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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」最終回 ハーレクイン8673、ホノルル管制へ

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★「最後の飛行」挿入29

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 ハーレクインエアはホノルル管制エリアに入った。
 現在、高度37000フィート。
 漆黒の闇だった東の空に濃いブルーの色が混じり、僅かに水平線が現れてくる。
 先ほどから、副操縦士のダウニングに代わって管制交信をしているネイヤー航空機関士が、無線機の周波数をホノルル管制センターVHF119.9メガヘルツに切り替えると、ホノルル空港へ進入承認を受けた日本航空92便がクリアランスを復誦するボイスが聞こえてきた。
ジャパンエア92ヘビー クリア トゥ ホノルルエアポート プレゼントポジション ディレクト ブック ブック 8 アライバル リービング フライトレベル390 サンキュー
(日本航空92便です。現在地点からダイレクトにBOOKE BOOKE8進入方式でホノルルエアポートへ高度39000フィートから下降を開始します)
 アメリカ合衆国では小型機も国際空港に差別無く離着陸出来るので、小型機と区別するために大型機は便名のあとに「ヘビー」という言葉を入れることが定められている。この日本航空92便は新潟発ホノルル行きのDC-10で大型機である。
 日本航空の交信のあと、ネイヤーがマイクを取ってサンフランシスコ管制との最後の交信で指示されたようにホノルル管制を呼んだ。

▼ホノルルエリア飛行地図
ホノルルエリア飛行地図

ホノルルセンター ハーレクイン8673ヘビー フライトレベル370 10メネツ アット サイバッド
(ホノルルセンター こちらハーレクイン8673便です。高度37000フィートで飛行しています。あと10分でサイバッドに達します)
ハーレクイン8673 ホノルルセンター
(ハーレクイン8673便へ。こちらはホノルルセンターです)
ゴーアヘッド ハーレクイン8673ヘビー」とネイヤー。
ハーレクイン8673ヘビー スクウォーク 2754 フライトレベル370
(ハーレクイン8673便へ。貴機のレーダー認識番号は2754です。そのまま高度37000フィートを維持して下さい)
 ネイヤーがホノルルセンターの指示を復誦して交信を終わった。その交信を三宅機長が確認してネイヤーにHF無線機を切る指示を出す。これから着陸までVHFによる交信となる。
OK HF OFF」そして、キオラ(KEOLA)の緯度と経度を確認する。
(ノース)21・17・9 ウエスト158・29・4?
(キオラは北緯21度17分9。西経158度29分4だよね?)
そうです」とダウニング。
 キオラはホノルル空港のすぐ西の洋上にあり、普段はキオラ経由で離陸に使用するポイントだが、早朝のホノルル空港は離陸が少ないので、西から飛行した航空機に対して有視界着陸の場合はキオラ経由で滑走路4や8に着陸する場合が多い。
ダイレクト トゥ トゥ。ダイレクト?」と三宅機長が確認する。現在の位置からキオラにダイレクトに進入することが出来れば、サイバッドとカウアイ島南の通過予定地点を経由することなく、最短距離で滑走路4又は8に着陸することが可能なのだ。
  ネイヤーがすぐマイクを取って管制官に尋ねた。
ホノルルセンター ハーレクイン8673ヘビー ウィ キャン プロシード フロム プレゼントポジション ダイレクト キオラ?
(ホノルルセンターへ。こちらはハーレクイン8673便です。現在地点からダイレクトにキオラへ進入することが出来ますか?)
8673 ラジャ ダイレクト
(ハーレクイン8673便へ。どうぞ。直行して下さい)
8673 ダイレクト キオラ」(8673便。直行します)
 ネイヤーがにゃりと笑って親指を立てて復誦交信を終える。

「あら…。金星が出てきた」
三宅機長が操縦室の窓ガラスから水平線を指さして言った。指の先には限り無く黒に近い紺色の空に信じられないように大きく黄金の玉のような宵の明星が光っている。
 日本エアシステムとハーレクインエアを支えた三宅機長のラストフライトは、夜明けの金星の光のようにあと数十分で終わろうとしていた。
 コックピットのスピーカーから、近づくホノルル空港の管制が伝えるATIS(空港情報)が聞こえてくる。

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★「最後の飛行」挿入30

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ホノルル・インタナショナルエアポート インフォメーション ブラボー(B) 1453 ウィンド050/8ノット ヴィジビリティ10 スカイクリアー テンパラチャー 22 デューポイント18 オクティメーター30・05 ランディングランウェイ4 ディパチャーランウェイ4アンド8 イクスペクト ILSアプローチ オア ビジュアルアプローチ アドバイズ イニシャルコンタクト ユー ドウ インフォメーション ブラボー
(14時50分のホノルル国際空港の情報Bをお知らせします。風は05度から8ノット、視程は10キロメートル、快晴です。気温は22度、露点は19度、気圧は30・05インチ、着陸滑走路は4、出発滑走路は4または8、着陸方法はILSアプローチか有視界進入です。インフォメーションBを受信したことをお知らせ下さい)
 ATISでクルーは空港の着陸状況を知る。

「これ、もう、カウアイ島が出てきましたよ」三宅機長がレーダースクリーンを指差して言った。
「もう、ホノルルまで238マイル…」
 まだ、闇の中に沈むカウアイ島がレーダーの中で緑色の島影を見せていた。
 カウアイ島はハワイ諸島の西に位置し、古来、ポリネシアン民族がタヒチ諸島からハワイへ移植したときも、この島を最初に訪れたという。ハワイの中でも最も自然が美しく、ポリネシアン文化の歴史が残る島である。
 三宅機長がインターホン電話でキャビンクルーに乗客の状況をたしかめて、着陸前の機長アナウンスを始めた。

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★「最後の飛行」挿入31

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ご搭乗の皆様、おはようございます。操縦席よりご案内申し上げます。どうも長いあいだご苦労さまでした。お疲れのことと思います。あと40分程でホノルル空港へ着陸いたします。ホノルル空港の天候は東よりの風が4メートル、晴れで素晴らしい良い天気です。地上の温度は現在、22度と報じられておりまして、若干涼しいようです。あと暫くでございます。どうぞ、ごゆっくりおくつろぎ下さい
 関西空港発の日本航空1092便にホノルル・センターが呼び掛ける。
ジャパンエア1092 ディセント パイロット ディクリッション メテンテイン フライトレベル 190」(日本航空1092便へ。あなたの判断で高度19000フィートまでの降下して下さい)トラック11を飛行した日本航空1092がハーレクイン機より先に下降許可が出た。
 日本航空1092が復誦すると、ホノルルセンターはハーレクイン機に下降の準備が出来ているかどうかを尋ねる。
ハーレクイン8673 ディセント パイロット ディスクリッション メインテイン 190」(ハーレクイン8673便へ。あなたの判断で19000フィートへ下降できますか?)
パイロット ディスクリッション 190 ハーレクイン8673
(19000フィートへ下降できます。ハーレクイン8673)
 19000フィートまでの降下許可が出ると操縦室は下降の準備に入る。
 スピーカーから、ハーレクイン8673のあとに関西空港を離陸したノースウエスト16便747が、やはり日本航空機し同じトラック11を飛行してホノルル管制エリアに入った交信が聞こえる。
グッドモーニング ホノルル ノースウエスト16 ユー アー 10メネツ トゥ ダンノ(DANNO) フライトレベル 370 スコーキング 2756
(ノースウエスト16便へ。グッドモーニング。こちらホノルルセンターです。ダンノ(DANNO)まであと10分、そのまま高度37000フィートを維持してください。レーダー認識番号は2756です)
 DANNOはカウアイ島の北東にある洋上通過点で、前述したようにトラック11のハワイ側の出口である。
 日本からパコッツ・ルートでホノルルへ飛来した航空機で日本航空92便や1092便、ノースウエスト16便などトラック11経由の場合は、ダンノからブック ブック8進入方式を、ハーレクイン8673やそれに続く全日空1056便などトラック12を経由した航空機は、サイバッドからキオラへダイレクトにアプローチさせる進入方式を、ホノルル管制はとっているのだ。

▼ホノルルILSアプローチRWY8Lと4R
ホノルルILSアプローチRWY8Lと4R
ホノルルILSアプローチRWY8Lと4R

はい。ランディング・ブリーフィング」と三宅機長は英語で着陸の打合せを始めた。
天候は、8ノットの微風、気温22度、気圧は30・05インチ、使用滑走路は多分、滑走路8L(レフト)、ディシジョン・アルティテュード(最終的に着陸するかどうか決める高度は)213フィート、タッチダウン13、もし、ミスアプローチをした場合、右旋回してホノルルエアポートから171度方向でアラナ(ALANA)へ向う。アラナまで13、9マイル飛び、アラナ上空で高度3000フィートで待機する。ABS(着陸時のオートブレーキ)はミディアムを使用。進入速度はプラス5ノットの147ノットでセット済み。オール OKだね
 三宅機長が確認するとダウニングとネイヤーが了解しましたとコールする。続いて機長は下降時の計器点検を指示した。
ディセント チェックリスト」(下降の計器点検を始めるよ)

▼ディセント・チェックリスト
ディセント・チェックリスト

 下降の計器点検が終わると、ノースウエスト機とホノルルセンターの交信が聞こえた。
ノースウエスト16 レーダーコンタクト 70マイル イースト オブ ダンノ(DANNO)クリア トゥ ホノルルエアポート ダイレクト ブック ブック8 アライバル メインテイン フライトレベル 370
(ノースウエスト16便へ。レーダーの視野に入りました。現在地点はダンノまで70マイル地点です。ホノルル空港へはブックブック8進入方式でアプローチ。高度は37000フィートを維持して下さい。)
OK ディレクト ブック ブック8 アライバル トゥ ホノルル ノースウエスト16 メインテイン 370」(OK。ホノルルまでブック ブック8進入方式。高度37000フイート。ノースウエスト16便)
オールモスト ストレート」(ほぼ、まっすぐだね)と三宅機長が後を振り向いて、「たあー」と右手を前方へ突出して微笑む。
 その手の先にはホノルル空港があるオアフ島が夜明けの薄青色の大気の中から、透し絵がにじみでるようにぼんやりと姿を見せ始めていた。
ホノルル グッドモーニング ジャパンエア84 フライトレベル 360
(ホノルル管制へ。おはようございます。日本航空84便です。現在、高度36000フィートで飛行中です)
 名古屋発のホノルル行き日本航空84便、B-747がホノルル管制エリアに入った。
ジャパンエア84 コール ミー 360?」(日本航空84便へ。36000フィートですか?)
ジャパンエア84 ラジャ
ジャパンエア84 スコーク2762」(日本航空84便へ。レーダー認識番号は2762です)
 高度36000フィートに注目してもらいたい。ハーレクイン機やノースウエスト機は37000フィートで飛行している。その差は1000フィート。
 三宅機長は1000フィートの高度差で飛行させているのが、前述したRVSM(リデュース・バーチカル・セパレーション・システム)による管制システムだと説明する。
 それにしても夜、日本の各地を出発して早朝にホノルルへ到着する航空機がいかに多いことか。ハワイが日本人にとってどれほど人気あるディスティネーションであるか、改めて痛感する。

 ハーレクインエアがハワイに頻繁にチャーター便を出していたころの話を三宅機長が語ってくれた。
「ホノルルではなく、ハワイ島のコナへ日本から直行便を飛ばしていたときね。コナに早朝、それもまだ、暗いうちに着くんですよ。その時間では空港の管制塔はまだ誰もいなくて滑走路のライトさえついていない。それでコナの近くまでくるとVHFのタワー周波数で無線機のマイクボタンをカチカチと5回プッシュするんですよ。すると自動的にランウェイライトが点灯するようになっている。のんびりしていますね。多分、今でもそうですよ。コナはね」

