが後退翼ではありません。直線翼、ボトムリンクサスペンションの単輪タイヤ、T尾翼の手堅い設計で使い勝手はよかったようす。短距離旅客機として800機ほど生産されています。

ファルコン 50 のベースとなった双発の機体はファルコン 20 と名付けられていたため、アメリカ空軍は F-15 の「イーグル (ワシ) 」に続いて F-16 は「ファルコン (ハヤブサ) 」としてハイロー・ミックスの調達を図りたかったのですが、断念して「ファイティング・ファルコン」にしたそうです。二音節ではしまりがありません。そこで「バイパー (クサリヘビ) 」なども使われているようです。こうした名前は結構大切で F-22 ではファルコンも含まれる「ラプター (猛禽類) 」にしました。

お騒がせの元のファルコン 20 は、パン・アメリカン航空が大量に発注するなどのアメリカでの成功を梃子に世界でも「ダッソー・ファルコン」の知名度を上げます。確かに同年代の小型ビジネス・ジェットに比べると格段に垢抜けている外観です。名前についてはアメリカが嫌がったのかフランスが邪魔をしたのか定かではありませんが米仏間にはいろいろありますね。

このほかに登場する機体はニューカッスルの格納庫にアントノフ An-2 、ヤク Yak-18T など。ほかにはドイツあたりの空港の実写らしくセスナ サイテーションや路線就航機がいろいろ出てきます。

娯楽映画にも背景があります。国家レベルの紙幣偽造による経済かく乱は、ナチスのポンドや日本の中華民国紙幣の工作が知られているが、この映画の背景は1990年代にあった北朝鮮の関与と目されるスーパーKやスーパーXがモデルです。ちなみに印刷所があるとされたベッカー渓谷はイスラエルの北の国、レバノンにある肥沃な土地ですがレバノン内戦(1976-2005)のあいだには北のシリアが進駐しその情報機関の拠点があり、反イスラエルの軍事組織のキャンプがあった。日本赤軍の残党が逃げ込んだのも近くのベッカー高原でした。

「747 エア・ターゲット」キャプチャ

お宝を積んだ 747 の離陸直後のタイミングでファルコンを離陸させるべく空港職員(左)と交渉中のブルークス(右)とダルトリー(中央)。彼らの後ろに主脚の間隔(トレッド)が開いた低翼で上反角のない機体が見えます。

ツポレフ Tu-134 後部双発エンジンで低翼の小型ジェット・ライナーです。ツポレフは戦闘機から爆撃機、旅客機、超音速旅客機まで多彩な設計を手がけていました。Tu-134 の主脚の格納方法は長い脚の支柱を後方にたたみ、主翼の後縁からはみ出す部分をポッドで覆うという手法です。現在でも世界最速のプロペラ(二重反転式のターボ・プロップ)機であるツポレフ Tu-95 を含め Tu-16 、Tu-22 などのジェット爆撃機で経験した主脚の設計を引き継いでいます。Tu-134 を一回り大きくした後部3発のジェット・ライナー Tu-154 (1968) も同じ構造です。 Tu-204 (1989) でようやく抱え込むように動く方式になりました。地味なメカニズムの概念設計はなかなか変えられないようですね。さすがにこの機体のような主脚の格納を行なう西側のジェット・ライナーはないようです。ただ、主脚を収容するわけではありませんが、ジェット・ライナーの創成期 707 や DC-8 の時代に遅れて参入を計った コンベア CV-990 は、エリア・ルールによる空力改善で、巡航速度で優越させようと似たような4本のポッド(スピード・カプセル)を主翼につけた例があります。残念ながら計画した速度は出せませんでしたし、わずか39機の販売でコンベア社の幕引役となりました。
とはいえ、 CV-990 は頑丈で信頼性もあり航空会社でもそれなりに使われたようです。乗客を乗せなければ最速のジェット・ライナーだったようで緩降下すれば、音速を超えることのできる大型チェイサーとして NASA では ツポレフ Tu-144(コンコルドスキー)に交替するまで重宝されていました(やっとツポレフに話がつながったところで閑話休題)。

さて、ソビエト時代にはこの Tu-134 に見られる低翼でありながら主翼に上反角の無いむしろ下反角に見える機体がいくつかあります。上反角はロール方向の静安定に効果があるとされますが、安定を損ねる方向の設計意図はなぜでしょう。
以下は推定ですが、ロシアの設計法は低速時のヨー方向の安定のために垂直尾翼大きくする傾向があったようです。エルロンを使ったロール時に垂直尾翼が回転することで、合成されて斜めに流れる気流のために垂直尾翼に迎え角が生じて、面積に比例した揚力による大きな復元モーメントになってロール方向の操縦性を損ねる傾向が出ます。加えて、後退角には速度の二乗に比例してロールの復元性を向上させる効果があることなどから、高速で過大になるロール安定性を減らし操縦性を向上させる目的と思われます。西側ではこうしたロール安定性を減らし操縦性を向上させる下反角は(戦闘機を除き)低翼機では見かけません。しかしロール安定の強い大型の高翼機では下反角が定石になっています。ロシアも現在ではこの方向に収斂しています。

キネマ航空CEO

「映画で巡る空の旅・キネマ航空フライト」
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映画で巡る空の旅・キネマ航空フライト702便「紅の翼」

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「紅の翼」 CRIMSON WINGS (1958/日活)

【スタッフ】
企画 水の江滝子
原作 菊村到
脚本 中平康/松尾昭典
監督 中平康
撮影 山崎善弘
美術 松山崇
音楽 佐藤勝
編集 辻井正則

【キャスト】
石原裕次郎/芦川いづみ/中原早苗/滝沢修/二谷英明/峯品子/西村晃/安部徹/芦田伸介/深江章喜/近藤宏/小沢昭一/下条正巳/葵真木子/山岡久乃/清水まゆみ/大阪志郎/岡田真澄/東恵美子/相馬幸子/菊村到

公開は1958年となっているが、暮れも押しつまった12月28日なので1959年の正月映画です。設定も58年12月24日から25日にかけてです。敗戦から13年半となりましたが中原早苗から「汚れているわね」といわれる裕次郎が首に巻く白い絹のマフラーは戦死した兄貴の形見だと答えています。

戦後の民間航空の幕開けは1951年8月、航空大学校の設置は1954年でした。若手の先輩も居るようなので裕次郎は第ニ期生だったのかな? ということで機長の芦田伸介や年配のパイロットたちは皆、軍隊帰りとなります。ちなみに裕次郎の実年齢は24歳だった。

航空会社は日本遊覧航空がタイアップしています。会社としては1952年青木航空として設立-1956年日本遊覧航空-1961年藤田航空と変遷し、1963年に全日本空輸に吸収されています。主な路線は遊覧飛行のほかに映画のような伊豆諸島への定期便やチャーター便を運行していました。

一番評価できるのは廃棄するとはいえ尾輪式のセスナ170を実際に壊して撮影しているところでしょう。170型シリーズの生産は1948-1956年の8年間に5000機以上生産されました。日本では小型機はみなセスナとなった因縁のある機種です。原型は翼を支える支柱がV字型で翼も金属の骨組みに布張りだった170型(1948)から始まり、エンジンを強化して支柱が一本の全金属製になった170A型(1949)、170B型(1952)と発展しました。170B型への変更箇所は翼型やフラップの形式など多岐に亘るようですが外観上は翼に上反角があるかどうかで判断できます。ちなみに映画の機体は170A型のようですがカウリングの下回りのフレアは170型に見えます。米国の工業製品らしくシリーズ内の互換性を保っていました。いろんな組み合わせの改造が行なわれています。また他のシリーズから拝借して首輪式に改造することもできたようです。

映画は170Aの飛行シーンを使ったタイトルロールのあと、エレベーターから降りる一人称カメラで始まり、船会社の社長・安部徹を射殺して螺旋階段を使い (ここから引きの三人称カメラに変わって) 逃走します。ハードボイルド小説では普通ですが、一人称カメラで通した映画ができるのかというとアメリカであったようです。主人公が姿を見せるのは鏡を見るときだけですから、顔がウリのスターなら出たがる人がいないのも当然です、この技法はすたれてしまいましたが、今でもサスペンスやホラー映画では部分的に使われています。

この映画でも犯人が鏡でチラッと顔を見て、いつばれるかのサスペンスにつなげるくらいの遊びがあってもよかったように感じます。どうせ隠しても観客は分かっているのですからね。

この犯人が逃亡するときに乗った車が女の子を撥ねますが、その少女の手からはなれた黄色い風船が空に昇るシークエンスから、上空を飛ぶ裕次郎と芦田伸介が操縦する遊覧飛行中の双発760HPのデハビランド DH-104 “ダブ”に変わりスチュワーデスの峯品子が「右下に見えるのが日活国際会館でございます」などと抜け目なく案内しています。

映画は斬新さより定番のほうが面白いといえる快調な滑り出しです。

このダブの右マグネットが不調のようで洋上300kmの八丈島へのチャーター便には代替機の145HP単発のセスナ170となるのですが平行して島の少年が破傷風にかかり血清の輸送も頼まれます。チャーターしたのは二谷英明、同乗して血清輸送を美談記事にしようと張り切る新米記者の中原早苗、そして峯品子に「父親が出てきた」とデートをキャンセルされた裕次郎がパイロットを務めることになります。

見所は脚本や監督が随所に施した大芝居、小芝居を楽しむところでしょう。峯品子や芦川いずみが画面の背後にいるときにもご注目。小沢昭一と絡む滝沢修の当時のインテリ風台詞回しや西村晃の肘を広げない海軍式の敬礼(実際に海軍飛行予備学生だった)などはその時代を知らないと理解できないかもしれません。
また今の女優さんたちには見られない昭和中期の各世代の女性たちの言葉遣いや所作、銀座や八丈島の生活風景などDVDならでは楽しみ方ができます。

ダブはラウンジの本棚にある「本番台本」にも登場しています。エンジンは自社製でシュラウドで囲われた空冷直列6気筒9Lの倒立型のジプシー・クイーンでした。開発は1938年に始まりRAFを下支えした多様な航空機に搭載されていました。

そのほか当時の東京(羽田)空港の在籍機の殆ど、そのほか自衛隊や米軍の救難機が実写の背景でみられる。模型ではJALのDC-6C、USAFのC-124 グローブマスターⅡが登場します。

ヤクザによる海運会社社長の襲撃は1958年6月に実際に起こっており、事件から半年足らずで小説から映画の公開までこぎつけて一定の水準をクリアしています。当時の日本映画の勢いが分かりますね。

ヒットを受けて製作された「天と地を駆ける男 (1959)」も裕次郎と二谷の競演で日本遊覧航空が舞台となっています。旧陸軍の飛行機乗りが興した会社で航空機や航空管制に関する描写はどちらも当時としては緻密なアドバイスで描かれていました。

キネマ航空CEO

「映画で巡る空の旅・キネマ航空フライト」
©キネマ航空CEO

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マニラ・リベンジ作戦 最終回(本編の前にご覧ください)

こんにちは、竜子です。
またもやお前の登場か! って感じですが、「マニラ・リベンジ作戦」は今回も竜子の独断でアクセス制限付でお届けいたします。
とはいえ、今回は直接的な性的描写は含まれませんが、これまでのエピソードを「楽しく読んでいただいた方に向けて」、続きをお届けしたいと思っておりますので、よろしく。

今回は、「続きを読みます」って言ってください。もちろん、声に出してじゃないですからね(^^;
パスワードキーを要求されたら、「tudukiwoyomimasu」って入れてください。スペルが長いので繰り返しますね。

→ tuduki wo yomi masu
(実際にはスペースを除いてください)

さて、今回はいよいよ最終回です。

フィリピンは、300年以上に渡るスペインの植民地時代、その後のアメリカの植民地時代を経て1946年に独立した国。
ちなみに、こないだ出てきたリサール公園は、ちょうどマニラホテルのはす向かいに位置してますが(目と鼻の先というような距離ではないですが)、ここに掲げられているのがホセ・リサール像。ホセ・リサールはフィリピン独立の英雄で、語学の天才とも称されています。曾祖父の代に日本人移民の血が少し混ざっていて、日本との交流もあったようですが、独立運動の駆け引きの中、この現在のリサール公園の地でスペイン軍によって銃殺処刑されました。

そしてマニラホテルといえば、フィリピンきっての名門ホテル。アメリカ植民地時代にアメリカによって築かれました。GHQの最高司令官・マッカーサー一家が、居住していたことでよく知られています。マッカーサーといえば太平洋戦争のイメージが強かったのですが、それ以前、将来のフィリピンの独立を約束したルーズベルト大統領の指揮でマッカーサーはフィリピン軍の元帥になっていたようです。いまもマッカーサー元帥が使用していたスイートルーム(ワンフロアの規模!)が残っています。
フィリピンは革命が頻繁に起こっているわりに、生活が一向に安定しない残念な国です。マニラホテルもまた様々な歴史の中で、欧米諸国や日本、独裁者に翻弄されたはずなのですが、そんなことすら目くらましになる豪華なつくりのホテル。

マニラの一般庶民の現実とはかけ離れた場所を舞台に、どんなハチャメチャな物語が繰り広げられるのでしょうか…。
続きをお楽しみに。

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保護中: 第37回「マニラリベンジ作戦」その4(最終回)

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マニラ・リベンジ作戦 その3(読む前にご覧ください)

「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」はどうした?! 「マニラリベンジ」の続きはどうした?!
風天マンさんの記事をお楽しみにしてくださったみなさま、たびたびすみません、竜子です!

