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世界の航空史サウンドエッセイ「わが心のキティホーク」第1回

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 YS-11の生みの親、木村秀政名誉教授が晩年、まるでご自分の人生を振り返るかのように綴られた珠玉のエッセイ「わが心のキティホーク」に感動し、その本をサウンド・エッセイにしたいと提案すると、快く引き受けて下さり、また、先生の著「世界の航空史案内」(平凡社カラー新書)を合わせて「音による世界航空史」にしてはどうか、とのご提案まで頂き、先生ご自身のナレーションに加え、先生の貴重な航空機のサウンドコレクションまで使わせて頂いて完成した作品です。エッセイ「わが心のキティホーク」のもつ詩情豊かな雰囲気をだすために音楽や効果音なども使い、かなり苦労して完成までに時間がかかリました。それだけに僕としては例えようのない愛着をもっている作品でもあります。過去、レコードで発売した際には航空各方面から身に余る賛辞を頂きました。今回はその作品を木村先生の想い出をこめてノーカットでこのブログで4回にわたってご紹介したいと思っています。ご試聴いただければ幸いです。

武田一男

木村秀政

★「わが心のキティホーク」挿入:10
※「▶」の再生ボタンをクリックするとサウンドが流れます。
木村秀政先生の解説をお楽しみください。

ライト兄弟 フライヤー1号機

★「わが心のキティホーク」挿入:11
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木村秀政先生の解説をお楽しみください。

フライヤー1号機
 世界の航空界の常識では1903年12月17日にウイルバー・ライトとその弟、オーヴィル・ライトが飛行機による動力飛行の世界最初の成功者で、その飛行はノースカロライナ州キティ・ホークで行われました。その様子を木村先生は愛情をこめて語られています。過去、僕が木村先生におめにかかるたびに感じたことは、先生の飛行機に対する無心の愛情でした。その愛情がこの作品をとても暖かいものにしてくれました。

 それから、その12馬力エンジンを持つフライヤー1号機はワシントンのスミソニアン博物館に保存され、その完全なるレプリカがキティホークのライト兄弟記念博物館に飾られています。ご興味のあるかたはぜひ、お訪ね下さい。

ライト家の三男・ウィルバー・ライト
ウィルバー・ライト

ライト家の四男・オーヴィル・ライト
オーヴィル・ライト


フランスの翼 ヴォアザン・ファルマン機

★「わが心のキティホーク」挿入:12
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木村秀政先生の解説をお楽しみください。

ヴォアザン・ファルマン機
 人が空を飛ぶ道具の開発は1783年に気球、1797年の空中からのパラシュート落下、そして1852年の飛行船初飛行などすべてフランスが世界最初ですが、そのフランスでライト兄弟と時を同じくして飛行機を開発していたのがヴォアザン兄弟です。ヴォアザン兄弟はライト兄弟より一年も早くグライダーを完成させていましたが、エンジンつきの飛行機は1907年11月5日にノルマンディ海岸で初飛行させています。そのヴォアザン機のパイロットであったアンリ・ファルマンが翼に補助翼をつけて飛行性能を安定させたのがファルマン機で、日本の徳川大尉が購入して代々木公園で日本最初の動力飛行を成功させたのもこの飛行機です。それが1910年12月19日で、この日を起点にして今年の日本の航空100年のキャンペーンが行われることになりました。


ブレリオ機 世界初の英仏海峡横断飛行

★「わが心のキティホーク」挿入:13
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木村秀政先生の解説をお楽しみください。

ブレリオ機
 やはり、同じ時代、フランスにはルイ・ブレリオという飛行家がいました。彼はライト兄弟やヴォアザン兄弟、ファルマンなどの複葉機ではなく単翼機にこだわって試行錯誤し1909年に素晴らしい単翼のブレリオ11型機を完成させ、その飛行機で最初の英仏海峡横断飛行に成功し一躍空の英雄として賛美を受けました。この洋上飛行は所要時間が32分だったそうです。また、この飛行機でベルギー人、ジェオ・シャベーツが3000メートルの高度を飛行し、初めてのアルプス横断飛行をしたことも航空史の輝かしい歴史として残っています。

世界の航空史サウンドエッセイ「わが心のキティホーク」
著作・録音 武田一男 ©Director’s House
【著作について】「わが心のキティホーク」の文章、または付録の音源に収録している音楽、音声のすべては武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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羽田空港のはじまり

花の大江戸、羽田空港。
「東京国際空港」が正式名称だ。でも「成田国際空港」は2004年まで「新東京国際空港」、「新」の違いがちょっとややこしいから、「羽田空港」が通称、わざわざ「東京国際空港」なんて言う人はいないよねっ!