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★「最後の飛行」挿入32

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ジャパンエア1092 ディセント 8000 ホノルル アクティメーター イズ 30・05」(日本航空1092便へ。高度8000フィートまで降下を許可します。ホノルルの気圧は30・05インチです)
 日本航空1092が復誦する。
 現在地はPUPPIから99マイル地点。
OK リービング」(OK。高度を下げるよ)と、三宅機長がコールをした。高度計が37000フィートから、ゆっくりと数をへらし始めた。
 もう、夜が明けて水平線は鮮やかなオレンジ色に変わり、眼下にはカウアイ島が濃い緑の島肌が、薄青色の珊瑚礁に囲まれて灰色の海の上に軍艦のように浮かんで見える。
 ダウニングがマイクを取って、下降を開始したことを告げた。
ホノルル ハーレクイン8673 リービング 370 190
(ホノルルセンターへ。ハーレクイン8673便です。37000フィートを離れて19000フィートへ下降しています)
 着陸前のカンパニー交信をするために、ネイヤーがマイクで会社のハワイ運航セクション(コールサインはアロハディスパッチ)を呼んだ。
アロハ・ディスパッチ ドウ ユー リード ハーレクイン8673?
(アロハ・ディスパッチ こちらハーレクイン8673便です。聞こえますか?)
ラジャ ハーレクイン8673」(聞こえます。ハーレクイン8673)
グッドモーニング ハーレクイン8673 ウィルビー オン ブロック アット 1630 リクエスト ゲートプレイス?
(おはようございます。こちらハーレクイン8673。ブロックタイム(ゲート到着時間)は16時30分、ホノルル時間で朝、6時30分の予定です。現在の飛行は順調です。ゲートナンバーを教えてください)
ユア ゲート 24 バゲージクレイムナンバー イズ 4 ジスモーニング
(今朝のゲートは24番で手荷物の受け渡し台のナンバーは4です)
スポットナンバー 24 アンド バゲージクレイム 4
 指定されたスポット・ナンバーを聞いて三宅機長始めクルー全員が歓声をあげた。
24! ナイスプレイス
 24番スポットはホノルル空港の正面に位置するセントラルコンコースにあるスペシャルゲートのひとつで乗客にとって最高に便利なゲートである。普段はディリーでホノルルへ定期便を飛ばしている大手航空会社が使用している。日本エアシステムのハワイ初便はお祝いの意味をこめて隣の25スポットが用意されていた
 不定期なチャーターフライトの場合は、メインビルディングから遠く離れたスポットが割り当てられ、乗客はスポットからバス(このバスを”ウキウキ・バス”という)で到着口まで行かねばならない。
ノー ウキウキでしょう」とダウニングが笑った。今日はそのバスに乗らなくてすむのだ。ハーレクイン8673がホノルル到着に際してスポット24番へ駐機出来るのは特別な計らいであった。9年前に日本エアシステムのハワイ初便はお祝いの意味をこめて隣の25スポットが用意されていたそれ以来である。
 空港に頼んでこの特別な手配をしたのは、アロハ航空を定年で退社しハーレクインエア・ハワイアメリカ地区駐在責任者になったハワード・大下氏である。
 彼は三宅機長最後のフライトにあたって特別なスポットを用意し、翌日行われた三宅機長のラストフライトのパーティをセットするなど、ハワード氏は最高のもてなしで三宅機長を迎えたのだった。
 ホノルルセンターが無線で呼び掛けてきた。
ハーレクイン8673 ディセント メインテイン8000」(ハーレクイン8673便へ。8000フィートまでの下降を許可します)
 いよいよハーレクイン8673便はホノルル空港への下降に移った。
 まだ太陽は水平線上には昇ってはいないが、幾分空は明さを増し、刻々と高度を下げる機窓には朝靄の中に紺色の海が美しい表情を見せ始めた。
 客室では朝食のサービスも終わり、ホノルル着陸の準備でキャビン・クルーは多忙であった。この便のチーフパーサーは宮島智美さん。キャセイ航空からハーレクインエアに移った飛行時間約7000時間のベテランパーサーである。
 後に彼女がホノルル便の客室の状況について会社に報告したレポートを紹介しよう。

 PAX(乗客)の状況。KIX(関西空港)出発が遅い時間であったため、機内では皆様静かにお過ごしでした。いつになくお年寄やお子様が多い便で、客室乗務員は一時も気を緩めることができなかったのですが、お客様自身がとてもマナーを弁え、多少旅慣れていらっしゃる方もいらっしゃった為、FLIGHTはスムースにOPERATE出来ました。
 CP(キャビンパーサー)や機長ご自身のANN(アナウンス)で、当該便が三宅機長のLAST FLIGHTということをお知らせしましたので、サービス中や降機中に興味を持ってお尋ねになるお客様が多かったように記憶しています。
 三宅CAPのお母様にほんの少しですが、操縦室の中の様子をお見せしたところ、とても嬉しそうに頷いて微笑んでいらっしゃったのが印象的でした。
 また、PREMIUM CLASSにいらっしゃった高齢の歩行困難PAXの降機(車椅子手配に手間取ったため)が遅れている間、失礼かと思ったのですが三宅機長を囲んでささやかなお疲れさま会?を機内で行ったのですが、そのお客様もニコニコしながら一緒に「お疲れさまでした」と呟いていらっしゃいました。
 HLQ(ハーレクインエア)ならではのアットホームな雰囲気を垣間見て頂けたのでは?

宮島智美

 現在、高度5000フィート。
 早朝の薄明かりの中に、ハワイ・オアフ島が近づいてくる。
 左手にマカハ、その少し右手にハーバーズ岬とパールハーバー、真正面にホノルル国際空港。その右手にワイキキの街とシルエットになったダイヤモンド・ヘッドが夜明け前の薄い暗闇の中に灰色に浮き上がって見えてくる。
 三宅機長は少しづつ明けゆく空に視線を投げて、胸に去来する想いを噛み締めながら、時の流れの速さを改めて痛感するのだった。
 彼は日本エアシステム待望の成田ーホノルル線定期便の第一便の機長であった。 
 成田空港での晴れやかなハワイ定期便就航式、新しい飛行機、記念すべき初便に招待された各界の有名人、報道関係、社長始め会社の役員、シャンペン、花束、笑顔…
 あれからもう9年の歳月が流れた。そして今、現役最後のフライトを初便で飛んだ同じホノルル便で終わろうとしている…。
 ぼんやりと目の前の風景がかすんだ。胸にこみ上げる想いが不覚にも予期せぬ涙となってメガネを曇らせている。三宅機長はメガネを外してポケットからハンカチを取り出してそっと拭った。そのとき右肩に暖かい人の手を感じた。振り返るとネイヤー機関士が三宅機長の目を見ながら黙って頷いていた。副操縦士役のダウニングは機長と視線を合わさないように右窓から外をながめている。その目にも涙がにじんでいた。
「ハーレクイン8673ヘビィ ヘディング060 ILSアプローチ ランウェイ4ライト」(ハーレクイン8673便ヘ。そのまま機首方向060度で滑走路4RへILS進入をして下さい)
 ホノルル空港の進入管制が呼びかけてきた。
 飛行時間一万九千五百時間、三十数余年のパイロット人生の想いを胸に、
 三宅嘉光機長は、彼が最も愛した島ハワイの、ホノルル空港へ向けて最後のランディングを始めるのだった。

武田一男

ハーレクインエア8673便 クルーリスト

  • PIC:三宅 嘉光
  • FO:CECIL DOWING
  • FE:ANAHN NAIR
  • CP:宮島 智美
  • AP:吉田 幸
  • 2L:松山 妙子
  • 1R:中山 志史
  • 2R:長尾 華奈
  • 3L:久保川 晶子
  • 3R:渡辺 論理子
  • 4LA    嶋田 裕子
  • 4R:比良 亜希子

ハーレクインエア8673便 全飛行ブラン

▼ハーレクインの全飛行プラン
ハーレクインの全飛行プラン

▼太平洋からハワイまでのフライトログ
太平洋からハワイまでのフライトログ

▼飛行地図と飛行プランのナビゲーション・ログ
飛行地図と飛行プランのナビゲーション・ログ

あとがき

 最終回までご愛読を頂き深く感謝申し上げます。この作品は「ラストフライト」というタイトルで数年前、CDブックとして発売しましたが、その折、ある読者に「情報が多すぎて何がメインなのかわからない」というきびしいご指摘を賜りました。それでそのご指摘をふまえて、余分な情報を大幅にカットし、「音」も必要な部分のみ挿入することで全面的に再編集し、主人公の三宅機長を中心としたドキュメンタリーとその背景にある太平洋航路の開発に従事した人達の航空史をまじえた作品に修正して、あらためてこのブログで公開させて頂きました。僕自身の中では結果的に”とてもすっきり”して納得がいくものに仕上がったつもりです。
今年の末には僕の他の航空ドキュメンタリーと一緒にこの作品もiPadなど「電子書籍」として発売になる予定です。PRになりますが、もしご興味のある方はぜひ再読して下さい。
それから、お詫びですが、取材の日、このハーレクイン機がホノルルへ向かって高度を下げ始めたとき、突然、収録していた録音機が予備をふくめて故障するという不幸なアキシデントにみまわれました。それでホノルル着陸の「音」が一切ありません。もし、それを期待されていた読者の方がいらっしゃいましたら、ここで深く、お詫びとご報告を申し上げます。すみませんでした。
最後にもう一度、読者の皆様に最終回までおつきあい頂いたことに感謝申し上げ”あとがき”と致します。ありがとうございました。

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第14回 サンフランシスコ管制へ

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 ハーレクイン8673は日本の管制空域とアメリカ合衆国の空域の分岐点、空の国境FIRを越えてサンフランシスコのオークランド管制がコントロールするエリアに入った。
 ハーレクイン機より北のトラック11を飛行している関西空港発ホノルル行き日本航空1092が、HFでサンフランシスコ・オークランド管制センターを呼んでいる。

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★「最後の飛行」挿入24

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サンフランシスコ ジャパンエア1092 ポジション オン 46
(サンフランシスコ管制へ。こちら日本航空1092便です。位置報告です。周波数4666Hzで交信しています)
・・・・・・・・ゴーアヘッド
 約6000キロ隔てたサンフランシスコATCの声は聞き取りにくい。
ジャパンエア1092 オーバー FIR アット 1221 フライト レベル 390 33ノース 170イースト アット 1246 30ノース180イースト ネクスト リクエスト セルコールチェック デルタ(D)ゴルフ(G)アルファ(A)エコー(E) ゴーアヘッド
(日本航空1092便です。現在(ウェイポイント)FIRを12時21分(ホノルル時間で午前2時21分)に通過し、東経33度、北緯170度に向かって高度39000フィートで飛行中で12時46分に到達予定です。そして東経30度、北緯180度に向かいます。セルコールチェックをお願いします。サインはDGAEです。どうぞ)
 航空機から管制への位置報告は義務通報点、すなはち、管制に指定されたウェイポイントを通過したときにしなければならない。その内容は航空機名とナンバー。標準時でポジションの通過時刻、現在の飛行高度、次に向かうウェイポイントの予定通過時刻、その次のウェイポイント、残燃料、外気温、風の状態の順に報告する。それと管制空域が変ったのでセルコールのチェックもする。
「・・・・・・・」とサンフランシスコの管制官が確認して日本航空1092を呼ぶと、ピーポーとセルコールの音が響いた。
ジャパンエア1092 セルコールチェック OK ジス イズ プライマリー セコンドリー 6532
(日本航空1092便です。セルコールチェック OKです。現在使用している周波数が主で、副周波数は6532Hzです。以上)

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★「最後の飛行」挿入25

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 日本航空の交信が終わるとすぐにハーレクイン機がサンフランシスコ・オークランド管制官に位置報告を始めた。
サンフランシスコ ハーレクイン8673 ポジション
(サンフランシスコ管制へ。こちらハーレクイン8673便です。位置報告をします)
ハーレクイン8673 ゴーアヘッド」(ハーレクイン8673便へ。どうぞ)
ハーレクイン8673 オーバー ザ FIR アット 1222 フライトレベル370 エスティメイテング 31ノース170イースト 1249 フォーロイングポイント 28ノース180イースト リメイニングフュエル イズ 98.0 テンパラチャー マイナス50 ウィンド275/120 ゴーアヘッド
(ハーレクイン8673便です。FIRを12時22分、標準時に通過し高度37000フィートで北緯31度、東経170度に12時49分に。そして次のウェイポイント北緯28度、東経180度に向かいます。現在残燃料は98000ポンド、外気温度はマイナス50度、風は磁方位275度から120ノット吹いています)
ハーレクイン8673。・・・・6532。・・・セルコール プリーズ
 早口の英語でサンフランシスコ管制がハーレクイン機の周波数の確認とセルコールサインを要求した。
セルコール イズ ジュリエット(J)パパ(P)デルタ(D)ケベック(Q) ハーレクイン8673
 セルコールはJPDQです。とダウニングが答えると、再びピポーと音がして(コックピットの中では「チンチン」とベルが鳴って)セルコールチエックが終わった。
セルコール チェック イズ オーケー ハーレクイン8673
サンフランシスコ ラジャ」(サンフランシスコ。了解)

 太平洋洋上、東経165度にあるウェイポイントのFIRは、日米両国のイミグレーションのようなもので、厳密に言えばこの交信でハーレクイン8673便は、飛行プラン通りにアメリカ合衆国への飛行を認められたということになる。
 これがもし事前に飛行プランを提出していないフライトであれば、飛行機の所属国や航空会社をアメリカ側が確認するまで現在地で空中待機をさせられるか、あえてそのまま飛行を続行すれば戦闘機が出動する事態にもなりかねない。
 友好国といえど空の国境通過は細心の配慮が払われているのだ。
 ここで関西空港を前後して離陸し、ホノルルへ向かう二つの航空機(ハーレクイン8673と日本航空1092)の現在の位置関係をサンフランシスコ管制と交わした交信から推察すると、次のようになる。

 ハーレクイン8673、日本航空1092の二つの位置は、ともにFIR、すなはち日本とアメリカの管制空域の分岐点を飛行している。
ハーレクイン8673便は、北緯32度06分 ウェイポイント14。東経165度
日本航空1092便は、北緯34度06分、東経165度

 ハーレクイン機がトラック12を日本航空機がトラック11を並行して飛行しているので北緯の差が2度あり、日本航空機の方がその分、北に位置している。しかし経度はともに東経165度通過を報告しているので現時点ではほぼ並んで飛行しているが、通過時間を見ればその位置がもっ       と詳細になる。