ええと…ですね。

実は今回の「マニラ・リベンジ作戦」その3は、竜子の個人的な規制により、未成年者のアクセス禁止とさせていただきます!!
そして、あらかじめお断りしておきますが、シモネタが苦手な方、女性の方、こちらも閲覧はご自身で判断いただくようお願い申し上げます!
内容はこれまでのエピソードで少々想像できるかもしれませんが、性的な描写が含まれています(もしかしたら、想像以上かもしれませんが…)。

なので、今回は制限をかけさせていただき、「20歳以上」でなおかつ「読みたい!」という方だけにオープンにすることにいたしました。先に進むも、ココでやめるもあなた次第。閲覧して「気分が悪くなった」とか、そういうのは自己責任でお願いしますね。

「おめ〜みたいなてきと〜なヤツがエラそうに!」との失笑はごもっとも。
でも…、まぁ、大人のみなさんにはこんな竜子のR-20指定もギャグの感覚で受け止めていただければ幸いですっ。

下のリンクからアクセスすると、パスワードキーが要求されるようになっています。
ここで、20歳以上のアダルトな皆さんは、大きな声で「私はハタチ以上です」と叫んで宣言してください。

ってのは嘘です。

「私はハタチ以上」と、ローマ字で宣言してください。
スペルは「watashihahatachiijou」。
半角で20文字と長いので、繰り返してスペルを表記しますが、実際にはスペースは取ってくださいね!
→ watashi ha hatachi ijou

このパスを入力していただくことで、年齢確認と性的な描写が含まれる内容に同意いただいたものとさせていただきます。

入り口はこちらです。

▶「マニラ・リベンジ その3」を読む方はこちらから
(未成年者は閲覧禁止です。さらに性的描写が含まれるため、同意いただいた方のみこの先に進んでください)

し〜っかし、風天マンさんは勇気あるなぁ…。
続く回も、アクセス制限とさせていただきます、風天マンさんの威厳と威信と名誉(?!)に関わるというか、私はハラハラしちゃいます。でも、これもまたハチャメチャ乗務員っぷりがよくわかるエピソード。

なお、次回は性的描写はありませんが、「マニラ・リベンジ作戦」に関しては引き続きアクセス制限をかけさせていただきます。
あしからずご了承ください。

というわけで。
では、よろしく〜!

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保護中: 第36回「マニラリベンジ作戦」その3

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第35回「マニラリベンジ作戦」その2

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前回までの経緯をまだ見てない方はその1をご覧ください!
いよいよ、作戦開始です。どんな展開になるのでしょうか?

S君は私から演技を誉められたこともあって、かなり乗ってきた(笑)

「先輩、何かこうワクワクしてきましたよ!」
「S君、ここは1発、やってやろうじゃないか!」
「はい、なんか、全くの別人になりきって演じるのって、結構面白いって感じっすね。」
「英語のダメな芸能プロダクシヨンの社長と、英語の堪能な元インテリ・ヤクザのマネージャーだからな!」

私はS君にデュポンのライターを渡して、我々はホテルの玄関に向かって歩き出した。彼はタバコは吸わないのだが、僕がタバコをくわえたら彼がさっと火を点けるのが、ヤクザ映画の場面にもよく出てくるし、さまになっていいと彼が提案したのである。元インテリ・ヤクザになりきっているようだ(笑)
いよいよ、これから5時間(結果的に9時間)にわたる、映画のタイトルをパクッた、自称「ステイング・イン・マニラ」の舞台の幕がいよいよ切って落とされたのであります!

玄関で、さっきのドアボーイの1人が駆け寄ってきて、満面の笑顔で、「社長、お出かけですか? お車をお呼びしますか?」。S君が「マニラで1番の高級ナイトクラブはどこだ?」とたずねる。もう1人のボーイも寄って来て「それでしたら、ミス・ユニバースかレクサスです!」
そのいずれの名前も、事前にリベンジ作戦の標的の候補にあげていた5つの中にある店だ。S君は偉そうな態度で、
「こちらの社長は東京の芸能プロダクシヨンを経営しているので、ショーを見たいのだ!」と言った。
「だったら、レクサスがお勧めです」と先輩格のボーイが応じた。
「特にダンス・ショーはこの店だけで、評判がいいらしいですよ」ともう1人のボーイが意味ありげな笑みを浮かべながら言った。

S君は軽くうなずきながら、
「では、シャンペン付きの最高のリムジンを呼んでくれ。このホテルに戻る…そうだな零時過ぎまで使うから、金額の交渉も頼む。料金は最後にまとめて払うからと言ってくれ!」

私が玄関でタバコを一服している間に、黒塗りの高級リムジンが玄関に横付けされた。
先輩格のボーイが運転手と交渉して、「明朝まで貸切で2000ペソと言っていますが…」
S君「いいだろう、ところで君は今夜何時までここにいるのか?」
「はい、私も彼も明朝3時までですが、何時頃お帰りになられますか?」
S君「その頃までには戻るつもりだ」
「では、お待ちしております。部屋の鍵はお預けになってますよね?」
S君「ああ」
「どうぞ、マニラの夜を存分にお楽しみ下さい。ドライバーは元警察官で、日本語はダメですが、英語は話せますし、絶対に信頼の置ける人間ですから、何かあったら彼に言って下さい」
S君「それは安心だ、有難う」と言って、彼等に100ペソづつチップを渡して、車に乗り込んだ。
「先輩、ついてますね。運転手は元警察官で英語もOKで、信頼できるそうですよ」
「…らしいな」

車内の小さな冷蔵庫には、ビールとシャンペンがほど良く冷えていた。我々はシャンペンを飲みながら、15分ほどの行程だったが、その間に再度打ち合わせをした。やがて、大通りのサークルを過ぎてチモッグ通りにさしかかると、いかにも高級クラブという外観の派手なネオンサインの建物が見えてきた。時計はちょうど7時を回ったところだった。少し早いかなという気がしたが、盛りだくさんのメニューを予定してるので、ジックリ堪能するには丁度いいかと思い、車から降り立った。

最高級(ぼったくりでも!)のナイトクラブであるレクサスの玄関横の広い専用駐車場は手前の方から半分近くが高級車で埋まっていた。玄関に、不似合いな小銃を携帯した警備員が2名と黒服が1名立っていた。運転手は我々に「少しお待ちください」と言い残すと、小走りで玄関先に向かった。彼は警備員や黒服とも顔見知りのようで、我々の方を見ながら何か話をしていた。やがて、彼は黒服を伴って戻ってきた。黒服が車のドアを開けて丁重に挨拶をして我々を店の玄関の階段から2階に案内した。

2階の入り口から店内に入ると、50卓くらいあるテーブル席までの通路に約60名程のホステスが両側に並んで「いらっしゃいませぇ〜」と独特の日本語で出迎えてくれた。フロアーの正面にステージがあり、天井にはミラーボール、後方には照明室があり、当時としては珍しい多彩なレーザービームを照射していた。時間が早目なのか、お客は3割程度で、我々はステージの最前方中央のテーブルに案内された。フロアー・マネージャーとおぼしき男がチーフと称する女性を伴って挨拶に来た。2人の名刺をもらったところで、
「この店は初めてだから、とりあえずこの店のトップクラスを5、6人呼んでくれ。それから先ずはサンミゲルビールを!」とS君。
「承知しました。できればお名刺を頂戴できますか?」
「こちらは、東京の芸能プロダクシヨンの社長で、私はマネージャーだ。彼は英語は話せない。名刺は、ビジネスの相手にしか渡さないことにしている」とS君もなかなか堂々とした対応をしている。
彼女は「大変失礼致しました、ごゆっくりお楽しみ下さい。何かあれば、何時でもお申し付け下さい」と席を離れた。30歳位で、鮮やかな紫のスリットの深いチャイナドレスがよく似合っている。白磁のような肌の中国系の美形で、プロポーシヨンも申し分なかったが、難を言えば笑顔がない。1分もしないうちに、この店のトップクラスにふさわしい5人の若いホステスがやって来て、我々の両脇を固めた。いずれも豊かな胸の谷間が露出したドレスを着ている。ビールを持ってきた黒服に「この子達にも飲み物を」とS君は打ち合わせ通りに真顔で指示する。

我々はやはり緊張していたので喉の渇きを覚え、直ぐにビールを飲みたかったが、彼女達の飲み物が来るまで我慢していた。これは、我々が初めての客なので、さっきからずーと我々を観察している、フロアー・マネージャーと女性チーフに、いかにも遊びなれた印象を与えるポイントなのだ。乾杯をして、一息に飲み干す。サンミゲル1本の値段は町中なら日本円で35円、そこらにあるゴーゴーバーで100円、ちなみに、この店では幾らかをS君に聞かせると300ペソ(600円)とのことであった。やはり、噂通りのぼったくりの代表店だなと彼と頷き合った。

ビールの次に、フルーツの盛り合わせとドンペリの辛口のシャンペン2本を注文して、しばらく女性達と談笑することにした。やがて、フル・オーケストラの演奏でTVで人気が出始めたという現地の女性歌手が3曲歌った。アップ・テンポでリズム感のある歌は民族の歴史的なものなのだと思うが、さすがに聴かせる。

次はマニラホテルのボーイが言っていた、この店自慢のセクシーダンスだった。ブラとパンテイは着けているが、これにレーザービームを照射すると乳首やヘアーが浮き上がって見えるのだ。それも総勢20人程の女性が次から次へとステージを乱舞するのである。これは見応えがあった。なにせ我々の席の直ぐ前で20人分の乳首とヘアーが入れ替わり踊るのだから(笑)もう最高! すっかり、普通のお客気分で我々2人はご満悦状態だったのです。

ショーの1回目が終ったので、私はS君に、さっきのセクシーダンサーを5、6人呼んでそろそろ、VIPルーム(この情報はリムジンの運転手から事前に入手していた)に移動しようと伝えた。彼は傍にいたホステスに、さっきの女性チーフを呼ぶように言った。
直ぐに女性チーフが来て、S君はその旨を伝えながら、ホステス達5人に500ペソ(1000円、彼女達の日当分になる額である)ずつチップを渡した。わずか1時間ほどで法外なチップをもらったのだから、彼女達の喜びようと言ったらなかった。これも筋書き通りで、S君はもしかしたら役者になっても飯が食えるのではと思ったほどである。

彼女達はこのテーブルに付くように指示してくれた女性チーフにも感謝の意を表していた。チーフも我々に愛想笑いを浮かべて感謝していた。私はやはり、彼女の笑顔と真顔の落差が気になって、スッチーの採用面接試験なら、きっと不合格になるタイプ(笑)だと考えていた。
そんな時、S君は突然何を思ったのか、このチーフにもチップを渡そうとしたのだ、それもなんと1万ペソ(2万円)もの紙幣を! これにはホステス達も驚いていたが、当の彼女がビックリして、あわてて「ダメダメ!私は違う!」と手と腰(笑)を振りながらあとすざりした。 

私の方は、この時に、もし彼女がすんなりと「サンキュー!ありがとさん!」って受け取ったらどないしょうとマジに心配したのでした。S君に「どうして、あんなことをしたんだ?」と聞いたら、ホステスへのチップの相場は50から100ペソだということと、チーフは席にも呼べないし、チップはもらえない規則だと言うことをホステス達から聞き出していたので、チョットからかってみたのだという答えが返ってきた。私が「いやー、マジにビックリしたぜ」と言うと「先輩心配しないで、大丈夫ですよっ!」と笑われてしまった。
S君はかなり、余裕が出てきたようだ。この調子なら、次に予定している彼の出番である重要な場面もうまくやれるかもしれないと思った。なにしろ、このリベンジ作戦自体が幾つかのリスクをはらんだ筋書きになっているのですから。S君と私が、この筋書き通りに、阿吽(あうん)の呼吸で遂行していかなければ成功しないのです。少しでもミスをすれば、それはたちまち2人がマニラ湾に浮かぶ危険にさらされる恐れがあるのです。例えれば、漫才の「ボケと突っ込み」に似ているのかもしれない・・・リスクを別にすれば!