JAL、スカイマーク、スターフライヤー(北九州)の第1ターミナル。ANA、エアドゥ、スカイネットアジア、スターフライヤー(関空)の第2ターミナル。それからソウル、上海、香港便の国際線ターミナル。
1つのターミナルが日本の地方空港以上に巨大に、マイナーな海外の国際空港ほどの大きさを持って、大田区から伸びる広大な敷地に張り巡らされた東京湾上のターミナルだ。
今でこそ国内線が主流の、端に追いやられてしまった船着き場のような国際線ターミナルだけど、成田空港が出来るまでは国際線、国内線の分け隔てなく、日本でいちばんの空港として、老若男女の心を鷲掴みにして、長い間、夢と希望を深く心に刻み付けて来た場所である。

ある人はまだ見たことのない異国の地に期待と興奮で胸を膨らませ飛び立ち、ある人はよそ様が羽田空港から海外へ旅経つ姿を横目で見ては「いつか私も海外へ」と胸に秘めながら送り出し、またある人は海外へ出かけることで自分が変わってしまうかもしれない不安を抱き、はたまたある人は見たことのない肌の色と顔立ちと言葉の外国人さんに興味津々で…、万歳三唱と、笑いと、涙でそれぞれの想いで華やかせ、活気づいていた。

いまもまだ1位の座をあきらめたわけではない。
なにせ、国内でも珍しい24時間運用が可能な空港、まだ貨物機くらいしか深夜に活躍してないけれど、都心からも近いし、滑走路の数も長さも設備満載。わが羽田空港は外からの期待も未知数である。ちょっとした自慢といえば、政府のお偉いさんや国賓や公賓、皇族といったVIPが必ずといっていいほど使うのが、この羽田空港だ。
それに、2010年には新しい4本目の滑走路と管制塔もできて、ターミナルも増設される。いよいよ第1ターミナルのレストランからも全貌が見えるようになってきた。オープンすれば、私たちがアッと驚いてた外国の人を、今度は迎え入れるようになって、すぐ向かいの都心にあるハイテクに文化に心意気に、「日本って凄い!」ともっともっといわせたい。

多分、成田空港も今頃嫉妬してることだろう。でも、それが時代の流れってもんだ。みんなその流れに身を委ねて、ひたすらじっと見守るしかない。開港したしたときから、ただそうやっていろんなものをずっーと見て来たのが、おいらってもんだ(以上、羽田空港国際線談)。

さて。
羽田空港のはじまりは、1931年(昭和6年)8月25日。大正時代からあった羽田運動場などの場所に、民間機のための初の国営飛行場として「羽田飛行場」として開港した。それまでは陸軍の施設として使用していた立川飛行場を、民間用に切り離したのだ。今でこそ全長2500m、3000m級の長さを持つ滑走路が3本(2010年には4本)もあるけれど、当時の滑走路は全長300m×幅15mの滑走路が1本。私たちの想像する「滑走路」とは全く違って、「飛行場」という名前ではあるけれども、そこはただの野原の真ん中に大きな格納庫がふたつあるだけのものだ。

羽田飛行場:昭和6年

出典元:博文館「大東京写真案内」

当時羽田飛行場から飛び立っていたのは、昭和3年に設立された日本航空輸送株式会社の飛行機。中島飛行機がフォッカーからライセンス生産をしているスーパーユニバーサルという6人乗り旅客機。定期便は、東京、大阪、福岡、京城(現ソウル)、大連だ。
一応は「羽田飛行場」は国際空港であったけれども、朝鮮の京城は日本の統治下、大連(中国)も関東州だったわけだから、開港後間もなくの間は国内空港みたいなもんだ。

この時の話が広瀬正さんの「マイナス・ゼロ」に登場しているので、少し抜粋します。
俊夫さんが昭和6年にタイムスリップする、というお話で飛行機で東京から大阪へ行くシーンです。