FIR通過時間は、ハーレクインが・・・12時22分(標準時)
        日本航空が ・・・・ 12時21分。すなはち、1分だけ日本航空の方が先を飛行している。
飛行高度は、ハーレクイン機が・・・37000フィート。
        日本航空機が・・・39000フィート。
ともに次の位置報告義務通過点、北緯170度の予定通過時刻は、
      ハーレクインが・・・・12時49分。
        日本航空が・・・・12時46分。

 それで日本航空の方が3分早く到着することになる。実際、ホノルル空港へはハーレクイン機のすぐ前を日本航空1092が先に着陸している。
 日本航空がハーレクインを追い越したわけであるが、その理由は日本航空機はB-747であること、2000フィート高い高度を飛行していること、その他両機の重量等の違いが考えられる。

ハーレクイン8673 日付変更線へ

 操縦室の正面に月が登った。
「もう、(離陸して)三時間過ぎましたね。あと(ホノルルまで)三時間四十分。こうなったら宇宙船みたいでしょう。ね、びくともしないね、この飛行機は・・・」
 三宅機長が愛機DC-10に話しかけるようにしみじみと言った。
 日付変更線(インターナショナル・ディライン)は、東(西)経180度線にあり、あと一時間の飛行で日付変更線を過ぎる。
「ここでエンジンが一つ止まっても、ホノルルまで大丈夫ですよ。二つ止まるとホノルルへは行けないんでね、ミッドウェイに降りるんですよ。緊急(の場合)にね」
 洋上飛行には最大進出地点、イクイバレント タイム オブ ポイント(ETP)と呼ばれる地点がある。俗に言うノーリターン・ポイントだ。これはエンジンが故障した場合、目的地への航行を継続するか、出発地へ引き返すかの判断の目安となる地点のことで、次のように飛行プランに記入されている。
 ETP1 RJAA/PHNL N3132・3 E16741・8 2・52・・・

 関西空港(RJAA)とホノルル空港(PHNL)間に於いて今回の飛行のETPは、エンジンが一つ故障した場合(ETP1)は、N3132・3(北緯31度32・3分)、E16741・8(東経167度41・8分)の位置である。
 そこまでの飛行時間は2・52、すなはち2時間52分である。
 もしエンジントラブルが起こり、それがETP以前ならそのときは日本へ引き返すが、それ以降ならそのままホノルルまで飛行を続行する。
 このETPはかならずしも日本とハワイの距離的な中間点ではない。なぜならそのときの風に影響されてETPはフライトごとに変化するからだ。今日は西風が強いのでイクイバレント タイム オブポイントが日本寄りになっているのだ。
 三宅機長は、現在、ハーレクイン機はETPを過ぎているので、この時点でエンジンが故障した場合はホノルルへ向かうか、緊急にミドウェイに降りるかという対処を説明しているのだった。
 東京ーホノルル間の洋上の緊急着陸地点はミッドウェイだ。
 ミッドウェイは北緯28度12・2度、西経177度22・8分にある島で日付変更線のすぐ東にあり、前述のようにパンアメリカンのクリッパーもミッドウェイで給油しており、現在はアメリカ海軍の基地になっている。
 ハーレクイン8673が飛ぶルート、房総半島東のメイソンからホノルルへのトラック12はミッドウェイのすぐ南を通っている。
「30年前ぐらいはこのあたりをDC-6BとかDC-7が飛んでいたのかな・・」と三宅機長が昔の飛行を追想しながらコーヒーを飲んだ。
「まあ。パイロット泣かせですよ。(飛行中に)フラップを上げたりしめたりしてね。シリンダー温度を調整して、それから燃料の流入を調整して飛んでいくわけですよ。それでもっと振動はあるしね」
 DC-10の宇宙船のようなクルージングに比べて、少しの気も抜けなかった昔のダグラス6Bや7Cに想いを馳せて、三宅機長は話した。
「私もコンベア220のときにそんな飛行機(プロペラ旅客機)に乗ってね・・・」と遠い眼差しで月の光に照らされた夜空を眺めた。
 月は明るさを増して、高高度までその頂きを伸ばした積乱雲の嶺々を青白く照らしている。
 こんな夜間飛行、しかも長距離のコックピットの中は、三宅機長を追憶の気持に浸らせるに充分な魔法を持っている。
 闇の中に響くエンジンの音。
 途切れ途切れに空電が混じった飛行機の交信。
 照明を落とした操縦室の計器類が放つ淡い光の数々。
 星の光、そして今は蒼い月の光・・・。

 夜間飛行は外界の音がすべて闇につつまれて、操縦室は冥想におあつらえむきの気持のよい場所になる、とパイロットで詩人のアーネスト・ガンはいう。(註 小説家でもあり、ジョン・ウエイン主演の映画「紅の翼ハイ アンド ザ マイティ」の原作者)

   「晴れた夜に星が散りしき月の光があたりを青くつつんでいるなら、パ
   イロットたちは操縦室のすべての灯を消して、完全な静寂のなかに身を沈
   め、できるかぎり長く、世界から切り離されたこの独特の平安を楽しむの
   である。・・・夜のこの呪術にかからないパイロットはまずいない」
          「運命とのたたかい アーネスト・ガン 小野寺健訳 筑摩書房」

 ハーレクイン8673便は月の光が輝く高度37000フィートの空の高みを13時48分、日付変更線を過ぎた。
 このときの飛行データは次のように飛行プランに記載されている。

▼日付変更線の飛行状況
日付変更線の飛行状況

 TC(飛行方位)は109度。
 MC(磁方位)は102度。
 DCT(ダイレクトコース)でFL(フライトレベル、飛行高度)は37000フィート。
 PSN(ポジション)は28180、すなはち北緯28度西経180度。
 16は関西空港からホノルル空港までの予定通過点の16番目。
 DST(ディスタンス、ひとつ前のウェイポイント、この場合NO15からの距離)は
554マイル。RQD(リクアイアード)は
 ZTは前のウエイポイントNO15からの所要時間で60分。
 GS(グランドスピード)は速度で時速555ノット。時速約1000キロ。
 ETOは予定通過時刻で、13時50分。
 ATOはアクチャルタイムで実際に28180ポイント、日付変更線を越えたのが
13時48分。予定より2分早い。
 CUMは離陸してからここまで(日付変更線)までの飛行時間の総計で、4時間04分。 WIND(風)とウィンドファクター(W/F)は、コンピューター予測では、30077、すなはち300度方向(北北東)から77ノットだが、実際は手文字で書かれた数字、320度から70ノット吹いており、斜め背後からの追い風である。
 TEMP(外気温度)は同じく手文字でマイナス48度。
 右端にREMという項目がある。フュエルリメイン(残燃料)のことである。
 ウエイポイントNO12(メイソン)では116200、11万6200ポンドというコンピューターの予想に対して、実際は手書き文字の118、すなはち11万8000ポンド燃料を残している。残燃料を管制官に報告するのは目的地まで飛行可能がどうかを知る安全のためでもあるが、もうひとつ、航空機の燃料の凍結の問題がある。燃料が上空の気温の低下で凍結すればエンジンはすぐに止まる。一般的には航空機の燃料が凍結するのはマイナス40度前後という。現在ハーレクイン機は先ほどのレポートによれば外気温はマイナス50度前後である。すぐにも凍りそうだが、空気抵抗による摩擦熱が航空機の機体の表面温度を上げる。現在のスピードはおよそマック0,84ぐらい。摩擦熱は約30度近くになる。それで外気温から機体表面の熱を差し引くと、マイナス20度。これだと凍結までまだ余裕がある。
 さて、三宅機長はホノルルまでのルートを北寄りのトラック11より、南寄りのトラック12を選んだ。
 その判断の正しさを証明するように28180(北緯28度、西経180度)の日付変更線通過時では、残燃料はコンピューター予測7万1400ポンドであるがアクチュアルでは7万5600ポンド、すなはち4200ポンド少なく消費している。
「民間航空である以上、私達は安全運航に次いで如何に経済的に飛ぶかを考えるのが、コックピットクルーの義務ですよ」と、三宅機長は語る。

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★「最後の飛行」挿入26

※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

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 青白い光の中をハーレクインは一路東に飛ぶ。
 サンテクジュベリが著作「夜間飛行」のなかで「夜のしじまのなんと饒舌なことか・・」と表現しているが、闇をぬって太平洋洋上を飛翔する飛行機の交信が絶えまなく饒舌に続いている。しばらく、音楽と交信で「夜間飛行」の雰囲気をお楽しみ下さい。

 ハーレクイン8673の後方、同じトラック12を飛行している全日空の名古屋空港を午後7時30分に出発したホノルル空港行きのB-747が、サンフランシスコ管制にポジションレポートを始めた。

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★「最後の飛行」挿入27

※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

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サンフランシスコ オールニッポン1056 ポジション オン 46
(サンフランシスコ管制へ。こちら全日空1056便です。位置報告をします。周波数は4666Hzです)
オールニッポン1056 ゴーアヘッド
ポジション オールニッポン1056 31ノース170イースト 1331 フライトレベル370 28ノース180 1429 25ノース170ウエスト ネクスト リメイニング 118.0 マイナス51 290ディグリー110ノット コードゼロ セルコール アルファ(A)チャーリー(C)パパ(P)ロミオ(R) オーバー
(位置報告をします。全日空1056便です。現在北緯31度、東経170度を13時31分に通過。高度37000フィートで飛行しています。北緯28度、日付変更線180度には14時29分に到達予定、その次は北緯25度、西経170度に向かいます。
残燃料は11万8000ポンド、外気温はマイナス51度、290度方向から110ノットの風、タービュランスコードゼロ、セルコールサインはACPRです。どうぞ)
 コードゼロとはタービランス(乱気流)の強度のことで、コードゼロはタービランスが全くないという意味で、ややあるというのはコード1、飛行不可能なほど乱気流に見舞われているときはコード5と、5段階に分けて乱気流の強さを報告するようにきめられている。
オールニッポン1056 サンフランシスコ ラジャ セルコールチェック
(全日空1056便へ。サンフランシスコ了解。セルコールチェックをします)
 ピー・・・ポ、ピー・・・と音が響く。
オールニッポン1056 ネガティブ セルコール リクエスト フライオン2998」(こちら全日空1056です。セルコールがつながりません。周波数を2998Hzに変更してもいいですか?)
 サンフランシスコ管制は了承して交信が終わった。

この空域のHF周波数は、
2998Hzと4666Hz
6532Hzと8903Hz
11384Hzと13300Hz
17904Hzと21985Hz

 それらの組み合わせがプライマリー(主周波数)とセコンドリー(副周波数)で使用されている。全日空1056便はセルコールの不具合によりプライマリーの4666Hzから副周波数の2998Hzに変更したのである。
 全日空1056便の現在地は北緯31度、東経170度であるから、飛行プランのPN(ポジション)は31170の位置にいる。
 この位置をハーレクイン機は(ATO1248)12時48分に通過している。全日空1056は交信の中で13時31分通過を報告しているから、ハーレクインの後方43分の位置を飛行していることになる。
 全日空1056便に続いて、ハーレクイン8673がポジションレポートを始めた。
 ダウニングに代わって、ネイヤー航空機関士がマイクを取ってサンフランシスコ管制を呼んだ。

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★「最後の飛行」挿入28

※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

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サンフランシスコ ハーレクイン8673 ポジション
サンフランシスコ ゴーアヘッド
ハーレクイン8673 ポジション 25ノース170ウエスト アット 1452 フライトレベル370 エスティメイテング サイバッド アット 1544 サウスカウアイ ネクスト リメイニング フュエル 59.2 テンパラチャー マイナス49 スポット 265 ダイゴナル 35 ゴーアヘッド
(サンフランシスコ管制へ。こちらハーレクイン8673便です。北緯25度西経170度を14時52分に通過しました。次のウェイポイント、サイバァッド(SYVAD)には15時44分に到達する予定です。そして次のカウアイ島の南のVORに向かいます。残燃料は5万9200ポンド。外気温はマイナス49度で風は265度から35ノットを計測しました。どうぞ)
 サイバッド(SYVAD)とは、東京ーホノルル間の飛行ルート、トラック12のハワイ側の出口でハワイ諸島の東にあるカウアイ島から約200マイルの位置にある。
ハーレクイン8673 サンフランシスコ ラジャ 10ミニッツ ビフォー フロム サイバッド ホノルル119.9・・ゴーアヘッド
(ハーレクイン8673へ。サンフランシスコ了解。サイバッドへ到達する10分前にホノルル管制VHF119.9メガヘルツへコンタクトして下さい)
ラジャ 10ミニッツ ビフォー フロム サイバッド ホノルル119.9 ハーレクイン8673
 まもなくサンフランシスコ管制からホノルル・センターへ管制エリアが移る。ネイヤーはサンフランシスコ管制に復誦の交信をし、VHF無線周波数を119.9にセットする。 いよいよ、ハワイが近づいてきた。

つづく

<追伸>
「最後の飛行」は次回で最終回となります。ながらくのご愛読に深く感謝します。
それで最後に読者の皆様にお願いがあります。この竜子さんのブログ「週刊 飛行機ダイスキ」はリリース以来、現在、最低のランキング位置にあります。とてもいいブログなのでそれが残念でたまらないのです。それで皆様にぜひご協力を頂きたいと思っています。
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武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第13回 太平洋航路開発、日本航空の挑戦