VIPルームは上階にあり、そこにはステージが見下ろせる個室が全部で6室ほどあった。

各室にカラオケ装置があり、防音になっていて、クッションの効いた長めのソファーもあり、好みのホステスと2人っきりで存分に楽しむことも可能だということだった。お客は用事のある時には、呼び出しボタン(機内と同じ?)を押せばいいし、防犯カメラも覗き窓もないので、どこからも部屋の中は覗かれない造りになっていた。

セクシー・ダンサーの料金は1人につき、彼女の飲み物も(決まっている数種類)込みで、1時間2000ペソ(4000円)で、ショーの時とは違い、ブラは着けないということだった。若手のダンサー4人を呼んで、我々は相変わらずシャンペンのドンペリを飲むことにした。この時点ではVIPルームは我々だけで、最近はめったにこの部屋を使う客はいないということで、彼女達も呼んでもらえる機会が少なくなったとぼやいていた。ちなみに、ダンサーは最後のショーが終了した後であれば、全員連れ出しOKだとのことだ。
以前は日本人のお客(農協さんではなかったようだ)も来ていたが、最近は少ないと言っていた。それまでも、高い料金だったのに、一気に5割以上も値上げしたんだから当たり前だ。

最初にチップを1人に500ペソ(1000円)渡し、彼女達にも、途中でドンペりを1本追加して飲ませたので、半ば何でもありのまさにVIP状態で、我々も4人を相手にタップリと半ば何でもあり(笑)を満喫し、1時間が瞬く間に過ぎたのでした。ちなみに、彼女達によると、この店のオーナーは中国系だそうで、店の責任者は最初に挨拶に来た一見頼りなさそうなフロアマネージャーだと言うことが分かった。これだけの店をまかされているのだから、一見頼り無さそうに見えるが、相当なやり手なんだろう。彼を相手に、S君はうまく立ち回れるだろうか? 不安が首を持ち上げるのを感じていた。

例の女性チーフはオーナーの親戚の娘で、キャッシャーの年配の女性がオーナーの娘だということもわかった。
ここのオーナーは香港、上海にも店があり、マニラには全部で6軒の店があるとのことで、彼女達は2日交代でマニラの系列店を回っているということらしい。我々は次の作戦にした運転手からの情報による「秘密ショーの見物」を、彼女達にも確認して、決行することにした。ダンサーの彼女達を帰して、呼び出しボタンを押すと直ぐに黒服が来た。
「フロアマネージャーに勘定を持って来るように! それからドンペリをもう1本とチーズの盛り合わせ、それと新しいグラスを5、6個」とS君が伝えると、黒服は「かしこまりました」と答えて退室した。
「ところで、フロアマネージャーは日本語は分からないんだよな?」とS君に確認する。
「アッ、それ聞くのをすっかり忘れてました!」
「それによって、脚本を変えなきゃならないぜ。まーいいや、俺が確かめるよ」
ドアをノックする音がして、一見頼りなさそうな彼が、よくある愛想笑いを浮かべながら
「今夜はお楽しみ戴けましたでしょうか、女の子達に過分なチップを頂戴して、従業員一同感謝しております」と、おざなりな言葉を並べたてた。

私は、日本語で「いやー、満足したよ。ところで幾らになるの?」と言ったが、彼は苦しげな表情で「日本語、チンプートン、カンプートン、ノージャパニーズ」と答えたのです。ちなみに、「チンプートン」は聞こえない、「カンプートン」は見えないということで日本語の「チンプンカンプン」の語源で「わかりません」という意味の北京語です。
「オイ、本当に分からないのか?金払わないぞ!」と日本語で言うと、日本語は本当にダメらしく、彼はますます困った顔になり、S君にかなり癖のある英語で、「社長さんは何を言ってるのですか?」と聞いてきたので、私は「もういいから、勘定を見せてもらおう」とS君に伝えた。そして、マネージャーが差し出した立派な皮製の勘定書きを挟んであるフォルダーを受け取った。

高級クラブ「レクサス」で2時間余りを過ごし、高級なシャンペンのドンペリを3本も空けたのです。いったい幾らの勘定書きになるのでしょうか? その支払いはどうするのでしょうか? そして、筋書き通りにS君はうまくできるのでしょうか?

風天マン

※次回は竜子の判断で未成年禁止にさせていただきます!

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
© 風天マン
【著作について】実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」のすべては風天マンが著作権を保有しています。一般的な「引用」の範囲を超える紹介を除き、商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ info@airjapon.com(管理人:竜子)までお問い合わせください。

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映画で巡る空の旅・キネマ航空フライト701便「冒険者たち」

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「冒険者たち」 LES AVANTURIERS (1967/フランス)

【スタッフ】
監督 ロベール・アンリコ
原作 ジョゼ・ジョヴァンニ
製作 ジェラール・ベイトウ
脚色 ロベール・アンリコ/ピエール・ペルグリ/ジョゼ・ジョヴァンニ
撮影 ジャン・ボフティ
音楽 フランソワ・ド・ルーベ

【キャスト】
アラン・ドロン/リノ・ヴァンチュラ/ジョアンナ・シムカス/セルジュ・レジアニ

この映画は、リノ・ヴァンチュラを見る映画である。
ヴァンチュラはもう若いとはいえぬようだが、廃車処理工場に住み込んで新しいエンジンの開発と事業化をもくろんで性能の実証実験車にするドラッグ・スターの試作に夢中になっているローランを演じている。そこへアール・モビル(モービル・アート)の個展に使う材料を探して芽の出ない芸術家のシムカス扮するレティシアがやってくる。ローランは強引にレティシアに手伝わせて、飛行機の操縦を教えて喰っている冒険飛行を志すマヌー(アラン・ドロン)を、ゲートくぐりの練習に巻き込む。

まずマヌーは飛行クラブの知人たちにエトワール凱旋門のアーチをくぐり抜ければ賞金がでるとそそのかされるが、実行当日は革命記念日のためアーチに大きな三色旗が垂らされてあえなく失敗。使用する飛行機はデ・ハビランド DH.82 タイガー・モス 翼幅は 8.94m です。一方の凱旋門のアーチの幅は 15m 弱、奥行き 22m ですからやってできなくはなさそうです。とは言え、失敗すれば当局の目は厳しい。市街地上空の危険飛行で飛行免許の永久取消処分を受け生活手段を奪われます。レティシアの個展も散々の酷評を受け、ローランに至っては2度の挑戦に失敗します。

マヌーはいかさまを仕掛けてきた相手から「コンゴの沖に墜落した飛行機に動乱時に脱出した植民地富豪の宝物がある」と聞かされ、レティシアとローランと3人で傷心と冒険の旅に出ます。コンゴと呼ばれる地域の歴史はフランスとベルギーの旧宗主権をめぐる争いも絡み現在でも安定しているとはいえない。その黒人の政権下で物乞い暮らしで生き延びる墜落機のパイロット レジアニが3人に絡みだして宝探しは現実性を帯びてきますが、同じ目的の(白人)組織も介入してきます。後半はレティシアの故郷で沖合いにドイツ軍の要塞があるアイクス島へ帰り、そこで暮らし始めるがそのままでは終わりそうにありません。

ほとんどのシーンが、しっとりとしたパリ郊外、陽光輝くコンゴの海、陰鬱なアイクスの島を舞台とするロケで撮影されています。この映画の美点である、フランソワ・ド・ルーベの音楽が哀愁と軽快さをない混ぜて盛り立てます。
フランスは空への夢をはぐくむ平坦で広大な国土、冒険をさそうピレネーやアルプスの山々、ドーバーや地中海の海峡と、初期の飛行機開発にとっては良い環境でした。日本では、(ダメな飛行機でも)英国機のファンは多いのですがフランス機となると評価の高い機種は少ないようです。しかし製造力では戦前戦後を通して航空大国でもありました。航空機産業では凋落してしまった英国に取って代わって欧州を糾合しエアバス社を創始してアメリカの大型民間機製造業を集約化させる一因を作ったのもフランスであります。

映画の中でローランやテスト走行のスタッフがきているツナギ服にマトラのロゴが入っています。マトラ Matra (Mecanique Aviation Traction) の自動車部門から支援を受けていたようです。マトラは第二次大戦後にフランスで設立された航空エンジンの製造から始まるコングロマリットの一つで航空宇宙・防衛産業を手がけ、片手間で自動車にも手を出していたが自動車部門は売却されてモータースポーツの歴史にのみ名が残っています。現在はアエロスパシャルを経てEADS(European Aeronautic Defence and Space Company 欧州航空宇宙防衛会社)へ集まる源流の一つ。エアバス社もこの傘下にあり、航空機ファンなら旅客機のエアバス以外に思い浮かべる名前も多いはず。

さて、出てくる航空機はマヌーがいた飛行クラブの駐機場や格納庫に ロバン DR400 や モラーヌ ソルニエ MS880 ラリ(Rallye) いずれもフランス製の小型機。それに パイパー カブ が見られます。モラーヌ ソルニエ MS880 ラリ(Rallye) (1959) は後方スライド式のキャノピーが出入口となっており、外形がよく似ている富士 FA-200 エアロスバル (1965) と比較してみると面白そうですが、今回は同じエンジンを採用し同時代に計画された機体を比べて見ましょう。

財宝を積んで植民地からの脱出に使われた機体はマックスオルスト・ブルザール MH1521 。そして、そのライバルはカナダ製のデ・ハビランド・ビーバー DHC-2 。

MH1521REAR
MH1521FRONT

外観上では ブルザール の方はかなり大きな双垂直尾翼が特徴になる。
双発機ではプロペラ後流の中へ双垂直尾翼を曝して機速より速い気流を利用して低速時の舵の利きを得る例が多い。しかし流れが捩れているためエンジン回転数でも利きが変わるなどそれなりの弊害もある。単発機で採用する理由は垂直尾翼容積が不足したためであろう。しかし機体の全長が長い ビーバー は垂直尾翼容積の面では多少有利ではあるがドーサル・フィンを使って一枚の垂直尾翼ですませている。

ドーサル・フィンとは垂直尾翼から前に延びる三角形の背びれのこと。垂直尾翼容積を増加させる効果もあるが、操舵時に操舵面を流れる空気の量を増やし操縦性も改善する。第二次大戦前から知られておりフランスでもファルマン社の単発輸送機では使用しており日本でも採用例があります。

垂直尾翼容積とは垂直尾翼の面積 (m2) に機体の重心から垂直尾翼の圧力中心までの距離 (m) を掛けた値のこと。実際はさらに垂直尾翼にかかる圧力 (kg/m2) をかけて風見鶏効果すなわち復元モーメント( kg・m )の大きさを求めるときの定数になる数値だが、その定数の次元が長さの三乗になるため容積 (m3) と表現している。

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マックスオルスト・ブルザール
MH1521

デ・ハビランド・ビーバー
DHC-2
年代 1952 1951
エンジン P&H R-985
空冷星型9気筒450HP
P&H R-985
空冷星型9気筒450HP
翼幅 13.75m 14.63m
全長 8.56m 9.22m
全高 3.65m 2.74m
翼面積 25.2m2 23.2m2
全備重量 1,530kg 1,466kg
最高速度 270km/h 255km/h
巡航速度 193km/h 230km/h
上昇限度 5,500m 5,486m
航続距離 1,200km 732km
乗員・乗客 6名 7名
積載重量 970kg 852kg
アスペクト比 7.5 9.2
翼面荷重
( )内は全備重量時
99.2(60.7)kg/m2 99.9(63.2)kg/m2

ドーサル・フィンは全般に進空後の試験結果による安定性や操縦性の向上の手法として使われていました。基本設計で採用する例はかなり遅れてアメリカで始まりました。 単発機を双垂直尾翼にしたブルザール の設計者の意図は分からないけれど、案外独自性へのこだわりだったのかもしれません。これをフランス人的天邪鬼と呼んでいるのですが・・・事実、前作の MH52 (1945) やMH152 (1951) はいずれも失敗作の単発機ですが双垂直尾翼でした。

ところが双発の MH260 スーパー・ブルザール (1959) になるとドーサル・フィン付きの単垂直尾翼になりました。ちなみに胴体後方の下部につける「ひれ」はベントラル・フィンと呼びます。双フロートを装着した水上機型の ビーバー では陸上機型にはないこの腹びれを追加しています。上の要目比較表はWeb上からかき集めており、航空機のデータは条件で大きく変わるため参考です。ブルザール は寸法上では小さいとはいえ搭載能力は若干大きいようです。ただし実用上の性能はほぼ同等と見てよい。

翼面荷重からはほぼ同等と推測される最高速度が 6% も優れている点については、試験時の搭載重量等の差など試験条件が異なるのかもしれない。国や製造会社が異なる飛行機のスペックを較べるときに悩ましいところでもあります。同様に航続距離が大きいのは翼面積に比例していると思える翼内の燃料タンク容量の差ばかりでもなさそうです。設計思想では総重量での翼面荷重も同等で、大きく異なるのはアスペクト比です。このあたりが巡航速度の差として現れていると考えられます。

双子のような飛行機であっても生産機数では太刀打ちできずフランス軍の調達と国内の民間需要で終わりました。ブルザール(森の住人の意)はビーバー に周りの木を齧り倒されてしまいました。あえて外観上の差を見つければ ビーバー の主脚の太さかもしれません。翼型をしたブーツですがブッシュ・パイロットの目にはフランス美人の素足よりも魅力があったようです。しかし本国やアフリカで軍の就役が終わったブルザールは民間に放出され今も飛んでおり頑丈な働き者であることでは引けをとってはいません。

さて、この映画の結末は知っていても、映画の価値がなくなることなどないと思う。このものがたりの最後にただ一人残るのは最も年上のローランです。くどいようだがこの映画は、ローランを演じたリノ・ヴァンチュラを見る映画です。娯楽映画の筆頭にこの映画を持ってきたのは、 「人生はリセットできない」 ことをさりげなく教えてくれる映画も娯楽映画として存在していたし、特にフランス映画に色濃く出ていた時期があったことを知っていただきたいことが背景にあります。