 東京ー大阪間の運賃は大枚三十円だった。
 俊夫の他にほかに、金三十円也を支払った人たちは、外国人の老夫婦、軍服の海軍中佐、それに華族らしい青年紳士だった。
 俊夫の横に坐った海軍中佐は話好きらしく、飛行中しきりに話しかけてきた。俊夫が飛行機に関心を持っていると知ると、さっそくそれを話題にした。まず、最近この日本空輸のスーパー・ユニバーサル機が大阪東京間を僅か一時間二十八分という、おそるべき新記録を達成したという話。そこまではよかったのだが、そのあと、中佐は転じて、飛行機事故の話に移った。去年の秋、神戸で、カフエーの広告飛行の飛行機が女学校に墜落して、搭乗員二名は即死、女学生三名が重傷を負った話。川西航空の水上機が級に発動機から火を吹き、乗員三名が落下傘で飛び降りたところ、そのうち一人は落下傘が開かず、土手の上に落ちて死んだ話。さらには、この二月、この日本空輸のドルニエ旅客機が大阪から福岡へ向かう途中、濃霧と吹雪のため八幡市外の山頂に墜落、登場者五名のうち四名即死、一名は翌日死亡…。
 機外は、少し霧が出はじめているようだった。それに温度も低い。飛行はもちろんぜんぶ有視界飛行である。俊夫はもう、ひたすら無事到着を神に祈るよりほかなかった。
 が、さいわい、神に願いが通じたのか、スーパー・ユニバーサル機は、予定時刻より少し遅れただけで、三時半ごろ、伊丹飛行場に到着した。

「マイナス・ゼロ」広瀬正

ちなみに、この大枚三十円。(総務省の統計によると)昭和初期のお米が10kgで2円、女中さんの月給が10円、大卒の初任給が70円、和服を反物から一式揃えて30円といいます。女中さんと大卒のお給料の格差があり過ぎるのと、当時の大卒者数を考えると、そもそも大卒者の初任給が高額と思われ、一概に比較はできませんが、とにかく結構な額というのは確かのようです。
事故についての記述がおおいのは、飛行機の安全性がまだまだ不安定だったようで、しばらくは、飛行機事故も多かったようです。
それから、上には出てきませんでしたが飛行機を使っていたのはもっぱら新聞社ですね。
スクープをとりにいっては、東京へ届ける。そうして飛行機が使われていました。
そんな時代に羽田空港は、羽田飛行場として産声をあげました。
ちなみに「飛行場」というのは広義の「航空機が離発着するところ」です。その飛行場の中でも「空港」は「お客さんを輸送する場所で設備が整っているところ」、となります。

大阪や福岡などの国内はもちろん、満州国や台北といった日本統治国以外にも、北東アジアへの窓口として機能していました。タイやインドシナへと国際線を運航するようになり、格納庫やターミナルも充実していきます。昭和12年のこの写真を見ると、設立当初は滑走路と格納庫2つだけだった羽田飛行場も、ターミナルビルがしっかりと経っている様子が分かりますね。

羽田飛行場:昭和12年

出典元:『世界畫報』昭和十二年二月號

今日はここまで。

そだ。ひとつ羽田空港のイベントのお知らせです。
テクノロジーを体感できる展覧会「空気の港」です。

デジタルパブリックアートといって、デジタル技術を駆使したアート、っていうかおもちゃ感覚で遊べるハイテク技術、って感じでしょうか。たとえば飛行機が出発するのと同じタイミングで、LED電飾の星座の中に飛行機が浮かび上がったりする「出発の星座」、人が通った時だけ時刻を示す針が現れる「自針と分針」なる作品などなど。
見て楽しめる作品が、空港のあちこちに現れます。

■期間 10月9日(金)〜11月3日(火)
■時間 10:00〜19:00
■場所 第1ターミナル/第2ターミナル
「空気の港」の詳細はこちら

宮島達男さんという、それこそデジタルパブリックアートの先駆者というべきアーティストがいるのですが、この方の大ファンでして…。いちばん好きなアーティストです。この手の楽しめる作品が好きなので楽しみにしています。美しさは期待してませんが…。
会期も結構ありますからぜひ足を運んでみてくださいね。

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