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太平洋航路開発、日本航空の挑戦(太平洋の空の歴史5)

 銀座五丁目にある不二家ビルの七階に日本航空文化事業センターがあった。そこへ太平洋戦争後の民間航空の話を取材するためにコーディネーターの吉田さんを尋ねた。
 彼は日本航空が戦後最初に太平洋横断の定期便を就航させた頃、運航管理に携わったディスパッチャーである。
 もう七十四才ということだったが、七階の受付に姿を見せた吉田さんは驚くほど若々しかった。六十代といわれても納得しただろう。
 三宅機長もそうだった。最初に羽田空港のハーレクイン東京事務所でお目にかかったとき、その精悍な風貌と機敏な身のこなしは定年を迎えてラストフライトをする年齢にはとても見えなかった。
 このふたりの共通点は「空」が大好きなことである。そして「空」に夢を描いたことである。
 吉田さんは現役引退後十数余年、未だに「空」に関わりを持っていたいから、と週一回、日本航空文化事業センターでコーディネートの仕事をされているという。無邪気とも言える空への憧れは人間を不老長寿にする何かがあるのだろうか。
   「僕が日本航空に入社したのは昭和26年の10月の末です。
    丁度、国内線が飛び初めて五日後でした」
 終戦後、日本の民間航空事業はアメリカ軍の手により跡形もなく解体され、わずかに残った航空機も完全に破壊された。そして6年の歳月の後、吉田さんが入社した昭和26年(1951年、サンフランシスコ平和条約が締結された年)の八月一日に、やっと日本航空株式会社(現日本航空の前身)が設立さて民間航空再開の第一歩が始まったのである。
 吉田さんは陸軍の航空士官学校の在学中に終戦を迎える。
 飛行機に乗りたい一心で日本航空に入社するが、飛行時間が少なかったことから希望がかなわず、運航管理でディスパッチャーを目指す。当時は戦前の航空会社、大日本航空や満州航空、それに陸軍海軍で数千時間の飛行経験があるベテランパイロット逹が今や遅しと民間航空の再開を待ち受けていたからである。
   「入社してから飛べないのならせめて飛行機の音の聞こえるところで仕事をしたいと
   羽田空港に10年いました。それで運航管理者の道に進んだわけですよ」
 吉田さんはディスパッチャーの草分けである。ディスパッチャーのライセンスナンバー23号。すなはち日本人として23番目にディスパッチャーになった古参の運航管理者である。
 23番という番号は「今や伝説的な古い番号ですよ。(日本民間航空の歴史で)吉田さんは貴重な存在の方ですね」と、ディスパッチャーであり、現ハーレクインエアの東京運航事務所の末永所長はいう。
 そんな吉田さんも当時は全く新しいアメリカ方式の運航管理技術を英語で学ばなければならない苦労の時代であった。
   「当時、日本では運航管理者の試験制度が確立していなくて、
   アメリカのディスパッチャーライセンスを取得して
   それを日本の航空局で認定してライセンスを出していた頃でしたからね」
 日本航空待望の日本とサンフランシスコ間の太平洋路線は、吉田さんが入社して三年後の昭和29年に初就航するが、終戦からそれまでの間は太平洋路線には戦勝国のアメリカとカナダの航空会社が独占的に就航していた。
 占領下の日本に昭和22年(1947年)7月、ノースウエスト航空がニューヨークからアンカレッジ、アリューシャン列島のコールドベイ、セミヤで途中給油して東京、マニラに定期便を就航させ、続いて8月にはパンアメリカン航空がサンフランシスコからホノルルとウェーキ島経由で路線を開設し、その後、カナディアンパシフィック航空がバンクーバーからアリューシャン列島ルートで東京経由、香港までの定期便を就航させた。
 そして日本航空が就航を開始した昭和29年(1954年)になると、パンアメリカンが週6便。ノースウエスト航空が週3便。カナディアンパシフィックが週6便(そのうち4便は香港まで)に増便していた。
 またその当時、日本(東京)に乗り入れる外国の航空会社は、ノースウエスト、パンアメリカン、BOACイギリス航空、カナディアンパシフィック、カンタス航空、フィリピン航空、タイ航空、シビルエアトランスポート中国、KLMオランダ航空、SASスカンジナビア航空、エールフランスなど第二次大戦戦勝国の11社に及び、当時日本からの海外旅行旅客数は外国人を含めて年間約8万6000人だったという。
 そんな状況の中で日本航空の太平洋線の初便は、昭和29年2月2日に東京羽田空港を離陸して、ウェーキ島(給油)、ホノルル、サンフランシスコへ向けて飛行を開始したのである。
 使用機種はダグラスDC-6B。4発のプロペラ旅客機「シティ オブ トウキョウ」号で、2名の機長と副操縦士、航空機関士、航空士の各1名はすべてアメリカ人で、日本人は航空機関士と航空士各1名、客室はスチュワード2名とスチュワーデス3名の計7名が乗員に選ばれている(太平洋線ですべて日本人クルーで運航したのは4年後の昭和33年4月1日であった)。

▼ダグラス6B
ダグラス6B

 初便の有償乗客はわずか5名で、乗客より乗員のほうが多いフライトであったが、そのフライトはナショナルフラッグ(国旗を翼につけた)の第一便として新聞の見出しになり日航関係者はむろん日本国民に大いなる希望ト夢を与えたという。
 その年はビキニ環礁での原爆実験により第五福竜丸が被爆し、力道山の空手チョップがブームを巻き起こしていた年である。
 日本航空は発足当初から一年間は運航をノースウエスト航空に委託していたので、機長と副操縦士はすべてアメリカ人であった。その間、戦前、戦中に数千時間の飛行時間を持つ日本人のベテランパイロットも、まず客室乗務員パーサーとして添乗して「盗み聞き、盗み見て」アメリカ方式の運航を学び、慣れ航空技術を慣熟していったのである。
 自主運航を始めてからも、サンフランシスコのオークランドにあるトランス・オーシャン航空とアメリカ人コックピット・クルーを派遣する契約をしていたので、日本人機長を育成するまでは、アメリカ人パイロットが”我もの顔”に幅をきかせていた。
 戦勝国アメリカと敗戦国の日本の差は、当時のパイロット養成にも大きな隔たりとして立ちはだかって、当時の日本航空の社員とっては屈辱的な毎日であったという。
 そのころアメリカ人の月給は1000ドル。1ドル=360円レートだったので日本円にすれば約36万円。日本航空の社員の一ケ月平均給与が約8000円だったので、アメリカ人機長の収入は日本人社員の45名分に相当した。
 しかも日本人機長が一人誕生すると、必然的にアメリカ人機長が一人解雇されることになるので、日本人は副操縦士まではなれても、なかなか機長昇格は困難であった。
 日本航空第二期の機長、水間博志さんはその著作「おおぞらの飛翔(共同通信社)」の中で、当時の日本航空は「日航米国株式会社」だったとその様子を述懐している。

「機長になるには彼、ターナー天皇(註:当時のアメリカ人の最高運航責任者、キャプテン・ターナー)の厳重なフライトチェックを受けなければならないからだ。相手は伝家の宝刀を持った権力者である。ちょっとでも不都合なことがあったり、意見が衝突したり、機嫌を損なうことをしたら、すぐ、「フェール(不合格)」の烙印を押されるのだ。・・・超ベテランの古参パイロットたちは、技術的には修得しても、チェックですぐ「ケチ」をつけられてしまうのだ。このころはなんでも米人優先だから「日航米国株式会社」と呼ばれていた」

おおぞらの飛翔 水間博志著 共同通信社)

 しかし空に夢を托し、日本人の手による完全な自主運航を熱望していた当時の日本航空の社員一人一人にとっては、その敗戦国の屈辱が次なる発展への大きなエネルギーになったのも事実である。

「アメリカ人に負けずに自分たちの手で一日も早く自主運航をしょうという意欲がみなぎっていた時代でした。みんな目をキラキラさせて仕事していましたね」

 そこでひと息入れてお茶を飲んだ吉田さんが、そうだ、羽田ーホノルル間の飛行でおもしろいフライトがあった、と日本航空ダグラス6Bが、羽田空港-ホノルル間をノンストップで飛行した話を披露してくれた。

「とても印象にのこっているのですが、6Bの時代に一回だけ東京ーホノルルを直行したことがあるんですよ」
 その直行便は吉田さんにとっての忘れられない思い出になった。

 東京ーホノルル間の区間距離は約6165キロ。ダグラス6Bの航行距離は約4000キロ。DC-6Bのキャバシティを2000キロ以上も超えていた。だから、通常は太平洋上の島ウェーキ島で途中給油をするのだが、直行便も余裕はないが、しかしやりようによっては可能な範囲であると考えていた日本航空の運航スタッフは密かに東京とホノルル間の直行フライトを行うチャンスを伺っていたという。
 吉田さんは言う。

「飛行距離で重要なことは最短時間コースです。すなはち、タイム・フロント・メソッドなのです。エンジンの燃料消費は出力と時間がファクターであり、距離は結果です。もし、最短距離を飛ぶのなら大圏コースを飛べばいい」

 すなはち、当時の日本航空のスタッフは燃費の良い燃料を工夫し、気象で最高の追い風を受ければDC-6Bはキャパシティを超えて最短時間コースで飛行可能と考えていたのだ。また、現在、自動車業界で環境問題のために作られているスーパーリーンとよばれる超希薄な状態にした燃費効率の良い燃料の開発に、その頃から日本航空のスタッフはたずさわり、その燃料のテストのためにも、ぜひ、DC-6Bによるホノルル・ダイレクト・フライトを実施したかったのである。
 そのチャンスは昭和32年(1957年)のチャーターフライトというかたちで訪れる。
 そのときのクルーは当時、チーフ・パイロットだったターナー機長と日本人の長野英麿機長、杉山益雄機長、日本人の藤井、勝野航空士と航空機関士はヘンダーソンと五味雄二郎の計7名であった。

 長野英麿機長は日本航空の第一期の機長で、杉山益雄機長は第二期、藤井航空士は昭和29年のサンフランシスコ初便に搭乗した日本航空の草創期から航法、通信業務に取り組んだチーフナビゲーター、勝野航空士はこの直行便のプランニングをした人で、パフォーマンスチャートなど運航のシステム作りをした航法のベテラン、五味航空機関士は日本人最初のフライトエンジニアだった。
 この直行フライトは当時アメリカに「追いつけ追い越せ」という熱意に燃えた日本航空の運航スタッフには日頃の努力の成果を試す絶好の機会でもあった。
 だが、東京ーホノルルをダグラス6Bを使ってダイレクトにフライトするということは、DC-6Bがダグラス長距離旅客機の傑作機として評判が高かったものの、テストフライトならまだしも、乗客を搭乗させてのフライトであるので、かなりのリスクがあるアドベンチャーであった。
 そのころSASスカンジナビア航空では、この飛行機でコペンハーゲンとロスアンジェル間のポーラルートを開設して話題を呼んでいた。(その初飛行は1952年11月19日)だが、ポーラルートは直接、コペンハーゲンからロスアンジェルに無着陸で飛行するのではなく、途中、アイスランドのレイキャビックと北米大陸のギャンダーで給油して飛行するものであった。このポーラルートではレイキャビックとギャンダー区間の洋上飛行距離約2615キロが最も長かったが、それでも東京からホノルルまでの長距離洋上飛行にははるかに及ばなかった。
 問題は6Bで東京ーホノルル間を無着陸で飛行するには、前述のように「最短時間コース」をフライト出来るかどうかにかかっていた。もし、航法の狂いや風に流されて大回りをすることにでもなれば、6Bの航行距離を上回ってしまう。ホノルルは太平洋のど真中である。代替空港としてはミッドウェイ島まで引き返すしかない。
 この冒険的な飛行を乗客を乗せた安全な飛行レベルにするためには、新しい燃料の開発と共にナビゲーションの技術と気象予報を含めた正確な航法予測が必要だったのである。

 それを日本航空の運航スタッフの情熱が可能にした。
 まず、当時のナビゲーションについていえば、現在のようにコンピューター航法ではなく、電波によるロラン航法や推測航法が主だった。それらはきめ細かな手作業が必要であり、むしろアメリカ人より日本人向きで、またたく間に日本人のナビゲーション技術はアメリカ人の技量を追い越してしまった。
 例えば、ナビゲーションの基本になる太平洋の航法地図を見ても当時の日本航空運航スタッフがどれだけ熱意をもって仕事をしていたかがわかる。
 現在はジェプソン(JEPPESEN)というアメリカの会社が製作した航空地図を世界の民間航空が使用しているが、そのころは太平洋航路の地図はアメリカ軍の地図しかなかった。それで日本航空の運航スタッフは、より正確で使いやすい独自の太平洋航路図の製作に着手してそれを完成していた。

「私達が独自で製作した航法地図があるのですが、これは良く出来ていましてね。そのころ日本に定期便を持っていたあのパンアメリカン航空が、その地図をぜひ譲って欲しいと申し出があり、事実、数百部を購入した筈ですよ。嬉しかったな」