最後に残る謎はローランの住む廃車置場に転がっていた飛行機の残骸は何だろう?! 映画のすじとは全く関係ありませんが。

ローランの住む廃車置場に転がっていた飛行機の残骸

キネマ航空CEO

急逝された武田一男さんに感謝を寄せて、今週は武田一男さんが撒いてくださった種子をいくつかお届けしたいと思います。

キネマ航空CEOとの提携を発表して以来、初回が遅くなったこと、まずはお詫びします。
「キネマ航空」はバーチャルエアラインとして、映画評を中心に配信している既に就航済の航空会社ですが、このブログの秘蔵っ子とも言うべきかな、将来的にも有望な資質を多く持っていて、この提携がきっと多大な利益がもらたすと思っており、気合いがかなり入っています。そのひとつ、ここ近年、飛行機が登場する映画を集めた書籍の刊行がなく、あちらこちらに情報だけが点在していること。キネマ航空とこのブログを通して映画評のコンテンツを集約することで、また新しい「飛行機の楽しみ方」を提案できるのではないかと楽しみにしているところです。

ところで、武田一男さんの本業は音楽プロデューサーで、副業が航空分野の音楽やコンテンツ製作でした。しかし実は本格的な映画ファンで007シリーズに至っては007研究家として、作品や功績を多く残しています。その武田さんが、ずっと言い続けていたのが「飛行機が出てくる映画を紹介したい」ということでした。体調や他のコンテンツを優先するにあたり、実現することはありませんでしたが、そこに現れたのがキネマ航空CEOです。キネマ航空CEOの登場には武田さんはとにかく大喜びでした。キネマ航空CEOからの武田さんとのコラボの提案も「それはもう喜んで」と言ってたのがつい数週間前。
また、キネマ航空CEOのキャラクターやフライトの演出は、人をワクワクさせるエッセンスに富んでいて、想像力を大いに刺激してくれます。今後キネマ航空CEOには映画評のみならず、多方向にわたって提携関係を結び、協力いただく予定でいます。今後ともぜひぜひご期待ください。

「映画で巡る空の旅・キネマ航空フライト」
©キネマ航空CEO

【著作について】「映画で巡る空の旅・キネマ航空フライト」 はキネマ航空CEOの執筆によるものです。一般的な「引用」の範囲を超える紹介など詳細については当ブログ info@airjapon.com(管理人:竜子)、またはキネマ航空CEOまでお問い合わせください。

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第34回「マニラリベンジ作戦」

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1980年代の日本は高度成長期をむかえ、経済が豊かになり、外国へ出かけるビジネスマンも増えたが、海外に出かける観光客が急増した時代でもありました。

海外の観光地で「農協さん」という日本語がそのまま外国語として通用した時代の話です。特に、東南アジアの観光地ではどこもかしこも「農協さんの団体客」を乗せた大型バスが有名なレストランや土産物店に横付けされ、そこでは日本各地の地方のお国訛りの言葉が元気良く飛び交うのを耳にしたものでした。時には、夕食時なんかに隣のテーブルから私の出身地の九州なまりの言葉が聞こえてきたりすると、懐かしくて、思わず声を掛けて、合流して一緒に飲んだりしたこともありました。農協さん達は、いささかマナーの面で批判されたこともありましたが、彼等を受け容れる観光地としては、彼等ほど扱いやすくて、金払いのいいお客はいないので、多少のマナー違反があっても目をつぶっていたというのが実態でした。外地の新聞の風刺マンガに、腹巻から札束を取り出す農協のおじさん(なぜか、どれも麦わら帽をかぶっている)が描かれたのも、この頃です。
当時の東南アジアの諸物価は日本の4分の1程度だったので、国内旅行よりパックの外国旅行の方が安く、この利便性を1度味わった農協さん達は、次々とその行動範囲を広げ、米国、欧州にまで進出するようになり、一躍「農協さん」が世界的に有名になったわけです。韓国便やマニラ便は一時期、8割農協さん! 残りがビジネスマンとオヤクザさんという様相でした。

彼等は飛行機に乗ってくるなり、「酒だ!氷だ!オツマミだ!」だったので、この路線はスッチー達からは敬遠される路線の代表でした。なかには、スッチーのことをホステスさんと間違って「オイ、ねーちゃんお酌してくれよ!」なんて、のたまう酔っ払い客もいました(笑)。ルンルン気分の、まるで無邪気な大人の修学旅行みたいで、いつも気難しい顔の旅慣れたビジネスマンのお客さんより、私は個人的には扱いやすくて好きでした。

機内で彼等から「兄ちゃん、どっか、オモシロイ店を教えてよ」と聞かれることはしょっちゅうでした。
当時、我々男性乗務員は、銀の線が袖口に光る黒の制服(まるで軍服みたいな)でしたが、食事のサービスになると、上位職のパーサーは黒、下位職のスチュワードは白のサービング・ジャケットに着替えていたので、当時パーサーの私はそこらへんの繁華街で客引きをしている黒服と同じに見えたのかもしれません(笑)。

ちなみに、当時のミリタリー調の制服は袖線で職位が識別されるようになっていました。袖線1本はスチュワード、1本半がアシスタントパーサー、そして2本がパーサー、2本半がチーフ、最高位の3本が乗務管理職でした。袖線半分というのは中途半端なので、チーフは3本、乗務管理職は4本にしようという話しがあったのですが、機長をはじめとする運航乗務員から猛烈な反対にあって、実現しませんでした。
機長が4本なので「自分たちと同格に見られるのはケシカラン!」というのがその理由なのですが、運航乗務員の袖線は金色。我々は銀色なので構わないじゃないかと言ったのですが、会社の上層部は1機をあずかる機長連に逆らうのはよろしくないということで、現状維持に落着いたのでした。当時の機長は自衛隊出身者が大半で、階級を表す袖線にこだわりが強かったのだと思います。
当時の私は「いつまでも、軍服みたいのは時代遅れであり、運航乗務員は別として、我々客室乗務員は線なんかない、当時のエール・フランス航空みたいなスッキリしたジャケットでいいじゃないか」という考えでした。今現在は、皆さんご存知のように普通のジャケットに変わっています。

さて、話を戻します。
「どっか、いい店…オモシロイとこ…」の質問の意図するところは承知しています。
接客業という仕事の一環として、お客さんの質問には的確に答える、情報は常に最新の内容に更新しておくというのがあるので、私も仕事の一環として、外地滞在中は情報収集を目的として(?)、自腹を切って、それに類するお店の探索に積極的に出かけていました。ただし、飲み代の相場はその店によって、かなりの差があり、余り詳しく教えると、旅行会社がお店とタイアップしている場合もあるので、彼等の営業妨害にならない程度迄の情報をお客さんに提供していました。

旅行社の添乗員が会社の規定の旅行スケジュール以外で、自由参加のオプシヨンと称して自分の知ってる土産物店、レストラン、お風呂屋さん、それにシンガポール、タイ、クアランプールなどでは、花屋さんに引率して蘭の花を買わせたり、夜のお店に引率して、チャッカリとその店からキックバックを貰っていたケースもその当時は当たり前でした。当時私と同期入社だった2人は、添乗員のほうが収入になるということで、転職したほどでした。最近の添乗員さん達は旅行社が直接、それらのお店と契約するケースが多くなり、以前みたいな「ウマミが無くなった」と嘆いていますが、こと夜のお店に関しては、まだ依然として彼等の役得やウマミが残っているのです。

日本への帰り便で、私が農協さん達に「どうでしたか、楽しめましたか?」と聞くと、そのほとんどの方達から「いやー、イカッタ、イカッタ!」の答えが返ってきました。当時の日本のお店では考えられない、いたれりつくせりのサービスと、たいていの我がままを聞き入れてくれて、しかも値段はそれほど高くなかったとなれば、満足するのは当然です。

ところが、マニラでは、ある時期に突然、特定地域のバーやクラブの値段がそれまでの5割増しになったのです。この話は帰り便のお客さんや、東南アジアを専門に担当している添乗員(ツアーコンダクター)からも聞くようになりました。これに関して、私の同僚の多くも「ボラレタ!」と頭にきてたし、その手の店を訪れる運航乗務員の連中からも同じことを耳にするようになったのです。
それらの話を総合すると、日本人観光客は言葉が分からないので、かつて日本のお店に出稼ぎにきていたフィリピン人のクラブ・ホステスの入れ知恵で、5割くらい値上げしても日本人は文句を言わないし、大丈夫だということだったようです。

私は、行きつけのお店のママにこの話しをしたところ、もうひとつ理由があることが分かったのです。
それは、最近、東南アジアに農協さんが観光に来ることが増えて、このマニラでも日本のオヤクザさんとマニラでバーやクラブを経営している現地のマフィアとが手を組んで法外な利益を上げようとしているということでした。日本のヤクザは秘密のギャンブル場や、2流のモデルや芸能人を集めた秘密クラブも最近オープンしたとのことでした。

つまるところ、マニラのマフィアと日本のヤクザが「日本人観光客をターゲットにして、食い物にしている」ということです。
日本では、その頃都市部で風俗関係の取締りが少しきつくなり、稼ぐ(彼等はシノギと呼ぶ)のが難しくなったので、それまでフィリピンからダンサーや歌手(大半はただのホステス)を芸能人と称して日本に連れて来ていたオヤクザさんが、そのルートで繋がりのあったマニラのマフィア連中と手を組んで商売を始めたというのが真相だったのです。そういえば、この路線の機内で、その手の日本人のお客さんから貰う名刺のほとんどが一様に「○○興業とか△芸能社、○○芸能プロダクシヨン」というたぐいでした。

その後も、マニラで「ボラレタ!」という噂は後を絶ちませんでした。
「日本人を馬鹿にしやがって、許せねー!ヤツラに一泡吹かせてやる!」というたぎるような思いが、私の心にフツフツと沸きあがってきたのです。

そうです! リベンジ! 復讐です!

そこで、先月末に今日のマニラ便が指定されていたので、このリベンジ計画を私はジックリ1週間かけて具体的に、脚本と言うか、筋書きを考えたのです。そうです!当時の私は若かったのです。浅ハカだったのです! …37歳(まだ?もう?)でした。

後輩のS君と一緒のマニラ便だということは事前に分かっていたので、2日前に彼に電話して今回の「マニラ・リベンジ作戦」を打診したのです。当初、彼は「へー、チョット面白そうですね」と乗ってきたのですが、筋書きが進むにつれ、
「先輩…チョット…それ…やっぱ…ヤバそうですね…」になり、そのうち「やっぱ、僕が…現金を見せるところが…鍵ですよねー」と。
でも「私、上手くやれますかねぇ…失敗したら、やっぱ、かなりヤバイですよねぇ…。それに、先輩ほど度胸ないし…」と。「やっぱ、やっぱ」のS君でしたが、最終的には私に説得された(強要された?)感じでやることになったのでした。

そして、事前に準備する服装、小道具のメモ用紙、それに作戦を実施するにあたって想定される英語でのやりとりについて、彼に確認しておくように要請したのでした。

1986年9月26日夕刻

マニラの中心街、ロハス大通りの一角に有名なフィリピン独立の国民的英雄、ホセ・リサールの遺体が葬られている、リサール公園がある。その公園の片隅で、乗務でマニラに着いたばかりの私と、英語の堪能な後輩のS君の2人は今まさにマニラ湾に沈まんとしている、燃えるような夕陽を眺めていた。真っ赤な夕陽に照らされた2人の顔は、りりしく、そして緊張していた。

「本当にやるんですか?」
「やるぞ!」
「先輩、これ…かなりヤバイですよ!」
「大丈夫だ。俺に任せろ!」
「しかし、万が一ってこともあるし…」
「お前、ここにきてびびってるのか? らしくないなあ…」
「えっ…そ…そんなんじゃないんですが…」
「お前が、打ち合わせ通りの役に徹してくれれば、上手くいく!」
「でも…失敗したら、それこそ、このマニラ湾に2人仲良く浮くことになるんじゃないですか…」
「そうなる前に逃げるさ」
「・・・」

「ヤバクなりそうになったら、俺が知らせる。あいつらは日本語が分からないんだから、心配するな!」
「そうですかネー・・・」
「イザとなったら、必ず逃がしてやるよ!」
「ハー・・・いえ・・・」
「ここまできたんだぞ、やるのか、やらないのか!ハッキリしろよ!」
「わ、わかりました・・・もちろんです、やりましょう!」

その筋書きと役割

さて、いよいよ、S君と作戦の下準備開始です。
リサール公園から、徒歩10分の場所に1912年にオープンして以来、フィリピンを代表するホテルとして、不動の地位を保ち続けてきたマニラ・ホテルがある。このホテルは第2次世界大戦中に、あのマッカーサー元帥が一時住んでいたことでも有名だが、昭和天皇や各国のトップクラスの要人達が宿泊した由緒あるホテルで、別名「フィリピン迎賓館」と呼ばれている。このホテルが、今夜決行する「マニラ・リベンジ作戦」のスタートとフィニッシュの舞台となるはずである。
私は以前3度、このホテルのプールサイドにある、しゃれたカウンターバーで飲んだことがある。ホテルの1階にある広大なロビーには、白い大理石の太い柱が立ち並び、それぞれの柱に豪華な年代もののシャンデリアが飾られている。ロビー正面にカウンターがあり、その右奥からプールサイドに続く通路がある。プールサイドのバーから少し奥まった所に、従業員専用の出入り口があり裏通りに面している。