 また、当時、日本航空運航部には気象課というセクションがあった。
 気象課では大学で地球物理学を学んだ社員たちが、すでにそのころ、ジェットストリームなどの高層気象を研究していた。周知のごとくジェットストリームは日本の上空を西から東へ吹く強風帯である。時には太平洋の中央部まで吹いている。アメリカ軍はB-29の日本空襲以前からこの高層風の研究をしていた。
 気象衛星もないこの時代、日本航空の気象課のスタッフもジェットストリームを含めた高高度気象の研究では当時、驚くほどの成果を上げていたという。

「あまり知られていないことですが、東大や京都大で地球物理学を研究していた連中が、我社に入り、現在のコンピューター予報顔負けの精度の高い日航独自の予報図を作成していましたね。そのデータを日本はむろんホノルルやアンカレッジなどの気象台に送って彼等は洋上飛行する航空機の運航に貢献していました。すごく優秀な連中でしたよ」
 そして日本航空の運航、気象のスタッフは最短時間コースの飛行を見出す方法「タイム・フロント・オブ・メソッド」を開発した。それらの地上支援の体制を試す上でも、ぜひ、6Bによる東京ーホノルル間の長距離洋上無着陸飛行にチャレンジしたかったのである。

「7CやDC-8などで将来、直行便を出す日も近いので、そのためにも6Bで東京ーホノルルを試してみたかったのです。丁度、そんな折、東京にハワイの選抜高校の野球チームが22名かな、来ていたのです。彼等がハワイに帰る話が営業からあったのでタナボタで稼ぎながら試験飛行が出来る。それで念願のホノルル直行便を飛ばそうということになった。むろん臨時便です。チャーター便ですよ。便名はJL601A(アルファ)。使用機体はダグラスDC-6Bのパンアメリカン航空からリースしたN(アメリカナンバー)5024K。
1957年9月1日の夕方、羽田を出ましてね。ホノルルまでの所要時間はブロックタイムで16時間11分、実飛行時間15時間55分で飛んだのですよ。今ではニューヨークに飛んでホテルに入って一杯やっている時間ですがね」

 結果としてこのフライトは各方面から高い評価を受け、その後のDC-7Cでの東京ーホノルル間の無着陸の定期便の開設(1958年2月)やポーラルートの運航方式の開発などにつながる技術面の貴重な情報を得、同時に運航スタッフの経験と大いなる自信にもなり、日本の航空歴史に残るメモリアルな飛行になったのである。

 このように太平洋の横断フライトは過去、いろいろな人の苦労と努力と情熱で開設されてきた。ハーレクイン8673便はその先人の夢の上を今、ホノルルへ向かって順調な飛行を続けていた。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第12回 ハーレクイン8673便、東京レディオHF空域へ

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「260度から162ノット。凄い風が吹いていますね」
 三宅機長がINSのモニターを見ながら言った。
「(風速は)時速300キロメートルです」それから、丁度、コックピットに入室していたキャビンアテンダントに振り返って「ブラックね」とコーヒーのおかわりを頼む。
 今日は三宅機長のラストフライトを祝福するかのごとくホノルルまでのエンルート(航路上)にはさしたる天候の乱れも無く、天候に恵まれていた。
 副操縦士のダウニングがポジションレポートについて機長に報告した。
「ネクスト レポート イズ メイソン。ネクスト ポジション イズ マーレイ バット ソー ノウ リポート」
(次の位置報告はメイソンです。次のウエイポイントのマーレイ(MORAY、ウエイポイントNO11)の位置報告しなくていいようですから)
 三宅機長は頷いて窓の外に視線を移す。
 外は満天の星空である。三宅機長が星の想い出を語った。
「ホノルル線(日本エアシステムの定期便)を飛んでいるときに流星群に出会ったことがありますよ。飛んでいるあいだ中(星が)飛行機にぶっつかるのではないかと思いましたよ」
 そしてパイロットの醍醐味についても彼は語った。
   「何千、何万回と飛んでいても、そのひとつひとつのフライトが
    すべて違う。飛ぶごとに何かしら大自然の新しさに遭遇して感動する。
    例えば、空から見たオーロラとかね。それもパイロットという仕事の
    魅力のひとつかもしれませんね」
 キャビンでは食事や免税品の機内販売も一段落して、今夜一本目の機内映画が上映され始めた。
 今のように順調に飛行している場合、これから先は数時間後にホノルルへ下降を開始するまで操縦室では取り立ててする仕事は少ない。
 ウエイポイントを通過するときの位置報告、定期的な計器類のウォッチング、ときどき客室と連絡をとりあって機内の室温の調整などをするくらいだ。
 この時間クルーは交代に食事や飲物をとるなどリラックスした時間を過ごす。三宅機長も操縦をダウニングに任せて遅い夕食を済ませた。
 そのときひとりの少年が操縦室を見学に訪れた。
 その少年は夜間飛行時の照明を落としたコックピットの暗さにまず驚き、窓の外の星の輝きに目を奪われた。
「うわー。星がきれい!」鼻を窓ガラスにくっつけて無心に星を眺めている。
「北極星、わかるか。これが柄杓でしょう。あれが北極星…」
 将来はパイロットになりたいと目を輝かす少年に、三宅機長は星やコックピットの中の様子を、次世代に航空機を託すように熱心に説明していた。

 スピーカーからはHF交信が聞こえている。夜間飛行の照明を落とした薄暗い操縦室でHF交信を聴いていると、遠くから、とても遠くから電波に乗って飛んできた音の粒が、やっと飛行機に届いて、コックピットのスピーカーから、ポロポロとこぼれ落ちる感じがする。それはとても遠くで奏でる孤独な音楽を聴いているようだ。

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★「最後の飛行」挿入22

※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

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 管制官が航空機を呼び出すセルコールの音が響きカリカリという空電が混じる。飛行機がメイソンに近づいたのでこれから先は東京レディオの指定周波数がHFに変わるのだ。
ATCクリアランス。ダイナスティ018 メインティン マックポイント86 トウキョウ ゴーアヘッド
(中華航空18便へ。こちらは東京レディオです。管制承認をします。速度はマッハ0.86で飛行して下さい。どうぞ)
 東京レディオが台北発の東京羽田空港からホノルルへ向かう中華航空(コールサインはダイナスティ)18便への交信が傍受された。
メインティン マック…マックポイント86…ウィ アー…
(速度をマッハ…マッハ0.86…こちらは…)
 このダイナスティのB-747はハーレクイン8673のかなり先(東)を飛行しているので、遠い飛行機からの交信には空電が入ってよく聞き取れない。
 HF電波は電離層に跳ね返って遠距離まで届くが、磁気の状態が悪いと聞き取り憎くなる場合がある。三宅機長が「近い将来には衛星通信に変わるのでもっと聞きやすくなりますよ」と笑った。
トウキョウ ラジャ」(東京レディオ。了解しました)
 続いてダイナスティ18便のすぐあとをホノルルへ向かっているユナイテッド航空826便ジャンボが東京レディオを呼んだ。
トウキョウレディオ 。ユナイテッド826 オン 65…
(東京レディオへ。こちらはユナイテッド航空826便です。65(HF周波数6532Hzのこと)で交信しています)
ステーション コール イン トウキョウ セルコール サイン
(こちら東京レディオです。セルコールのサインを知らせて下さい)
ラジャ。ユナイテッド826」(はい。ユナイテッド航空826便)
ラジャ。スタンバイ セルコール チェック ユナイテッド826
(ユナイテッド航空826便へ。そのまま待機して下さい)
826 アー チャリー(C) パパ(P) デルタ(D) リマ(L) チャリー(C)… ナンバー197 ユニフォーム アルファ セルコール アルファ(A) シエラ(S) エコー(E) リマ(L)
(826便です。CPDLC…、197…UA。セルコールはASELです)
 ピー、ポーと音がしてセルコールチェックが終わった。
セルコールチェック オーケー サンキュウ
 セルコールとはHF周波数で管制が航空機を呼び出す信号でアルファベッドの4桁の記号がそれぞれ航空機独自に設定されている。
 電話番号の短縮登録のようなもので、管制がその航空機と交信したいときには無線送信機のアルファベットを送信すると航空機のコックピットの中の無線機が受信し、「チンチン」とまるで昔の路面電車のベルのような音を発してパイロットに管制が呼んでいることを伝える。
 このセルコールがない場合はパイロットは終始、無線を聞いていなければならず、その労力がセルコールによって省けるのだ。
 ユナイテッド航空のセルコールサインはアルファベットのA(アルファ)S(シェラ)E(エコー)L(リマ)である。

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★「最後の飛行」挿入23

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 今度はハーレクイン8673が位置報告のために東京レディオを呼んだ。
トウキョウ ハーレクイン8673 イズ ポジション メイソン 1107 フライトレベル330 エスティメイテング アー 33ノース160イースト アット 1155 フォーロイング トゥ FIR 320/65ノース 165イースト テンパラチャー イズ マイナス41 ウィンド 260ダイゴナル170 セルコール イズ ジュリエット(J) パパ(P) デルタ(D) ケベック(Q) コーアヘッド
(東京レディオへ。こちらはハーレクイン8673便です。メイソンを通過しました。通過時刻は11時07分(標準時間)でこれから次の通過点、北緯33度、東経160へ向います。通過時間は11時55分の予定です。その次はFIR、北緯32度6、5分、東経165度に向います。現在の外気温はマイナス41度。風は260度方向から170ノット吹いています。セルコールはJPDQです。どうぞ)
 操縦室の無線機がチンチンと音を発して受信を知らせる。
 それを確認して三宅機長は飛行高度を37000フィートに上げる旨、管制にリクエストする指示をした。
OK。370」(OK。高度を37000フィートに)
 ダウニングはすぐ機長の要求を管制に伝える。
ハーレクイン8673 セルコール チェック イズ オーケー。リクエステング イズ フライトレベル 370
(ハーレクイン8673便です。セルコールチェックはOKです。高度37000フィートへ上昇したいのですが?)
ハーレクイン8673 スタンバイ」(ハーレクイン8673。待機願います)
 レーダーでコントロールをしていないこの洋上空域では、管制が航空路を調整する間、暫く待機させられる。
 再びセルコールが鳴って東京レディオがハーレクイン機を呼んでいることを知らせる。
ハーレクイン8673 アイ レシーブド セルコール
(こちらハーレクイン8673です。セルコール受信しました)
ATCクリアランス ハーレクイン8673 クライム メインテイン 370 リポート リーチイング オーバー
(ハーレクイン8673へ。管制は高度37000フィートへ上昇する承認をしました。37000フィートへ到達したら報告して下さい。以上)
ラジャ。ATCクリアランス ハーレクイン8673 クライム トゥ メインテイン フライトレベル 370 リポート リーチング」とダウニングが復誦して、
ウィ アー リービング フライトレベル 330 トゥ 370 ハーレクイン8673」(これから高度33000フィートを離脱し高度37000フィートへ上昇を開始します。ハーレクイン8673)とコールバックして交信を終えた。
 ハーレクイン8673便は洋上通過点、メイソンからOTR(Ocean Traffic Ruet)ルートのトラック12には入り一路、ホノルルヘ向かうのだ。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第11回 夜の洋上管制、東京コントロール133.6

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★「最後の飛行」挿入20

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 夜の太平洋には絶え間なく航空機の交信が続く。
ユナイテッド882 クリア トゥ プレゼントポジション ディレクト パーバ レスト オブ ルート アンチェンジ
(ユナイテッド航空882便へ。現在地点からパーバに直行して下さい。それ以後のルート変更はありません)
サンキューベリーマッチ ディレクト トゥ パーバ ユナイテッド882
(ありがとう。パーバへダイレクトに飛行します。ユナイテッド810)
 続いて東京コントロールの空域に入ってきた日本航空6402便、ロンドンからポーラルートでアンカレッジを経由して成田空港に向かっている貨物便に管制官が呼び掛けた。
ジャパンエア6402 クリア トゥ プレゼントポジション ディレクト メロン
(日本航空6402便へ。現在地点からメロンに直行して下さい)
プレゼントポジション ディレクト メロン ジャパンエア6402
(メロンに直行します。日本航空6402)
 メロン(MELON)は航路OTR10上の、銚子の北東約50マイルにあり、太平洋から成田空港へ進入するポジションのひとつである。
アメリカン154 レーダーサービスターミネイテッド スコーク2000 コンタクト トウキョウレディオ126.7
126.7 スクオーク2000 アメリカン154 グッデイ
 管制官は東京コントロールのレーダー限界に近づいたアメリカン航空154へ東京レディオへ移管する交信をして、飛行高度を上げるリクエストをして待機している日本航空1092ホノルル便に高度39000フィートへの上昇許可を与えた。
ジャパンエア1092 クリアー トゥ フライトレベル メインテイン390
(日本航空1092便へ。高度39000フィートの飛行許可をします)
クライム トゥ メインテイン390 ナウ リービング ジャパンエア1092
(すぐに高度39000フィートへ上昇します。日本航空1092)

 ハーレクインのコックピットではダウニングとネイヤーが食事をしている。
 その間に三宅機長が太平洋洋上のルートとその管制方式について話をしてくれた。
「今日はノータム(飛行情報)でいうとパコッツ(PACOTS)と言うのですが、ホノルル行きのルートはふたつあるんですよ。上が(北側が)トラック11というルートで下が(南側が)トラック12というルートです。それで今日は上の方(トラック11)が混んでいそうなのでトラック12という下の、南側のルートを通っているのです」
 パコッツとはパシフィック・オーガナイズド・トラック・システムの略で、航空機が混雑する太平洋空域の有効利用を図るために設定されたシステムである。(末巻、参考資料)
 日本側の出入り口とアメリカ西海岸、及びハワイ西部の出入り口を定め、そのあいだを毎日、日単位で飛行ルートを選定し航空機を飛行させる。
 このルート選定は毎日、日本の航空交通流管理センター(ATFMC)とサンフランシスコのオークランドARTCCが運航者の希望、天候、軍用空域を考慮して決定しているもので原則として、次の数のルート(トラック)が決められる。

  1. 日本から北米へ5ルート(トラック)
  2. 日本からハワイへ2ルート
  3. 北米から日本へ6ルート
  4. ハワイから日本へ2ルート
  5. 北米から東南アジアへ5ルート

 三宅機長の説明のように今日のホノルルまでのルートはトラック11と12が選定されているのである。

▼パコッツのルートマップ
パコッツのルートマップ

 トラック11と12のどちらを飛行するかは機長が飛行前に会社の運航管理者(ディスパッチャー)と相談して決める。
 前にも述べたが現在、関西空港を前後して離陸しホノルルへ向かっているハーレクイン8673と日本航空1092はハーレクイン機がトラック12を日本航空機がトラック11をそれぞれ選んで飛行している。
 日本からハワイへの東飛行の場合、夜9時から朝1時(日本時間)の間に東経160度を通過する飛行機にのみ設定される。すなはち日本を夕刻に離陸すしてホノルルへ向かう航空機がその対象となるのである。
 三宅機長は地図を見ながら説明を続けた。
「で…、どこからそれに(トラック12に)入るかというと、メイソン(MASON)という(ウェイポイント)がありますね。メイソンから入っていくのです」
 メイソンは飛行プランではウェイポイント(通過地点)NO12の北緯33度50・3分。東経149度59・8分、飛行航路OTR15上にある地点で管制エリアから言えば日本の管制(東京レディオ)の限界地点であり、ハーレクイン8673は現在、メイソンに向けて飛行をしている。
 次に三宅機長はパコッツ・ルート上の管制コントロールの話を始めた。
「今はRVSMといって1000フィート間隔で飛ばすので非常にシビアな高度管理をしているのですよ、以前は2000フィート間隔だったのですが…」
 RVSM(リデュース バーチカル セパレーション システム)とは29000フィート以上の高度を飛行する場合、1000フィート間隔(航空機の上下間隔が約300メートル)で飛行することが出来る管制システムである。普通は日本上空のように2000フィート間隔であるが、北太平洋や北大西洋など航空機が混雑するエリアは航路をワンウェイにして1000フィート間隔で飛行機を上下に並べて飛行させることによって交通緩和を図るのである。
 このシステムが北太平洋に導入されたのは1998年1月からであった。
 そのとき東京コントロールの管制官が東京コントロール133.6の限界に達したことを知らせる交信が入った。
 三宅機長はRVSMの説明を中断して交信に聞き入る。東京から送信する管制官の声がスピーカーから小さく聞こえた。

ハーレクイン機は東京レディオへ

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★「最後の飛行」挿入21

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ハーレクイン8673。レーダーサービスターミネイテッド スクオーク 2000 コンタクト トウキョウレディオ127.4
(ハーレクイン8673便へ。レーダー捕捉の限界です。スクオーク2000 以後は東京レディオ127.4メガヘルツへ交信して下さい)
ラジャー スクオーク2000 トウキョウ127.4 ハーレクイン8673 グッドナイト
 ダウニングが東京コントロールに最後の交信をして周波数を127.4に切り替え東京レディオを呼んだ。
トウキョウレディオ。ハーレクイン8673」(東京レディオ。こちらハーレクイン8673です)
ハーレクイン8673。トウキョウ ゴーアヘッド」(ハーレクイン8673へ。こちら東京レディオです。どうぞ)
 レーダーサービスターミネイテッドのことは前述したように日本の東海岸から約250マイル地点までの範囲は東京コントロールのレーダーARSR(エア・ルート・サービス・レーダー)で捕捉可能な範囲である。それより先の洋上管制はオーシャン・コントロールと呼ばれる東京レディオが担当する。
 本来はHF周波数が使われるが、エリアに入っても暫くの間はHFより聴きやすいVHF周波数を使用している。交信は航空管制通信官が行う。
 この東京レディオの空域ではレーダーが届かないので無線のみの誘導となる。ということは誘導は航空機側からの位置、高度通報(ポジションレポート)をもとに管制をする。
 ダウニングが位置報告(ポジションレポート)を始めた。
ハーレクイン8673。 ポジション スモルト 1037 フライトレベル330
 エステイメイテング メイソン アット 1107 ネクスト 33ノース160イースト ゴーアヘッド

(ハーレクイン8673便です。スモルト(SMOLT、ウェイポイントNO9)を通過しました。通過時間は10時37分(日本時間で7時37分)、飛行高度33000フィートです。メイソン(MASON、ウェイポイントNO12)には11時07分(日本時間で8時7分)の到着予定です。そして北緯33度東経160度地点(ウェイポイントNO13)へ向かいます)
 ハーレクイン機はスモルトを予定通過時間より2分早く通過している。
トウキョウ ラジャ。 リポート メイソン エッチエフ 6532プライマリー 8903セコンドリー
(東京レディオ了解しました。メイソン通過時にHFで報告して下さい。主周波数は6532Hz 副周波数は8903Hzです)
ラジャ リポート メイソン 6532 プライマリー セコンドリー 8903 ハーレクイン8673
 この段階からVHF通信はホノルルセンター管制と交信するまで使用しない。ダウニングは復誦して交信を終えた。
サンキュー」と東京から送られてきた東京レディオのVHF音声がか細く闇に消えた。

パンナム、太平洋へ大型飛行艇就航(太平洋の空の歴史4)

 パンアメリカン航空のホアン・トリップが太平洋に最初の定期便として就航させた大型飛行艇「チャイナクリッパー」こと、「マーチンM-130」は1935年9月22日午後3時46分、世間の注目を集めて午後の日差しがさす美しいサンフランシスコ湾からホノルルに向けて離陸した。
 イギリスの小説家ケン・フォレットはパンナムのクリッパーを「世界一ロマンチックな飛行艇」と言う。彼が書いた一文を読めば、当時のクリッパーの雰囲気が伺われる。

パンアメリカン・クリッパーがサウザンプトン・ウォーター(イギリスの海の玄関サザンプトン湾のこと)に着水するのは、たしかこれが九回めだが、それでも新奇さは褪せてないようだ。…その飛行艇の魅力にひかれてそれだけの見物人がぞろぞろと集まってきたのだから。同じ埠頭に豪華客船が二隻、人々の頭上たかくそびえるように停泊していたが、それにはだれも注意ははらわず、みんな空を見上げていた。…「きた! きた!」子供はかん高い声で叫んだ。「クリッパーがきたよ!」…興奮のどよめきが群衆のあいだに広がっていった。…それはけたはずれに大きく堂々として、信じがたいほど力強い、空飛ぶ宮殿だ。…停泊している豪華客船にもひけをとらなかった。しかも船で大西洋を横断するのに四、五日はかかるのに、クリッパーなら25〜30時間しかかからない。まるで翼のはえた鯨のようだ

「飛行艇クリッパーの客」(ケン・フォレット 田中融二訳 新潮文庫)

 1942年にルーズベルト大統領を訪問したイギリスのチャーチル首相も、イギリスを代表する戦艦「デューク オブ ヨーク」で帰国する予定をパンナム「クリッパー」に変更した。当時、飛行機嫌いで知られていたチャーチル首相がクリッパーに搭乗したことは世界的ニュースとなったという。彼の著「第二次世界大戦」の中でもクリッパーにふれ、

『私はこの飛行艇に愛着を感じた。動きは滑らかで、振動も不快ではなかった。我々は快適な午後を過ごし、愉快な夕食をとった。私はゆったりとしたベッドに入り数時間ぐっすりと眠った』

「飛行艇クリッパーの客」

 このチャーチル首相が乗ったクリッパーやケン・フォレットの小説に登場するクリッパーは太平洋に就航した「チャイナクリッパー」の四年後に、ホアン・トリップが北大西洋に就航させたボーイング314大型飛行艇のことであるが、サンフランシスコ湾からホノルルへ飛んだマーチンM-130もプラット&ホイットニーツウィンワスプ830馬力エンジンx4 最大離陸重量 52250ポンド 航行距離3200マイル 定員41名とボーイング314大型飛行艇より少し小振りながら豪華さにおいては同じであった。ボーイング314クリッパーも「ホノルル・クリッパー」「サンフランシスコ・クリッパー」がのちに太平洋にも就航している。

▼ボーイング314クリッパー
ボーイング314クリッパー

 コックピットのクルーはパンアメリカンの機長として名高いエドワード・ミュジークとサリバン副操縦士、2名のナビゲーターと2名のフライトエンジニア、それに通信士の合計七名。航路はサンフランシスコ…ホノルル…ミッドウェイ…ウェーキ…グアム…マニラ間の8210マイル。
 クリッパーはその区間を59時間48分で飛行している。そしてそのときのスケジュールは次の通りであった。

9/22(金)15時46分 サンフランシスコ湾離陸
  23(土)10時13分 ホノルル着陸
  24(日) 6時35分 ホノルル離陸
  24(日)14時00分 ミッドウェイ着陸
  25(月)06時12分 ミッドウェイ離陸
  26(火)13時38分 ウェーキ着陸
  27(水)06時01分 ウェーキ離陸
  28(水)15時05分 グアム着陸  日付け変更線
  29(金)06時12分 グアム離陸
  29(金)15時32分 マニラ着陸

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第10回 夜間飛行

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 照明を暗くしたコックピットの中では、計器類の光りがほの暗く光り、窓の外の星空とつながっているように見えて幻想的な雰囲気を作っている。
 ダウニング副操縦士とネイヤー航空機関士が夕食を取り始めた。

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★「最後の飛行」挿入19

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 コックピットのスピーカーからトラフックで混雑する東京コントロール関東東エリアの様子が伺われる。管制官がアメリカから飛来してR220航空路を西へ向かう貨物専用航空ポーラ・エアー・カーゴ87便をレーダー捕捉して、現在の飛行地点を知らせる。
ポーラタイガー87。レーダーコンタクト 45マイル ノースイースト オブ ナナック」(ポーラタイガー87便へ。レーダーで捕捉しています。現在位置はナナックの北東45マイル地点です)
 ナナック(NANAC)は三沢市の東約80マイルの洋上にある飛行ポイントである。
ラジャ。ポーラタイガー87。リクエスト 360
(了解しました。ポーラタイガー87便。36000フィートへ上昇許可願います)
ポーラタイガー87 スタンバイ」(ポーラタイガー87便へ。待機願います)
トウキョウ ユナイテッド882 パッシング アリス 1005 クライム フォー フライトレベル 330
 成田空港を離陸したシカゴへ向かうユナイテッド航空882便B747-400が東京コントロールの空域に入ってきた。現在高度10500フィートで銚子沖アリス(ARIES)を通過、高度33000フィートへ上昇中という報告である。
ユナイテッド882。トウキョウコントロール ラジャ
ユナイテッド882。ウィ ハブ トラックワン トゥ パーバ?
(ユナイテッド882便です。パーバ(PABBA)へ向っていいですか?)
 パーバは北太平洋パコッツルートのトラック1の日本側の入り口である。
ユナイテッド882 ジスタイム クリア トゥ プレゼントポジション トゥ ディレクト ケイジス」(ユナイテッド882便へ。今回は現在位置からケイジス(KAGIS)に向かって下さい)
 ケイジス(KAGIS)は房総半島の銚子の沖、約100マイルの地点でその後北太平洋への航路A590をアモットへ向うユナイテッド機には若干まわり道になる。
サンキュ。ディレクト トゥ ケイジス ユナイテッド882
(ありがとう。ケイジスに直行します。ユナイテッド882便)
 次に管制官は東京コントロールが管轄する空域の限界地点に達した成田空港発サンフランシスコ行き日本航空2便に、レーダー捕捉の限界を告げ、以後は東京レディオに移管するようにというハンドオフの指示をする。
ジャパンエア2 レーダーサービスターミネイテッド スコーク2000 コンタクト トウキョウレディオ126.7
(日本航空2便へ。レーダー捕捉の限界地点です。ス クオーク2000 以後は東京レディオ126.7へ交信して下さい)
ジャパンエア2 スコーク2000 126.7 グッデイ
(日本航空2便です。スクオーク2000 以後の周波数126.7メガヘルツ了解しました)
ユナイテッド810 レーダーサービスターミネイテッド スコーク2000 コンタクト トウキョウシディオ 126.7
 今度は関西空港をハーレクイン8673便より先に離陸したユナイテッド航空810便B-747ー400、サンフランシスコ行きが東京コントロールのレーダー限界に着いた。
2000 126.7 ユナイテッド810 フライトレベル330 どうも