我々はホテル正面から、さも宿泊客のような顔をして、ロビー中央に向かった。
ちょうどこれから夕食に繰り出すのだろう、いかにも金持ちそうな欧米人に混じって2組の日本人の中年カップルの姿があった。さすがにこのホテルでは農協さんの姿は見当たらない。我々はロビー正面のカウンターを通り過ぎて、右奥からプールサイドに出た。プールでは数組の若い米国人が泳いでいた。そのままバーを通り抜け、従業員専用出入り口へ行くと 拳銃を携帯した2人の警備員がいた。私は軽く挨拶をすると、彼等の1人が愛想よく裏通りに面した鉄製の扉を開けてくれた。これで、彼等警備員は裏通りから侵入する不審者は厳しくチェックするが、内部から裏通りに出る場合は特にチェックをしないことを確認できたことになる。
そのまま、我々は裏通りからタクシーを拾って、マカティに近い我々の定宿のホテルに戻った。
我々は30分後に事前の打ち合わせどうりに変身して、定宿のロビーで待ち合わせることにした。

私は、黒の安物のハンドバッグに日本で用意した3つの封筒の中身を確認して入れた。髭を剃り、ピンクのワイシャツ、白の綿スーツに白のエナメルの靴を履き、スーツの胸ポケットにはブルーのチーフをはさみこんだ。
漆塗りの使い込んだデユポンのライター、タバコはマイルドセブン・インターナシヨナル。
時計は以前ルーレットで勝った時に買ったオメガをはめ、薄茶色のレイバンのサングラスをかけ、最後に白の麻製ハットを頭にのっけると、鏡の中には、どこから見ても金持ちの道楽息子か、成金青年実業家に変身した私がいた。まんざらでもないなと思いながら、鏡に映った私に向かって「今夜はヨロシク頼むぜ、社長!」と声をかけた。

S君はというと、やはり白い綿ジャケットに黒ズボン(実は夏用の制服のズボン)に制服の黒い革靴、黒のワイシャツに白っぽい幅広のネクタイという出で立ちで現れた。短髪で、目付きも結構鋭いので、まるで夜、新宿の歌舞伎町あたりをガニ股歩きで2、3人若いのを従えてる兄ちゃんみたいだ。ところが、実際の彼は少し内股っぽい歩き方(笑)なので、この点の演技指導をしたのです。

お互い見詰め合って「結構決まってる!」とうなずきあった。
こんな格好を、知ってる乗務員に見られるとまずいので、我々はそそくさとホテルの玄関前で客待ちしていた白のリムジンに乗り込み、舞台となるマニラホテルに向かった。
マニラホテルまでわずか10分で、料金は100ペソ(約200円)だが、S君が前もって運転手に300ペソ(約600円)を渡したことで、ホテルに着
くと、運転手は急いで後部座席のドアを開けてくれて、何度も何度も「サンキュー、サンキュー」を繰り返した。この様子を見ていたホテルの2人のドアボーイは、笑顔で丁重に挨拶をして、重厚な玄関ドアを開けてくれた。打ち合わせ通り、S君は彼等に100ペソづつチップを渡した。ドアボーイにチップを渡すお客なんてめったにいないし、渡すにしても、せいぜい20ペソなので、彼等が歓喜したのは言うまでもない。

我々は先程下見に来たロビーの右手にあるカフェバーで、よく冷えたサンミゲルビールで前祝の乾杯をして、これから始める計画の最終的な打ち合わせをした。こわおもての彼は笑うと意外に可愛いい顔をしており、今回の作戦に、私から英語の上手さを見込まれてマネージャー役に誘われたこと自体、まんざらではなさそうだった。

私が持参した黒いバッグの中には札束で分厚くふくらんだ3つの封筒が収められていた。
この3つの封筒はいずれも東京銀行(現在の東京三菱銀行)のものです。そのうちの1つは100万円の束。2つ目は1万ドル(当時の日本円で150
万円)の米ドルの束。そして、3つ目はフィリッピンのペソ紙幣が2万ペソ(4万円相当)で、その内訳は1000ペソ(2000円)が10枚、500ペソ(1000円)が10枚、100ペソ(200円)が50枚。

ただし、100万円と1万ドルはそれぞれ800円と1000円で東京の上野にある通称アメヨコと呼ばれる商店街で入手した札束である。現地のペソ紙幣だけは本物です。1つ目の100万円の束の最上段には本物の1万円札を、1万ドルの最上段にも本物の100ドル札をセットした。3つの封筒には、小さな赤、青、黄色の丸いシールを貼って、見分けられるようにしておいた。

30分で入念な打ち合わせをして、後は成り行き次第でこちらの筋書き通りに行かない場合もあるが、その時は、「臨機応変、縦横無尽、出たとこ勝負」で、2人で決めることにした。

250万円相当のニセ札を周到に用意した「有名芸能プロダクシヨンの社長とマネージャー」に扮した2人は、一体全体これからどんな作戦を実行しようとしてるのでしょうか?

風天マン

急逝された武田一男さんに感謝を寄せて、今週は武田一男さんが撒いてくださった種子をいくつかお届けしたいと思います。

風天マンさんは以前、あるメールマガジンのトップランナーでした。JALでチーフパーサーをしていた元客室乗務員。その風天マンさんがこのブログにいらしてくださったのは、いろんなジャンルの飛行機ファンがここに集まっていたからだと思います。「集まっていた」といっても、コメントが多くつくブログではないしその「証拠」を見せるのは難しいのですが、武田一男さんは、呼び込みたい読者のターゲットを、多面的にシミュレーションしていました。感覚的に飛行機や空や旅が好きな人たちの層、コアな飛行機ファンの層、航空業界のプロの人たち。自分たちができることをやってコツコツやっていけば、自然と飛行機の好きな人たちが集まり、コアなファンからも支持されるようになる。その場ができれば自ずと航空業界のプロの目にも触れるようになり、やがてその中からこのブログに協力してくれる人が現れてくれるはず。そしてきっとその人たちが自分たちでは呼び込めなかった、新たな読者を運んでくれるようになる。

それで現れたのが風天マンさんでした。風天マンさんはハチャメチャ(?!)をウリにしている通り、愉快で奇抜なエピソードをたくさんお持ちの反面で、独特な正義感の持ち主でもあります。その正義感がときに賛否を巻き起こし、「お仲間ブログ」ではあり得なかった新たな意見をもたらしてくれたと思います。その賛否両論を恐れずに、果敢にエッセイを披露してくれる風天マンさんには心から感謝。きっとこのブログのチャンネルを豊かにし、さらに多くの読者を運んでくれることになると思います。
風天マンさんには、「奇襲攻撃」の砲として(?!)、マニラリベンジ作戦の原稿をいただきました。

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
© 風天マン
【著作について】実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」のすべては風天マンが著作権を保有しています。一般的な「引用」の範囲を超える紹介を除き、商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ info@airjapon.com(管理人:竜子)までお問い合わせください。

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ブラニフ航空のカットモデル!

Mattariです! 長い事ご無沙汰しておりました。

何やら、竜子さんが面白そうな企みを始めているようですが、いつも見る米国の某模型サイトで、偶然珍しい新製品を見つけました。
それはドラゴンモデルの新作、カットアウェイ(断面模型)シリーズです。
飛行機のカットモデルというと航空会社のオフィスに飾るような客席まで作り込んだ精巧なモデルが多く、なかなか一般には手に入らないものがほとんど。私の記憶では外資系のプラモデルメーカーがジャンボか何かのカットモデルを作っていたのを思い出す程度です。

その航空会社は伝説のアメリカ系航空会社のひとつであるブラニフ航空!

ブラニフ航空はもともとアメリカを代表する航空会社のひとつに過ぎずあまり目立った印象もなかった。
しかし、ある広告代理店の社長の娘が遊んでいた積み木からヒントを得て、あの七色に彩られたフライングカラーズと呼ばれる塗装が生まれたのです。それが大当たりして、ブラニフ航空の乗客数は増えたという。機内サービスでもエミリオ・プッチがデザインした制服を着てキャビンクルーがエア・ストリップと呼ばれるファッションショーでドンドン脱いでいくという型破りなイベントも企画されたり。常に話題性に富んだ航空会社であった。

ほんの一時期だけだが、コンコルドを唯一米系で運航した実績があるのはこのブラニフ航空だけである。しかしそんな贅沢に広告費も使えた良き時代は長く続かず1982年には多くのA320の発注を残したまま倒産してしまった航空会社です。

しかし、このブラニフ航空の優れたデザインとファッション性は、斬新な企画は後世に伝えられ、日本でも数年ほど前にブラニフ航空エキスポと呼ばれるイベントが開催されるほど、航空ファンのみならずファッション界やデザイン業界においても人気は高い。いまだブラニフ航空のグッズはエアーバッグなど人気があり航空関連グッズ店で入荷してもすぐ売れてしまうようだ。

ブラニフ航空

モデルのサイズは1/144スケールで全長が約48センチほどある大作!
あのフライングカラーの定番となったオレンジ色のボーイング747-127がモデルです。
機体番号はN601BNで確かビッグパンプキンなんてあだ名で呼ばれていました。

写真を見てもわかるとおり、客席の座席も忠実に再現され、翼やエンジンの内部もカットされた状態になっていてなかなか出来もよさそう。よく見ると貨物室の荷物が見えているのも面白い。展示スタンドも付いていて簡単に組み立てる事が出来るそうだ。
素材は恐らく、ドラゴンモデルのお家芸、プラスチックの多用でコストダウンを図っていると感じである。

既に予約を受け付けているようで、2011年7月に発売開始とのこと。楽天市場などで調べると送料別約7,000〜8,000円程度と、比較的高価ではある。米国の某社では約90米ドル。それでも大きなものだけに送料がかさむ事を考えれば日本の方が安い。

しかしこれだけの大きさで本格的な出来の良いカットモデルがこの金額で手に入るのはなかなかないと私は思う。飛行機の好きな子供にこれで飛行機の構造を教えてあげたら興味が増幅していいかも知れず、わりと一般向けにも売れるんじゃないかなと思いました。

以上、Mattariでした!
ではまたです!

Mattari

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今週は武田一男さんが撒いてくださった種子をいくつかお届けしたいと思います。
Mattariさんは大義の「航空ファン」、そして生粋の「航空マニア」です。彼の航空知識はまさに生き字引のごとし。どういう脳みそなのか一度頭を覗いてみたいほどですが、自分のこだわることに驚きの記憶力と、探究心を持っています。日本が世界に誇る「オタク」文化ですが、Mattariさんは一級の「オタク」の称号がふさわしいと思います。もちろんこれは、竜子からの最大限の敬意を込めています。
「オタク」といって、みなさんはどんな印象をお持ちになるでしょうか? 興味への取り組みが内へ向かいすぎていて、コミュニケーションがとりづらい、とかつき合いづらい、とかでしょうか? 私も半分くらいはそう思います(笑)。それにMattariさんもまた、大好きな飛行機の知識を、ずっと内なる宝物として大切に蓄積してきたのかもしれないな、って思っていました。
Mattariさんは、ブログを始める以前に航空の趣味を通じてネットで知り合った知人でした。私がブログを始めた後も、ひっそりとブログを見てくれては別の場でメールでメッセージなどを交わす、といった付き合いをしていました。
先に話していたように、ブログにいちばん最初にコメントをつけてくれたのは武田一男さんでしたが、それでコメントが賑わうようになって、ようやくMattariさんもコメントをつけてくれるようになりました。Mattariさんてかなりシャイなんですよね、なかなか自分から動かない。
でも、そんなシャイなMattariさんがちょくちょくコメントをくれるようになると、そのコメントの中にものすごい知識と感性と想像力、それから何よりもサービス精神が宿っているのに、武田さんはめざとく注目していました。内へ向かうマニアは多くても、サービス精神のある航空オタク。リニューアルしたブログでも最初からコアメンバーになってもらえるよう、色々と思案したものです。いくつかのやり取りを経て、デビューになりました。
私の友人を通じて、某週刊誌から取材依頼を受けたとき、Mattariさんを自信をもって推薦しました。多分Mattariさんはこれからライター業が副業になるのでは? と睨んでいます。

第33回「労使のハザマで」(5/5)

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現場管理職の団結の動きの行く末

各部に約120チームを6室、各室には5名の現場管理職(全て乗務員出身)が4、5チームを担当していました。
1チームはチーフパーサー1名、パーサー2名、他の乗務員18,9名で構成されています。各部で私のような現場管理職は30名、3部門で100名の管理職になります。管理職にも組合別の出身者の比率は明確で、私のような元客乗組合に所属していたのは全体の約2割に満たないのです。従って、配下の客乗組合のチーフパーサーやパーサーの半数は先輩だったのです。そして、公平に見て、彼等の機内業務は分裂工作で誕生した、いわゆる御用組合と称される全労組合所属の乗務員よりも仕事のレベルは高い評価をお客様から得ていました。