 ここでユナイテッド航空810便と同じく、ハーレクイン8673便が関西空港から現在の東京コントロールまでハンドオフされてきた管制エリアを辿ってみると、
 まず、関西空港デリバリー管制で飛行プランの承認を受け、関西空港のグランドコントロールへハンドオフ、そこで滑走路までの地上管制を受けた。次は関西空港のタワーコントロールの指示で離陸。離陸後は関西空港ディパーチャー・コントロールのレーダー誘導で上昇。ここまでが飛行場管制のエリアである。
 そして航空路に入るとエアールートを管制するACC(エアー・コントロール・センター)の管制下に入り、東京コントロールの紀伊セクター133・5、次に関東南Cセクター124・55、三宅島近くになると関東南Aセクターに引き継がれ、現在は関東の太平洋空域をコントロールする関東東セクター133.6のエリアにいる。
 ハーレクイン8673は出発から現在まで無線機の周波数を八つも変えて飛行していることになる。
 そしてこのあと、東京レディオからサンフランシスコ・オークランド管制に入って、ホノルル管制へとハンドオフされてゆく。
 オートパイロットを作動させ、楽に飛行しているようにみえる航空機もいろいろな規制の中を飛んでいるのだ。
 そのオートパイロットも無かった時代、広大な太平洋に定期路線を就航させるべく情熱を燃やした航空会社があった。

太平洋へ民間定期路線就航 パンナムの時代(太平洋の空の歴史3)

 太平洋を乗客を乗せて飛行した最初の航空会社は「パンナム」の愛称で知られているアメリカのパン・アメリカン航空であった。
 太平洋の民間航空の歴史はパンナムの歴史でもある。そしてそれはひとりの男の空への夢に支えられた歴史でもあった。
 1927年(昭和2年)3月14日フロリダを起点にして、キーウェストとキューバのハバナを結ぶ144キロのアメリカ最初の国際航空路をもつ小さな航空会社が生まれた。 それが情熱の人、ホワン・トリップが設立したパン・アメリカン航空である。

▼ホワン・トリップ
ホワン・トリップ

 1927年といえばリンドバークが大西洋を、メーランドとヘーゲンがサンフランシスコとホノルルの間を無着陸で飛行した年である。
 そして翌年にはホワン・トリップはマイアミとハバナ間を就航させ、その後バッフアローやニューヨークにもあった小さな航空会社を統合させて本格的にパン・アメリカン航空の創業を開始する。
 当時の主力機種はフォツカーF7-3M、八名の座席を持つ3発エンジン機であった。
240馬力のエンジンを3基、最大離陸重量8800ポンド、飛行距離は660マイルである。

▼フォッカーF7-3と客室
フォッカーF7-3と客室

▼フォッカーF7-3
フォッカーF7-3

 ホワンは空に夢をかけた野心家であった。祖父のホワン・テリーはキューバの富豪で船乗りで、ホワンはその祖父から冒険心と野心を受け継いで育つ。
 エール大学では飛行クラブを作り、大学を一時休学して海軍の爆撃機の操縦士になったほど飛行機が好きであったという。
 エール大学を卒業すると銀行に入るが、空への夢をあきらめきれずに航空事業家に転身する。
 最初、ホワンは空軍の払い下げの中古飛行機を改造し、その飛行機でニューヨークの社交界の名士を別荘に運ぶという航空会社をつくる。ボストンとニューヨークの郵便輸送も始めた。そして30才のとき、パン・アメリカン航空を設立する。
 国際線運航は政府の認可が必要なので、彼はエール大学時代の人脈でワシントン政界にコネを作る。ホワンの妻の兄はルーズベルト大統領の国務長官であった。
 次々と郵便輸送と国際線の認可を手に入れると、彼は矢継ぎ早にキューバ、中南米、南米、アメリカ東海岸に路線を拡大し、パンナムを創立して5年後の1932年には、約二万キロに達する中南米路線をもつアメリカ最大の航空会社に発展させている。
 ホワンは路線を拡張する一方で新しい飛行機の開発に全力を注ぐ。パンナムが使用した飛行機はアメリカ航空界を代表する名機ばかりである。
 例えば、フェアーチャイルドFC-2(定員6名、プラット&ホイットニーの450馬力エンジン一基)。フォード・トライモーター・シリーズ(定員12名、420馬力エンジンx1と450馬力エンジンx2)。ローッキードL10エレクトラ(定員10名、450馬力エンジンx2)などである。
 その中でも一際、輝いている飛行機は、シコルスキーF7-3大型飛行艇であった。

▼シコルスキーS-40大型飛行艇
シコルスキーS-40大型飛行艇

 彼は祖父が、そして先祖が乗った快速帆船にちなんで、その飛行艇を「アメリカン・クリッパー」と名付けた。パンナム最初のクリッパー命名機である。
 次にホワン・トリップが目をつけたのは太平洋であった。
 当時アメリカ政府が中国に市場拡大を求めていた経済的背景もあり、ホワンはアメリカと中国を結ぶ太平洋に定期便を就航させるという壮大な夢を抱く。
 ルートはふたつ考えられた。ひとつはサンフランシスコからアラスカ西海岸、アリューシャン列島、日本、マニラ、香港を結ぶ北太平洋コースで飛行距離は約14000マイル。もうひとつはサンフランシスコからホノルル、ミッドウエイ、ウェーキ、マニラ、香港を結ぶ太平洋横断の海洋コースで飛行距離は約8000マイルである。
 最初、ホワンは島伝いの北大西洋コースが距離は長くなるが途中、給油や安全面で現実性があると考えていた。
 当時の飛行機の航行距離は双発のロッキード・エレクトラで800マイル。シコルスキーF7-3飛行艇でも1200マイルなので長距離の海洋横断には無理があったからだ。
 そしてホワンは大西洋を単独横断して名を馳せるチャールズ・リンドバークを技術アドバイサーに迎えて、1931年夏、コースの調査のためにリンドバーク夫妻に北太平洋のルートを香港までの飛行を依頼する。
 リンドバーク夫妻が単発のロッキード・シリウスでニューヨークを発ち、カナダ東海岸、アラスカのノーム、アリューシャン列島からカラフト、北海道の根室を経て東京に飛来したのは、昭和6年(1932年)の8月である。その年は奇しくも報知新聞社の「報知日米号」が青森県淋代海岸からアメリカへ太平洋横断に飛び立った年でもあった。

▼リンドバーク機
リンドバーグ機

 リンドバークの調査の結果、パンナムの飛行ルートは北太平洋コースに決まったが、途中通過するロシア政府の反対で許可が出ず、結局ルートは太平洋の中央を横断するコースに決めざるをえなかった。
 しかしこのルートにはノン・ストップで飛行しなければならないサンフランシスコとホノルル間の2494マイル(約3890キロ)という当時の飛行機の航行距離では想像を絶する太海原が横たわっていた。

▼パンナム太平洋開発飛行ルート
パンナム太平洋発飛行ルート

 この大海原は冒険飛行やチャレンジフライトならともかく、乗客をのせた定期便を就航させるには長すぎる距離であった。
 ここでホワンの夢は挫折するかに見えた。
 しかし彼は途方もない方法でこれを実現する。
 それは航行距離が3000マイルを越える新しい航空艇(フライングボート)の開発であった。
 すでに彼はシコルスキー社にカリブ海や南アメリカで使用する1200マイルの航行距離を持つ飛行艇、シコルスキーS-42(定員32名、プラット&ホイットニー700馬力エンジンx2、離陸総重量38000ポンド)を持っていたので、シコルスキー社にS-42の航行距離を延ばす改良型とマーチン社に新しい大型飛行艇を発注する。
 そして三年後の1935年9月22日、彼の情熱は乗客を乗せたマーチンM-130大型飛行艇を太平洋に就航させた。
 41名の定員を乗せて3200マイルも飛ぶことが出来る大型飛行艇を、彼は「チャイナクリッパー」と名付けた。当時、夢の飛行機と騒がれた歴史的航空機である。

▼チャイナクリッパー
チャイナクリッパー

 「チャイナ・クリッパー」の出発の様子はアメリカ全土にニュースとして流され、記念切手までが発売されたという。そしてハンフリー・ボガード主演で映画「チャイナ・クリッパー」(邦題「太平洋横断」)が製作されるなど、ホワン・トリップの名とパン・アメリカンの「チャイナ・クリッパー」は一躍有名になった。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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昨日配信の「最後の飛行」第9回に、音声を追加しました

こんにちわ!

昨日更新した、航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第9回なのですが、冒頭に入るべき音声がひとつ抜けてしまっていました。
すみません、わたしの見落としです。

先ほど修正したものをアップしました。
第9回に流されるべき音声は2回になります。

それから、合わせてタイトルがつきました。

「最後の飛行」第9回 ハーレクイン機、太平洋洋上へ

私の不手際が重なり、昨日お楽しみいただいた皆さん、すみませんでした。もう一度お楽しみいただければ幸いです!

「最後の飛行」
▶第9回 ハーレクイン機、太平洋洋上へ

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第9回 ハーレクイン機、太平洋洋上

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★「最後の飛行」挿入17

※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

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 さきほどまで窓の外に見えていた陸地の灯も後方に去り、今はハーレクインDC-10は漆黒の太平洋洋上を一路東に飛行していた。
デルタ52。クリア プレゼントポジョン ディレクト パーバ レスト オブ ルート アンチェンジ
(デルタ航空52便へ。こちら東京コントロールです。現在地点からパーバ(PABBA)へ直行することを許可します。以後のルートに変更はありません)
デルタ52。プレゼントポジション トゥ パーバ、レスト オブ ルート アンチェンジ」(デルタ航空52便です。現在地点からパーバーへ向かいます。以後のルートはそのままです)
 成田空港発のアメリカ、ポートランド行きのデルタ航空のMDー11に管制官はパーバー(PABBA)への飛行を許可する交信である。
 パーバは茨城県の約160マイル東の洋上にある北緯37度東経143度59分のウエイポイントで、アメリカに向かう北太平洋航路OTR5の入り口となっている。
コンチネンタル8。レーダーサービスターミネイテッド スコーク2000 コンタクト トウキョウレディオ126.7
(コンチネンタル航空8便へ。レーダーによる捕捉は終了しました。スコークは2000 以後は東京レディオ126.7にコンタクトして下さい)
 続いて成田発ニューヨーク行きのコンチネンタル航空Bー777へ東京コントロールから東京ラジオへの移管の交信である。
 日本国内及びその近辺を飛行する航空機は東京コントロールのレーダーで捕捉されているが、海岸線から約250マイル離れるとそのレーダー範囲外となり、以遠は東京レディオ管制が無線交信のみで航空機を誘導する。
 この洋上管制の仕組はあとで述べるが、レーダーサービスターミネイテッドとは東京コントロールの管制限界点を意味している。

 ハーレクイン8673便はメイソンに向けて飛行を続けている。客室では国際線の長距離飛行独特のくつろいだ雰囲気の中で夕食がサービスされ、免税品の機内販売が始まろうとしていた。
 操縦室も一息ついている。三宅機長は今日二杯目のコーヒーをブラックでキャビンに頼んだ。夜の太平洋の空を飛び交う交信がコックピットのスピーカーから絶え間なく聞こえている。
 言うまでもなく太平洋は途方もなく広い。
 この広い太平洋を最初に横断したのはアメリカ人パイロットで1924年(大正14年)のことである。これはリンドバークが大西洋を単独飛行に成功した三年も前のことであった。

太平洋へチャレンジフライト(太平洋の空の歴史1)

 例えば北緯45度上で距離を測ると大西洋はカナダ・ノバスコシヤからフランスの西海岸まで約4700キロだが、太平洋は北海道東海岸からアメリカ西海岸まで約7000キロもある。この広い空を最初に飛行機で飛んだのは、皮肉にも海軍ではなくアメリカ陸軍の飛行隊であった。
 1924年に北太平洋と北大西洋を横断するという壮大な計画がアメリカ陸軍によって立てられ4月6日から9月28日まで176日かかって飛行したという。その内太平洋の横断には47日を要した。
 アメリカ陸軍マーチン少佐らが四機の複葉機を改造した水陸両用機(ダグラスDTー2)でアメリカ・シャトルを出発し、アリューシャン列島に沿って島伝いに日本の霞ヶ浦まで飛行している。
 このフライトは無着陸横断飛行ではなかったが、そのとき使用した飛行機がダグラス社製作であったために、それまで無名だったダグラス社の名が世界に知られることになった。

 参考までに記すと、北大西洋を最初に横断したのはアメリカ海軍のアルバート・リード少佐が指揮する三機の飛行艇(カーチスNC4)で、1919年5月16日、アメリカ東海岸のニューファウンドランドを出発しポルトガルのリスボンまで、途中、アゾレス諸島などの島々で着水して給油をうけながら12日間で飛行した。
 また北大西洋をノンストップで飛行したのは、イギリス人のジョン・アルコックとその友人チームであった。
 1919年6月14日、16時間27分かけてニューファウンドランドからアイルランド西海岸クリフデンまでの無着陸飛行に成功している。
 チャールズ・リンドバークがニューヨークーパリ間無着陸の単独北大西洋横断に成功したのは、それから8年後の1927年の5月である。