但し、一部の過激的な乗務員や高齢で手を抜く女性乗務員は概して不評です!
さて、こんな状況下で私は問題意識の高い現場管理職の仲間に今回の件で体験したことを話して、私の考えに同調する仲間の輪を広げることを始めたのです。

ところが、1ヶ月もしないのに、例の副本部長や直属の部長から急に呼ばれて、詰問されたのです。
「君は管理職組合を作るつもりなのか!」
私は、今回の件で現場管理職は会社の職制として懸命にやっているのに、会社は守ってくれないことに失望したと率直に話したのです。
現場管理職の地位の保全を確保する為には、相互の情報交換や相互に補完し合う、いわゆる相互扶助の必要性に基づく団結力が必要だと考えるようになったことも。そして、別に管理職組合を作ることは現段階では考えていないことも。
「君の気持ちは同じ乗務員出身の我々は理解できるが、管理部や本部長は君の言動に疑念を持っているようだ・・・」
これは、その直後に、私が声を掛けて2、3度食事会に集まったメンバーにも同様の警告があったことを彼らからの報告で知ったのでした。こうして、私の当初の計画は簡単に崩されたのでした。

つまるところ、客乗組合出身の管理職は常にチェックされ、所詮現場管理職としてうるさい客乗組合員の対応の当て馬としての処遇にしか過ぎないのだと確信させられたのでした。
私に同調してた同僚が「所詮、我々はインデイアンで白人にいいように使い捨てされるのさ、入社した時点で決まってるんだから・・・」と寂しそうにつぶやいていたのが印象的でした。

この直後に私はうるさい人物であり、名誉ある部長特認業務担当と称して部の年度報告や次年度の方針の企画、部全体の人材教育というプロジェクトの責任者に任命されて、エネルギーをそれに集中せざるを得ない処遇にされてしまったのでした。
本部長、管理部長主催で毎朝行われる管理職ブリーフィング(30分の会合)では、日々の運行状況と客乗組合と会社の対応、客乗組合員への脱退工作の強化を促す指示が出されていたのです。私はこの会に出席しており、このままではJALの商品の主たる機内サービスはどんどん劣化していくだろうなと切ない思いを抱きつつ、こんな経営陣ではJALの将来は危ういと危惧するようになっていたのでした。

JALの将来は危ういと危惧

我々の職場は労使間、労労間の問題が同じ職場に2つの組合ができて以来ずっと続いていました。
私はこんな状態では本来業務の機内サービスに支障が出ており、サービスの低下になると確信していたのです。従って、部の次年度方針にもこの点を盛り込んで提出したのでした。結果は、その箇所だけが削除されて本部に提出されたのでした。

1つのチームで1つの便を担当するのですが、チーム編成は4種類に区分けされていました。

【A】チーム:御用組合のメンバーだけ
【B】チーム:御用組合+大人しい客乗組合員
【C】チーム:御用組合のシンパ+客乗組合員
【D】チーム:客乗組合員のメンバーだけ

そして、チームリーダーであるチーフパーサーも過激な客乗組合のチーフはリーダーにはされずに管理職の配下でした。
担当する路線も×チームはお客さんとの対面時間の少ない短距離便が多く、【B】・【C】チームは比較的長い行程のパターンが多く、この間に客乗組合員の脱退工作を進める機会として組み込まれていたのでした。

この担当路線の配分については、非難が集中したので、2年後には改善されたのですが、リーダーから外されたチーフの処遇は継続されたのでした。労務部と管理部は客乗組合執行委員の処遇には特別待遇でした。
私の配下のAチーフは先輩で一見大人しく見えるのですが、彼には泣かされたものです。彼が待機日に乗務指示を電話で伝えると「はい、わかりました」と答えるのですが、その直後に運航担当の当直に電話で「体調が悪いので休みます」と連絡するのです。

そして比較的楽なパターンの場合だけ乗務をするのでした。
私が年末の人事考課で彼の評価は組合執行委員としての活動と乗務を5:5の比率で評価して、組合活動は10点満点、乗務評価は2点の計12点で第一次考課を付けたのです。成績は15点の「3」が普通ですが、彼の場合は12点で「2」のマイナス評価となるのです。
ところが、第二次評価者の上司から「これは困る!彼は昨年も”4″だから4にしてくれと言うのです。

私は最初、彼の言ってる意味が理解できなかったのですが、「私は配下乗務員の考課は組合別とか、執行委員とかは考慮せずに公平に本来業務だけで採点しているので、承服出来ません。訂正するつもりはありません!」

管理部も同席した最終的な人事考課会議の場で、彼の評価を私は問題にしましたが、結果的に本部長・管理部長決済ということになったのでした。そして、結果は「4」優れているという評価になったのでした。私が個人的に調査すると、全労組合執行委員は全員が「5」極めて優秀、一方の客乗組合執行委員も一部を除き「5」か「4」だったのです。

これらの現実に直面した私は、あの不当介入事件での私への処遇とお客さん不在で、顧客サービスとは無関係だという労務部・管理部やそれぞれの組合執行部の方針に改めて愕然とし、組織管理職を目指すことを断念したのでした。
そして、ひたすら目前の現場乗務員の育成に全力で取り組み、彼等から慕われる現場管理職として努めることを決断したのでした。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
© 風天マン
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第32回「労使のハザマで」(4/5)

会社に対して疑念を抱き始めたキッカケ

本社の労務部の担当者が顧問弁護士を伴って、私の事情聴取のために成田のオフィスにやって来ました。
我々の所属する客室副本部長のAさんが同席して彼等の事情聴取が始まりました。

先ず、労務部の担当課長からこれまでの労使間の経緯の概要説明があった。
次に顧問弁護士が「今回のテープの内容ですと、明らかに会社ぐるみで客乗組合員の昇格差別を認める発言になっていて、組合が提訴した場合、会社としては極めて不利な状況になることが考えられます」と事務的な口調で言った。労務部の課長は、いかにも私に対して「困ったことをしてくれましたね」と言いたげな表情だった。

30分程して、かって私と外地で酒盛りもしたし、女性と遊んだりしたこともある少し気は弱いが情のある副本部長が「彼の報告書では、そんな言質を取られるような内容はないと思いますが」と意見を述べてくれた。

それに対し、「しかし、現に社長も労務担当役員も列席されてる場で、例のテープが流されて、彼は、書記長の質問に”そうでしょうね”と答えているのですからね・・・ これはマズイですよ・・・」と課長。頭の薄くなった顧問弁護士も「そこが問題なんです」と同調。
私は「では、私はこれからどうすればいいのですか?」と直球の質問をした。

エリート面の嫌味な課長が「組合との関係はご存知のような次第ですので、ここは、会社として職制による不当労働行為があったわけですから、そのう・・・会社として管理職であるあなたに・・何らかの処置を・・・組合に対して」と奥歯にモノがはさまった言い方をした。
私の心中は「何だ!ふざけんな!現場の職制の苦労も知らないで!」と煮えくり返る憤怒の感情が沸き立っていたのです。
副本部長も腕を組んで眉間に立て皺を寄せて目を閉じたままだった。

「チョット、煙草を吸ってもいいですか?」と許可をもらい、私は一服しながら、気持ちの高ぶりを押さえたのでした。
要は、私が降格とか、他の部署に移転とかの処罰を受ければいいのだなと察知し、「シャーナイ、結果が全てだから、腹をくくるか」と覚悟したのでした。

その時、私はフッと、あることがひらめいたのです!
「そのテープは何分流されたのですか?」
「確か、10分だと伺っております」と課長。
「そのテープは会社側に提出されたのですか?」と私。
「いえ、しかし、正式な議事録には載ってませんが、書記係りが全部を記録していますので」と課長。
「私が彼らと話したのは約2時間です。その全てが録音されてるはずなので、組合に提出してもらってみればハッキリするじゃないですか? そこで流されたのは組合が都合よく編集したテープじゃないんですか? 私は先程から何度も言ってるように、会社や上司からの指示でN子さんに話したのではないと、書記長にも何度も説明してますよ!」と私。

そこで、課長と弁護士は顔を見合わせて、うなずきあったのでした。
課長が「いや、その点には気づきませんでした。早速組合に会社として申し入れをしてみたいと考えております。
そこまでハッキリと仰るのですから・・・いえ、決してあなたを信頼していなかったわけではなくですね、いや、極めてタッチーなことで、私共が直接そのテープを聴いたわけではなく当社の役員の指示で・・・」

当社って?私もその当社の管理職のつもりなんだが、エッ何なの!?と、今度は憤怒の大噴火になったのでした。

不当労働行為の決着とその後の私の行動

いけ好かない東大法学部卒のエリート面した労務部担当課長と頼りない60代の顧問弁護士との事情聴取の後、なんらかの報告があるのかなと思っていたが、1週間経っても何の報告もなかったようだ。
1ヶ月間でストレス耐性の高い私も胃痛を再発して、病院で検査をしてもらい診断結果は”巨大胃潰瘍”でした。
潰瘍が胃の内部から外部にまで巨峰みたいに突き出ていたのです。

担当医は内部での出血は大したことはないのですが、外部で出血すると腹膜炎を引き起こして命取りになると脅されて、1ヶ月の休業と言われたので、今は休めないと説明して、地上勤務はOKで、2ヶ月間の乗務停止ということになりました。我々現場管理職の勤務は月の半分がデスクワークで半分が乗務だったのです。

そんな時期に私の配下の客乗組合の委員長がひょっこり私のところに来た。
「マネージャー、ちょっとお話したいのですが・・・」と。
別の階の喫茶室で話を聞くことにした。
多くの眼があり「客乗組合の委員長と職制の私が、親密な話をしていた」と噂になるかもしれないが、私は、もうそんな些細なことは一向に構わないという腹をくくっていたのです。”噂の木、根も葉もないのによく育つ”・・・という職場なのです。

委員長は「今回の件は組合としてあなたを個人攻撃したのではなく、会社の組合への対応を改めて欲しいという意図でやったことで、あなたには私個人として、本当に申し訳ないことをしたと思っています」と頭を下げた。
私は「君も知ってる通り、私は組合の所属で差別して来たつもりはないが、今回のY書記長の汚いやり方は許せない!」
「本当に、申し訳ありませんでした・・・彼も組織防衛を必死に・・・」
「済んだ事だから、いいです。ただ、彼には人間として、超えてはいけない一線を超えた行為は許せないと伝えておいて下さい!」そして、私は席を立ったのでした。

それっきり、上司からも労務部からも、そして組合からも何の話もなく、あれだけ大騒動した件はまるで何事もなかったかのように消えてしまったのでした。会社と組合と何らかの裏取引があったことだけは確かで、私は現場管理職の地位が実に危うさを秘めていることを実感して、これをどうにかしないとマズイと思い始めたのでした。

国際線担当部の現場の120チームに本来は営業部門がやるべき機内でのチケット販売、JALカードという会社がやるべき営業活動を、これまた機内や名刺交換したお客さんに乗務員が休日に電話で勧誘することを暗に奨励している実態。接客に全力集中すべきなのに、会社の収入確保の為にひっきりなしに機内で流す機内放送はユッタリとくつろぎたい、あるいは眠りたいお客様にとって騒音以外の何ものでもないのです。

私は、このようなチームを公然と競わせるやり方には反対を唱えており、出発前の乗務員のブリーフィング(事前打ち合わせ)に立ち会う際には過度なセールスや過度な機内放送はしないように注意喚起していました。そんなことをしなくても、私の配下のチームは工夫を凝らして収入面でトップクラスの実績があったので、他の職制と反することを言っても上司は私に苦言を言えなかったのです。

現場管理職の地位の保全を確保する為には、相互の情報交換や相互に補完し合う、いわゆる相互扶助の必要性に基づく団結力が必要だと考えるようになっていました。そこで、問題意識の高い管理職仲間に今回の件を通して体験したことを話して、私の考えに同調する仲間の輪を広げようと決めたのでした。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
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第31回「労使のハザマで」(3/5)

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管理職の不当労働行為で組合から追及される

私が管理職になったのは1993年末でした。
1994年の1月17日午前4時31分、ロサンゼルスで大規模な地震が発生しました。当時、私は関西空港支店に勤務していたので、翌年の4月には成田空港に戻る予定でした。
ところが、1995年1月17日午前5時46分、淡路島北淡町野島断層を震源とするマグニチュード7.3の阪神・淡路大震災が発生しました。1923年の関東大震災以来の死者6,434人、重軽傷者者43,792人という甚大な被害をもたらせました。その結果、被災した乗務員の世話もしなければいけなくて、成田空港への復帰は1年延びたのでした。

4年振りの成田空港に戻った私が直面したのは労労間、つまり反会社的な客乗組合と会社の分裂工作で出来た御用組合と呼ばれていた全労組合との間の軋轢というか、相互敵視の凄まじさでした。パイロットの組合員と客乗組合員は全員が制服の胸に「差別撤回!」と印刷された赤いバッジを着けていました。おまけに、私の配下の5チームのチーフパーサー・グループのうち4つが客乗組合に所属していたのです。

さらに、私の直属に客乗組合の委員長以下3人の執行委員も配属されていたのでした。
当然、この余りにもいびつな配属に対し私は上司に強く異を唱えたのですが、
「君なら上手く彼等を管理できると考えたので・・・・頼むよ」という型通りの答えでした。

生来の正義感・青臭さでこれまで是々非々で相手構わず自論を声高に述べてきたので、上司や人事部は「毒を持って毒を制す」の管理手法でこんな配属を私に押し付けてきたのだと思いました。当然、私が以前に2つの組合の統一を試みたことも知っていたことも関係しているので、上手く利用しようとしているのだなと思ったものです。当時の直属の上司である室長は以前は温厚な客乗組合員だったのですが、組合分裂工作で、いち早く全労組合に移籍して昇格した人物でした。

毎月、自分の室所属の客乗組合員を何名脱退させるかに精力的でした。
彼の机の引き出しには脱退させた乗務員が胸に付けていた赤い組合バッジを誇らしげに入れていたほどです。当然、配下の我々管理職にも毎週脱退工作を強要していました。

私は組合差別はしなくて、本来業務の乗務や勤務態度に是々非々で60名の配下乗務員と対応することを信条にして、部下の人事考課や昇格会議でもそのやり方で2年間実践したのでした。

当初、申し合わせたように「私はアナタには協力できません!」と初対面の時に言っていた3名の客乗組合のチーフパーサーも2年目には協力してくれるようになったのでした。客乗組合の委員長は、それまで自宅の電話番号を会社に登録するのを一貫して拒絶していたのですが、私の説得で3ヶ月後に登録してくれました。その時は、管理部や上司までもが「アイツとどんな裏取引をやったのか?」としつこく私に聞いてきたものでした(笑)

ただ、私はこの時、もはや労使問題は限界点に来てると感じたものでした。お互いが疑心暗鬼の範囲を超えて、不信と憎悪に化していると思ったのです。そして、経営トップが本気で労務問題を解決する気がないと再認識したのです。

私の直属の部下に客乗組合員のスチュワーデスのN子がいました。
彼女は既婚者で精神的にも安定感・信頼感があり、業務全般に能力を発揮し英語も平均以上のレベルで将来有望な人材だと考えたので、そのためには半年間の地上研修を体験させるのが、次の昇格ステップにも有利だと考えて彼女をある研修先の責任者と上司に推薦したのでした。

両者の意見は「彼女は優秀だとは思うが、客乗組合所属で、しかも彼女の父親は元航空機関士でやはり過激な組合員だったので、どうもね・・・」という返事でした。
私は、「彼女は良識もあり、仕事と組合所属は明確に区別しているので、研修先で問題を起こすようなことはないと保証します!」と、押し切って他の候補者15名中3名の枠に入れることが出来たのでした。
私はまるで自分のことのように喜びました。勿論、当の本人は「組合所属があるので難しいと思ってましたが、本当にチャンスをいただき、ありがとうございます」と嬉しがっていました。

4ヶ月の研修の間、私は毎日その研修先に顔を出して、彼女を励ましたり、上司に彼女の研修振りを確認して報告したりしていました。研修先の責任者の評価も上々で、残り2週間で彼女の研修が終る頃、私は上司から「彼女なら大丈夫だから、君が組合を脱退するようにアプローチしてくれ」と言われたのでした。
私が即答しないので、彼は「次回の昇格候補として充分だと思うが、組合を脱退してもらわないと彼女の昇格は無理だぞ!」と追い討ちをかけるような言葉を私に投げかけたのでした。

私が管理職の不当労働行為で組合から追及された一部始終

成田空港に戻り、3年目を迎えて、私の配下の5チームは120チームの中で、最初の1年間はいろんな実績競争(JALカード獲得数、機内販売売り上げ、勤怠、英語資格取得者数、チケット販売実績・・・等)の最下位でしたが、2年目で中位の上、3年目でなんとトップクラスにランクインするまでになったのでした。ただし、私の組合脱退工作の実績は管理職のなかでは下位のほうでした。

4ヶ月の地上研修を終えた彼女の研修先の責任者からの報告書の内容は満足のいくものでした。
これなら、次回のN子の昇格は間違いないという自信があったのですが、現実はどうしても組合所属が障害になっていたのです。
上司の「組合を脱退しない限り昇格は無理だぞ!」の言葉もあり、悩んだ末に私は正直な気持ちを彼女に伝えることにしたのでした。

彼女が乗務から帰着したある日、帰着後の業務が終了したのを確認して、彼女に「疲れてるのに悪いが20分ほど話がある」と伝えました。
そして、管理職の作業室で「知ってると思うが、昇格要件として組合所属が1つの要素になっているのが現実だ。この点につきジックリと考えて、次回の乗務出頭時までに返事をもらいたい」という主旨の話をしたのでした。
会話を交わしてる間の彼女は、いつも通りの表情でした。

ところが、翌日の午後5時のことです。
以前に書いた私の尊敬してた先輩で、現在、客乗組合の書記長のYさんがひょっこり私の所属室に顔を出して「オイ、ちょっと5分ほどいいかな?」と声を掛けてきたのでした。

私はそれまで職制と組合執行部という意味では、お互いに昔のよしみもあり、普通に良識的な会話はしていたので、同僚への当直シフト勤務の引継ぎも終っていたので、「いいですよ」と答えて彼の後について行ったのでした。
彼に「何の話ですか?」と聞いても、「いや、チョット人に聞かれるとマズイので・・・」と空いてる作業室で話そうということになったのですが、なぜか別の組合執行委員も同行してきたのです。3人で部屋に入り、彼が「実は俺とお前の仲なので、俺の独断でやることなんだが・・・」と前置きをして、彼は1枚の書類をテーブルの上に置いたのです。

“○○管理職の不当労働行為について”という大枠の表題が目に飛び込んできました。
私は一瞬、いったい、何のことだ? と思ったのです。
書き出しの1行目に「配下△△組合員に対する○○管理職の不当労働行為」とあり、私は愕然としたのでした。彼はそこで、通常はこのまま会社の担当部に申し立てをするのだが、2人の間柄なので、私に事実関係を確認したいという主旨だった。その時点で、N子は私と話した直後に組合事務所に直行したことを知ったのです。

「まさか、あの彼女が!何故!?」という思いで、気が動転した状態でした。しかし、現実は目の前にあるのですから、タバコを取り出して気を落ち着け、彼女に話した事実を正直に話し始めたのです。傍にいた女性の執行委員がそれをメモし始めたので、私がそれをとがめるとY先輩は「オイ、彼と私は特別なんだから、メモは止めろ!」と指示したのでした。

彼らは私が上司からの指示で、いわば組織ぐるみの脱退工作をしているという言質を私から引き出したかったのでしょうが、その点は私は断固否定して私の個人的な考えによるものだということで終始したのでした。結局、彼等から解放(?)されたのは2時間後でした。まるで、刑事の取調べみたいで、昔、学生運動で2度逮捕された時を思い出していました。そして、空虚な疲労感だけが残っていました。

翌日は休日だったので、昨日の疲れもあって昼近くまで寝てました。昼食後、会社の上司から「君も私もN子やられたな!」という電話がありました。

成田と羽田、そして当時の本社があった丸の内のオフィスの玄関で私の件が”配下組合員に対する○○管理職(私の実名)の不当労働行為”
のビラが配られたとの報告だったのです。こんなビラの配布は再三のことだったので、私も上司も直訴したN子さんには憤慨していたのですが、私はシャーナイと考えることにしたのでした。
妻は、この件に関して「あなたは部下を育てようと一生懸命になるのはわかるけど、少し甘いのじゃない・・・」と忠告されたのでした(笑)加えて、「あなたは人を信じすぎるところがあるし、思い込みが強すぎるところもあるので、これをいい薬にすることよね」との痛烈な言葉でした。

翌日、会社に出勤すると、部長や上司、同僚から「気にすんなよ!これでお前も一人前の管理職になったということだよ!」との声が掛かってきたのでした。複雑な心境でした・・・。

愕然とする事態が勃発

その2週間後に私が愕然とする事態が起こったのでした。

当時、経営陣と労組との間で定期的に「経営協議会」という会議体が開催されていました。6つの労働組合を一同に会すると経営陣にとって都合が悪いこともあって、それぞれ個別の組合と経営陣が話し合いをすることになっていました。ある種の個別組合ごとに回答内容に差をつける労務政策、裏取引みたいなことも委員長や書記長ともやっていたのです。この客乗組合との「経営協議会」の場で、何と私が昇格差別を認める発言の録音テープが流されたというのです。私が尊敬して、信頼してたY書記長が同席してた執行委員のメモを止めさせ、実は2時間に及ぶ私との会話の全てを隠し録音していたのでした。

その場に出席していた労務担当役員は返答に窮して、私の所属する客室本部に怒りの電話をしたようです。
本部長や管理部長が直接私を事情聴取することになり、記憶の限りY書記長とのやりとりの一部始終をその前に報告書にして提出しろとのことになったのです。

「隠し録音自体が違法行為じゃないですか!」と言ったのですが、「社長の前で流されてしまった以上、それは問題じゃない!」と私を非難する口調でした。私はA4の報告書に12枚におよぶ報告書を作成し、翌日、彼等の事情聴取を直属の部長、室長同席のもとで、これまた2時間ほど受けたのでした。彼等の聴取で主眼としたのは「組織ぐるみとか、私の上司の指示」という言質があったかどうかでした。
「それは絶対にありませんでした」と伝えると、彼等は安堵していたようで部長に対して「アイツラはこんな汚い手を使うので、管理職全員に注意するように徹底しといてくれ!」と本部長は厳命していました。

2日後、今度は本社の労務部の担当者が顧問弁護士を伴って私の事情聴取に成田のオフィスにやって来たのです。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
© 風天マン
【著作について】実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」のすべては風天マンが著作権を保有しています。一般的な「引用」の範囲を超える紹介を除き、商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ info@airjapon.com(管理人:竜子)までお問い合わせください。

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第30回「労使のハザマで」(2/5)

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分裂工作を語る前に、日航という会社の成り立ちを先ずわかって戴いていたほうがいいと思うので、それにともなって現行の6つの組合(細かく言えばもっと多い)の成り立ちについて紹介します。

現在の日本の企業で、これほど組合が分かれていること自体が異常だと言えます。
労使関係はまるで乱気流の中を、不安定な飛行をしているジャンボ機にも似ています。

1951年に政府主導の国営企業として日本航空(株)が設立されました。この時に最初の組合である産業民主的な「日航労組」が誕生しました。翌年、日航整備(株)が設立され、「日整労組」が誕生。
1954年「日航労組」からパイロットの組合である「乗員組合」が独立。これは当時、大勢を占めていた米国人パイロットとの賃金格差が3倍も違うこと、勤務時間の格差是正が受け入れなかったことがその理由でした。

1963年、日航整備(株)を日本航空(株)が吸収合併して、事業拡大に着手。
そのためには、膨大な資金調達とコスト削減が必要になり、経営陣の強化策として、当時の松尾社長(運輸省出身)は植村会長(経団連)、伍堂専務(日経連)、朝田専務(運輸省出身、後に社長)の布陣を決定しました。
産業民主的な「日航労組」のなかに「乗員組合」の独立に刺激され、会社のコスト削減による合理化策に反発する動きが出始め、一気に労使関係が悪化。これに危機感を抱いた会社首脳陣は「乗員組合」「日航労組」「日整労組」の不穏分子に対する組合分裂工作をスタート。
このあたりから「沈まぬ太陽」(山崎豊子著)の小説は始まっています。乗員組合の活動家4名を解雇、「日航労組」の不穏分子の配置転換が始まった。
1965年、会社への対立姿勢が高まった「日航労組」から本来の産業民主的に立ち返ることを掲げた「日航民労」と「客乗組合」が、「日整労組」から「日航新労」にそれぞれ分裂したのでした。また、この直後に「乗員組合」も「運航乗員組合」に分裂したのです。
つまり、この時点で日航には6つの組合ができたのでした!

同じ職場にそれぞれ2つの相反する組合ができたことで、組合員である社員間の人間関係がギクシャクするようになり、労使関係はますます複雑になり難しくなったと言えます。
そんな中で、1972年、乗員乗客90名が亡くなったニューデリ事故が発生。初めて経験する大事故に組合員の意識が大きく変化しました。
私自身もこの事故で敬愛していた先輩が亡くなったことで、それまで組合に対し関心がなかったのですが、真剣に考えるようになったのでした。

同じ年には、モスクワ事故(62名死亡)、75年アンカレッジ(11名負傷)、77年クアラルンプール事故(34名死亡)と続き、1985年の123便の前代未聞の大事故まで多くの犠牲者を出した事故件数は計7件を数えたのでした。

私は、この全ての事故現場を慰霊に行き、「合理化による組合分裂工作と安全性は相反するのではないか」と強く感じるようになってきたのでした。会社経営陣も一般社員も1人として、「安全性」を損ないたいと考える人はいません。しかし、現実的にはこれだけの事故が発生し、沢山の命が失われたことも事実であり、会社一丸となって真摯に、かつ本気で再発防止に取り組むことが犠牲者の方達とご遺族の方達に対する責任だという思いを今はただOBの1人として強く願うのみです。

1976年1月末のある日、私は入社当時から親しくさせてもらっていた優秀な先輩のYさんから相談を受けたのです。

「オイ、もし僕が組合を抜けたらお前はどうする?」
「突然どうしたのですか?」

優秀だった彼は当時スチュワーデス訓練部の教官をしていました。私もこの先輩の影響で、将来の教官を目指していました。
闘争的な色合いの強い客室乗務員の組合を弱体化させ、産業民主主義的な会社寄りの第2組合が発足して1年が経過していたのですが、第2組合への加入者が思うように増えない状況が続いていたのです。そこで、訓練生に絶対的な影響力を持つ教官全員を第二組合所属にするために2泊3日の「管理者研修講座」という名目の研修が行われたのでした。教官の中で「客乗組合」所属の教官がYさんを含め4名いました。訓練部と乗員部の管理職が勢揃いして、講座終了後、各部屋に押しかけて執拗な脱退工作をやり、精神的に追い詰められたとのことでした。

研修の最終日には、全員の前で教官一人ひとりが「明日から自分はどうするか」の決意表明をやらされ、「客乗組合をつぶさないといけないと思います・・・客乗組合をつぶさなければいけないと思います・・・もっと不当行為をやって下さい・・・」という第2組合所属の教官の発言の中にあって、Yさん他4名は「考える時間を下さい」と言い続けたそうです。

この4名に対する脱退工作は、訓練部に戻った後も毎日のように執拗に続けられ、ついに1名の教官は第2組合に移籍しました。
先輩のYさんが私に相談してきたのが、この頃でした。

「先輩はどうしたいのですか? 教官を続けたいのですか?それとも止めたいのですか?」
「僕は訓練生を立派な乗務員に育てたい、だから教官になったんだ! しかし、客乗組合員でいる限り、思うように教えることができないんだ!」
「だったら、抜けたらいいじゃないですか?」
「それでも、お前はこれまでのように付き合ってくれるのか?」
「先輩、人は個人の部分が片手、仕事の部分が片手だと思います。その片手の仕事の部分で、組合の位置づけは小指の先ぐらいにしか私は考えていません。先輩は訓練生の育成に情熱を持っているのなら、それに支障をきたすのであれば、脱退すればいいじゃないですか? 先輩とは個人の片手と仕事の4本の指があるのですから、組合を抜けたからと言って、付き合いには関係ありませんよ!」

ところが、彼は人望があったので、客乗組合執行部から、これまた執拗に慰留を求められて、脱退しないで2年間の教官の任期を終えたのでした。また、一旦は組合を変った1名の教官も、再度もとの客乗組合に戻ったのでした。ところが、皮肉なことに、私が敬愛していたYさんは後年、客乗組合の書記長になり、管理職として組合を担当した私と対立することになったのでした。

私は複数の組合執行部を配下に置かれ、会社と組合双方の板ばさみの中で苦悩する日々が続き、ついにひどい胃潰瘍になってしまいました。
組合分裂は実際の機内でも、外地滞在中も、双方の組合がいがみ合い、対立して機内のサービスにも影響が出ていました。
また、パイロット達と対立する組合員との間には軋轢が生じコミュニケーシヨンが上手くいかないケースも多発したのでした。

この現状を打開しなければダメだという思いが高まって、私は、組合を1つにまとめるべきだという信念のもとで、会社の労務担当者や組合幹部に密かに働きかけをしました。しかし、そこには私の想像をはるかに超えた力が働いていたのでした。

詳細は省きますが、簡単に言えば、双方の組合の後ろ盾となっている社外の組織・団体からと推察される人物によるイヤガラセや脅し、脅迫の電話が数十回にわたり自宅にかかってきたのです。妻には、私が何を始めようとしているのかには事前に話していました。多分、イヤガラセの電話や手紙もくるだろうという点も含めて。
当初は「何故?あなたがやらないといけないの? そんな危険を侵してまで、子供達は大丈夫よね?」
最後には私の思いと性格を熟知していたので、渋々でしたが同意してくれました。

私が両組合を1つにする動きを始めて半年後、それまで、個別にアプローチをしていた結果、ついに会社の労務担当課長、秘書課長と2つの組合の執行部が各2名で話し合いを持つところまでこぎつけたのです。会合場所は都内の小料理屋の2階でした。時間は、それぞれずらして、個別に私がこれまで彼らと取り決めた前提条件の確認とあくまでも、お互いの条件を提示することの再確認が必要だったからです。

私と個別の話し合いが、それぞれ10分ほどで終ったので、広い別間で3者が一同に会し、酒を酌み交わしながら、当たり障りのない世間話から始まったのです。頃合を見て、私から、組合の統一案を切り出したのです。結果は総論賛成でした。
ところが、事前に取り決めた前提条件の話しになった段階で、それまでになかった条件が提示されたのです。
2つの組合執行部はそれぞれに数千名の組合員を説得するには、これまでの前提条件では不可能だと言い始めたのです。時間の経過と共に、3者は感情論も入り混じり、結果的に物別れになったのでした。
私は、自分自身の非力さを思い知らされると同時に、双方に根深い恨みの感情が存在していることを改めて認識させられたのでした。

当事に比べると、現在は第二組合が圧倒的多数になり、穏やかな関係になってきたのはいいことだと思いますが、いずれにしても、組合分裂による問題はさまざまな形で深い影を落としてことだけはまぎれもない事実で、それがお客様不在というJAL全体のサービス低下に影響しているのも現実なのです。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
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第29回「労使のハザマで」(1/5)

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一昨年の10月から、”JAL、日航”の文字がマスコミに頻繁に登場しました。
これまで、一流企業として認知されてきたのに、実質的な倒産に至ったのは何故?

昨年、山崎豊子氏の著作「沈まぬ太陽」が映画化されたタイミングも重なり、注目を浴びたこともあり、私にとって感慨深いものがあります。
こうした状況もあって、私の実体験を「労使のハザマで」として紹介することにしました。

日航は数年前のぶざまな社長交代劇の後も、依然として経営陣の不協和音は解消しておらず、加えて相変わらず労使関係が上手くいっていないことも、企業体としてのまとまりを欠く要因になっているようです。
また、客室乗務員の職場でも組合が分裂したことで、職場の人間関係が一気に悪化して、これが機内サービスに少なからず影響を与えていることは残念だと思います。いずこの会社も経営者と組合員の労使関係がスムーズに行っているところは少ないようですが、JALの場合はそれが顕著だと言えます。

私が入社した1970年当時も、職場環境はかなり問題がありました。
その第1は、年休を取るのに、年休枠が毎月発表されるのですが、その日に当時の羽田空港の事務所に出向いて、直接その日の当直管理職に依頼するという制度で、早い者勝ちだったので、当日は年休希望者は早朝から押しかけていました。
当時の職場は1年間に1ないし3グループの新人が訓練を終えて現場に出てくる状況だったので、「1期違えば虫けら同然」と言われていたのです(笑)。 ですから、新人は先輩に順番を譲らないと、先輩の心象を害して一緒の乗務の時にイジワルされるというのが職場の常識になっていたので、結果的に新人は年休を思うように取れない状況だったのです。ほどなく、この制度は組合の要求で改められたのですが、現在のような制度になるには数十年の労使交渉が続いたのでした。

当時の組合は業種によって分かれていました。
私は客室乗務員という業種だったので、客室乗務員組合という1つの組合に所属していました。この組合は組合員の意識が高く、まとまりも強かったので、労使交渉の場でスト権をかけていました。

当時はニューデリーから始まり、飛行機事故が連続して、多くの同僚が亡くなったりしました。私の大好きな先輩もニューデリーの事故で亡くなったのです。
その関係で、当時はかなり職場環境が改善されたのも事実です。出発から到着までスチュワーデスが着物を着ていた制度が、緊急脱出の際に着物では迅速な動作が困難になるということで、飛行中だけ着るようになったのも、組合が安全要求に掲げた項目でした。

ところが、このままでは経営サイドの力が弱くなるという危機感を抱いたこともあって、会社の上層部は、将来管理職として有望な人材を対象にした組合分裂工作を始めたのです。その第一段階が分裂工作の下準備でした。各所属長・管理職が配下の乗務員の履歴書から、親の職業と仲良しメンバーや社内の交友関係のリストを作成して、影響力のある人物を管理職が数人がかりで口説き落とすという方法を取っていました。
当時のスチュワーデスの父親が大手の銀行や商社、大企業という人もいたので、父親からそれとなくアプローチしてもらうという手段も取られていたようです。この話は直接、複数のスチュワーデス本人から聞きました。

この下準備は1年半にわたり水面下で行われ、その結果、組合員の中で日頃から当時の組合執行部のやり方に疑問を持っていた組合員を中心に反対を唱える5つのグループが出来上がったのです。
私も常にスト権をかける執行部のやり方には疑義を抱いていたこともあり、当時の執行部に異論を唱えるグループのメンバーになっていました。
ストをやると、現場にいる社員は当然お客様から怒鳴られるのですが、我々乗務員も同じで、かなり文句を言われました。
当時は事故の責任がパイロットによる人的ミスという事故調査委員会の発表もあって、パイロットの組合が、以前よりかなり強硬姿勢を取りはじめた時期でもあったのです。

それまでは職場環境の違いから、パイロットと客室乗務員の組合は要求内容が違うこともあって、共同歩調を取ることはなかったのです。
ところが、事故があるとパイロットもスチュワーデスも犠牲になるのは同じなので、「安全性」に関する要求で一緒に協力するようになったのです。

分裂工作の舞台裏

当時の株式は、そのほとんどが国が所持しており、会社のトップも旧運輸省からの天下りでした。
旧国鉄の組合もたびたびストライキを決行していたので、正直言って、現場部門以外は、お客さまに対して申しわけないという気持ちは希薄でした。

当時国際線は日系企業としては、日航だけだったので、ストの影響も直接減収に結びつくこともなかったので、当時のマスコミは「お姫様スト!」と報じていました。日本の景気自体が高度成長期でもあり、国内では企業戦士が登場し、海外に進出しているビジネスマンは「エコノミック・アニマル」と呼ばれていた頃だったので、旅客搭乗率は前年度を大幅に上回っていたのです。
会社の利益もそれに伴って大幅な増益が連続して、各労組共に賃金値上げの好機と捉えて、年2回の労使交渉でかなりの成果を勝ち取っていたのも事実でした。

ところが、日米航空交渉で、米国系の航空会社が一挙に日航のドル箱路線と言われていた太平洋路線に参入してきたのです。
第一次オイル・ショックによる燃料費の高騰、公租公課と言われる空港使用料や着陸使用料も値上がりしたこと、米国の「市場原理」による自由競争導入によって、収入に陰りが見え始めました。また、将来の民営化を見据えた内部留保金を積み立てる必要性もあって、経営陣はそれまでの組合との協調姿勢を180度転換することにしたのです。

社内では、営業部門の発言力が強く、経営陣の多くも営業出身者で固められていました。
「会社の業績が上がってるのは、我々営業がお客を取ってきたからであり、その成果をパイロットやスチュワーデスに均等に配分するのはオカシイ!」というのが、営業部門共通の認識で、分裂工作の下地としてあったのです。しかし、当時の営業は大手旅行代理店に丸投げで、自分達の足で新規の顧客を獲得していたわけではなく、業界からは「殿様営業」と呼ばれていました。
営業の販売促進部に私の同期がいて、何度か食事に行ったことがあるのですが食事から、2次会の飲み代、東京から千葉までのタクシー券まで出してもらいました。「オイ、大丈夫なのか?」に対し、「いつも、こんな調子だから心配するな!」と彼は答えていました。
当時の我々にはビックリするほどの販売交際費が同期入社3年目の営業担当者にも割り当てられていたのです。

ちなみに、パイロット職、客室乗務員職は専門職の位置づけであり、現場の日常業務を管理・監督する初級管理者には専門職が任命されていましたが、部門の人事や予算を管理するのは、全員が地上職、それも営業出身者で占められていました。海外の主要支店長も営業出身者に占められていました。しかし、営業部門も2大派閥(東大、慶応)が当時からあってシノギを削っていたのです。

我々の職場は女性と男性の比率が7:3で、男性も私立大学出身のボンボンタイプが多かったこともあり、管理し易い(御し易い)し、会社の中でも構成人数が多いことから、人件費を削減すれば、会社にメリットが多いという判断が優先し、ついに経営陣は客室乗務員組合の分裂工作にゴー・サインを出したのでした。

当時の客室乗務員組合の執行部が調子に乗りすぎていたことも、経営陣の危機感をつのらせたことも事実だったのです。
客室乗員部の現場管理職が一同に集まると、組合に察知される懸念があるので数日間にわたり、料亭やホテルで部門長(地上職)が管理職を集めて、現在の闘争的な組合の分裂工作を2年間で進め、民主的で、ストをやらない新たな組合を創設するという計画を遂行するように指示していたのです。現場管理職の一部からは反対の声も挙がったのですが、強面の部門長から恫喝されて、大多数の現場管理職が賛同することになったのが実態です。この時点で、現場管理職もシッカリと色分けされたようです。

この当時、私は入社3年目だったので、こんな情報は一切知りませんでした。
後年になって、色分けされた組合・現場寄りの先輩管理職から聞いたのです。

2年間で、どのような進行スケジュールにするかは、数名の管理職からなるプロジェクトチームと本社の労務部と人事部からの専任スタッフとの合同で綿密に策定されたのでした。

風天マン

実録「ハチャメチャ乗務員の飛行日誌」
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