 さて太平洋に話を戻すとリンドバークが成功した同じ年の6月に、アメリカ陸軍の二人の中尉によってサンフランシスコ・オークランドからハワイ・ホノルルまで約3890キロの無着陸飛行が行われている。
 三宅機長がMD-80を空輸して飛んだ同じ飛行ルートをレスター・メーランドとアルバート・ヘーゲンのふたりは三発エンジンのフォツカーF7ー3M「アイランズ オブ パラダイス」号で25時間50分かけて飛んだ。

フォツカーF7-3M
フォツカーF7-3M

 この飛行は太平洋洋上飛行の最初の快挙とされている。偏流を測定し現在地を測定しながら太平洋の一点であるハワイまで飛行したことは当時リンドバークの成功と並び評されたという。
 このサンフランシスコとホノルル間の飛行で忘れてはならないのが女性パイロットとして単独飛行に成功したアメリア・イヤハートであろう。
 四十才を前に南太平洋で行方不明になるまで、北大西洋単独飛行(1932年)、カリフォルニアからメキシコシティ、ニューアークまでの単独飛行(1935年)、そしてマイアミからアフリカ、アラビア、インド、東南アジアなどの長距離飛行(1937年)など世界航空史に燦然と輝いた美しい女性パイロットであった。
 1935年1月11日の早朝、アメリア・イアハートはひとり愛機ベガでホノルルからサンフランシスコへ向かった。

ロッキード・ベガの写真
ロッキード・ベガの写真

アメリア・イヤハート
アメリア・イヤハート

それは星のきれいな夜だった。コックピットの窓から手を出せば、触れそうなほど星がすぐ間近に見えた。いままであんな大きな星をあんなにたくさん見たことがない。 下界の真っ暗な海と、空の白い雲と月と星の光、そのコントラストは一生忘れられないだろう

『ラストフライト』 アメリア・イヤハート著(松田鉄訳 作品社)

ハーレクイン機 太平洋の真っ直中へ

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★「最後の飛行」挿入18

※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

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 ハーレクイン機の窓からもたくさんの星が見えていた。アメリアの言うように照明を落とした暗いコックピットから「手を出せば触れそうなほど」に無数の星があった。
アメリカン154。リクエスト エスティメト カルマ
(アメリカン航空154便へ。カルマ(CALMA)の通過時間を知らせて下さい)
 成田空港からシカゴへ向かうアメリカン航空のMDー11へ東京コントロールの管制官が、岩手県宮古の東約400キロにあるウエイポイント・カルマの予定通過時刻を尋ねている。カルマは北太平洋へ向かう航路OTR5の上にある通過点だ。
…1104 エスティメイト カルマ アメリカン154
(こちらアメリカン航空154便です。カルマには標準時間で11時4分の到着予定です)
アメリカン26 リクエスト エステイメイト カルマ
(アメリカン航空26便へ。カルマの予定通過時刻を知らせて下さい)
 シカゴへ飛ぶアメリカン航空154便より35分遅れて同じ成田空港を離陸し同じコースを飛行しているアメリカン航空26便MDー11に管制官はカルマの予定通過時刻を尋ねた。
アメリカン26 エスティメイト カルマ 1114
 1114(標準時11時14分)にカルマに通過なのでアメリカン航空154便のうしろ10分の距離にアメリカン航空26便が飛んでいることがわかる。
 航空無線を聴いていると飛行機間の位置関係を知ることが出来るのは航空フアンにとって空を楽しむ醍醐味のひとつであろう。
トウキョウコントロール。ジャパンエア1092。レベル330 アンド フライトレベル350 オア 370 390
(東京コントロールへ。こちら日本航空1092便です。現在、高度33000フィートで飛行中です。高度35000、または37000、39000フィートへ上昇する許可を願います)
 ハーレクイン機のすぐ北をほぼ同時刻に関西空港を離陸してホノルルに向けて飛行している日本航空1092便が高度を上げるリクエストをしてきた。
シャパンエア1092。トウキョウコントロール リクエスト エスティメイト ベポック」(日本航空1092便へ。こちら東京コントロールです。ベポック(VEPOX)の通過予定時刻を教えて下さい)
ベポック エスティメイト 1112」(ベポック通過予定時刻は11時12分です)
ジャパンエア1092。スタンバイ リクエスト
(日本航空1092便へ。待機願います)

 後に三宅機長が説明する飛行コースのところで詳しく述べるが、今日のホノルルへのルートはベポックを経由して入るトラック11とメイソンを入り口として入るトラック12の並行する二本があり、その間隔は南北へ約100マイルほど離れている。
 そしてその二本のルートは飛行する航空機がフライト前に好きなコースを選択出来るようになっている。
 日本航空1092便はトラック11を、ハーレクイン8673便はトラック12を選んで現在はそれぞれのコースの入り口になるウエイポイントに向かって飛行を続けている。すなはち日本航空は、航路OTR 13を、ハーレクインはその南の航路OTR 15を東に飛んでいるのだ。

昭和六年は日本でも太平洋横断ブームの年(太平洋の空の歴史2)

 太平洋は東に飛ぶ方が西に向かうより楽な飛行となる。なぜなら太平洋の日本近海はジェット気流が、ホノルルなど太平洋中部や赤道付近には貿易風が東から西に吹いているので航空機はその風に乗れる。いわゆる追い風飛行である。
 昭和に入ってその追い風を利用して太平洋を横断する数多くの飛行計画が日本でも立てられていた。
 その最初は1927年(昭和2年)10月に帝国飛行協会(現財団法人日本航空協会)が発表した太平洋横断飛行計画である。
 コースは北海道から樺太、アリューシャン列島の島沿いに途中、給油しながらアメリカまで飛行する北コースで、機体は川西航空機製作所が製造した川西Kー12型単発複葉水上機であった。
 だが、訓練中に墜落、パイロットが死亡しこの飛行機による太平洋横断を断念する。
 日本人による太平洋横断に熱心だった帝国飛行協会は、昭和6年(1931年)に、「北緯45度以内の日本から北緯50度以南のアメリカまで昭和8年8月までに飛行に成功した者に、賞金20万円を贈る」と発表し、朝日新聞社も協賛して話題を呼んだ。
 しかし当時、帝国飛行協会以上に、太平洋横断飛行に情熱を燃やした新聞社があった。
 それは報知新聞社である。

報知新聞太平洋横断計画を発表

 報知新聞はまず昭和6年2月に自社でドイツから購入した二機のユンカースAー50軽飛行機を水上機に改造した「報知日米号」で太平洋横断計画を発表する。

▼報知新聞の記事
報知新聞の記事

 その年の5月。吉原清治操縦士が単身乗り込み、わずか80馬力の飛行機を羽田飛行場から離陸させ千島列島を島伝いにアメリカに向かうが、千島列島の新知島付近で濃霧に遭い、しかもエンジン故障で着水漂流。7時間後に日本の汽船白凰丸に救助される。
 しかし報知新聞社は、一ヶ月後の6月にもう一機のユンカースAー50を着水した新知島まで船で運び、吉原操縦士を搭乗させ、それ以降のコースに再度挑戦を試みるが、飛行機の調子が悪く断念する。
 しかし報知新聞社はいっそう情熱をたぎらせた。
 三回目の飛行をその年内に試みるため、少し大型のユンカースW33を購入し「第三報知日米号」と名付け、日本航空輸送研究所の馬場英一氏に操縦を、当時、海軍で船の航法権威者だった本間清中佐をナビゲーターに、そして無線通信士を井上知義海軍兵曹に依頼して10月に再度のチャレンジを計画した。が、冬の悪天候を考慮してこのプランを翌年まで延期する。
 報知新聞社の空への情熱はこれで終わらない。
 その年すぐにイギリスのカティサーク軽飛行艇を購入し、飛行機と吉原操縦士をアメリカに派遣。アメリカから日本へ太平洋横断飛行を計画し、同時にアメリカのベランカ機を買って、陸軍の名越愛徳大尉と浅井兼吉陸軍曹長にやはりアメリカから日本への飛行を依頼する。
 だが報知新聞のかぎりない情熱も翌年、続けて起こった不孝な事故で終焉を迎えることになる。
 最初の事故は3月29日に起こった。ベランカ機「日の丸号」がアメリカのフロイド・ベネット飛行場でテストフライト中に墜落、操縦をしていた名越大尉が死亡する。
 そしてその二か月後の5月7日、吉原清治パイロットの軽飛行艇、サロ・カティーサーク機もサンフランシスコのオークランドでテスト中に大破した。
 これでアメリカから日本へ太平洋を横断する夢はすべてつぶれた。
 事故は連続すると俗にいうが、9月24日、冬到来で延期していた最後の望みの綱、ユンカースW33機「第三報知日米号」で、午前5時37分に青森県淋代(現三沢市)を離陸、太平洋横断の壮挙についた。このユンカースW33長距離機は最初は貨物機だったが、その後、6人用の旅客機に改造され世界中で記録飛行に使われた。
しかし「第三報知日米号」午前11時すぎにエトロフ島の南を通過するという無線交信を残したまま行方不明となった。

▼報知新聞記事とユンカース
報知新聞記事とユンカース

 大捜索がおこなわれたが機体は見つからず、それから三年後に墜落が確認されて報知新聞社は、昭和12年12月に「謹みて太平洋横断飛行の経過を報告す」と題した記事を発表し、太平洋横断飛行計画を断念したと公表した。
 今はジャイアンツの野球報道で知られる報知新聞が過去こんなにも太平洋横断飛行への情熱を燃やしていた事実に敬意の念を抱く思いがする。

アメリカ人による太平洋横断飛行

 昭和6年は報知新聞の「報知日米号」以外にも太平洋横断飛行が試みられていた。
 5月31日、アメリカ人トーマス・アッシュがエムスコ単葉機「パシフィック号」で淋代を出発する際に離陸に失敗。9月8日に再び挑戦するが、今度はアリューシャン列島に不時着して断念した。その他プロムリー、ゲッティとアレン、モイルの二組も淋代から太平洋横断に挑戦したがいずれも失敗に終わっている。
 無着陸で太平洋を横断に成功したのは、皮肉にも報知新聞がユンカースWー33のフライトを延期した同じ月の昭和6年の10月4日であった。
 アメリカ人バングボーンとハーンドンのふたりは淋代海岸を離陸、北太平洋大圏コースで約7910キロ飛び、飛行時間41時間12分でアメリカのウエナッチに胴体着陸し太平洋無着陸の記録が達成された。

▼パングボーン機「ミス・ビードル号」
ミス・ビードル号

 この飛行機が胴体着陸した理由は機重を軽くするため、淋代海岸を離陸したときに車輪を切り離して捨てるという工夫がされていた。彼らに帝国飛行協会と朝日新聞社から賞金が渡されたことは言うまでもない。
 唯、この離陸が10月だったことを考えれば、もし「第三報知日米号」が離陸していれば、無着陸ではないにしろ太平洋横断の栄誉は日本人の手で達成されたかもしれないと考えたくもなる。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第8回 最後のキャプテンアナウンス

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「ハーレクイン8673。 コンタクト トウキョウ133.6」
(ハーレクイン8673便へ。以後は東京コントロール133.6へ連絡して下さい)
 ハーレクイン機が東京コントロール関東東セクターへ、ハンドオフされた。
 現在、午後7時20分。高度を一万メートルに上げて次のウエイポイント・サンスに向かっている。

三宅機長

 三宅機長は操縦をダウニングにまかせてキャプテンアナウンスの準備を始めた。
 現役最後のフライトで行われる機長のアナウンスは、一種の引退セレモニーのひとつである。人生には死を目前する臨終というものがある。自分の死がまじかであることを知ったとき、人間は死の恐怖、不安や生への、やるせない未練にさいなまれる。それら一つ一つを、一日一日、苦労しながら自分の中に納得させる孤独な日々の連続の果てに臨終がある。
 ラストフライトはパイロットの臨終である。三宅機長はこの一ヶ月、ひとり黙念として臨終に際したパイロットの気持ちを自分なりに整理。納得してきた。理屈では当然、理解しているが、自分の口から、引退することを公然と口にしなければならない最後の機長アナウンス、まさにパイロットの遺言ともいえる最後のアナウンスを前にして。いささか。心は乱れた。
 到着時刻は知っていますよね。と尋ねるネイヤー航空機関士の声が機長はぼんやりとした現実感の中で聞こえた。
「あ・・、わかんない」機長として目的地の到着時間を忘れる筈はなかった。でも、今はすぐには思い出せなかった。現実がまだ遠くにある。
「6時33分です」とネイヤーの声は優しかった。最後の機長アナウンスを前にして航空機関士が自分を気遣ってくれているのが三宅機長はひしひしと感じられた。
「ローカルタイムの・・ホノルルタイム?」ネイヤーがゆっくりと答えた。
「ローカルタイム、はい。スケジュールは55分」
 三宅機長がメモをとりながらふたたびアナウンスの原稿の作成を始めた。その間に、操縦を担当しているダウニング副操縦士役が東京コントロール関東東セクターを呼んだ。
 この関東東セクターは房総半島の東側の太平洋空域をレーダーで管制している。成田空港から太平洋へ向かう航空機は成田デパーチャー・コントロールから直接この管制へ引き継がれる。
「トウキョウ。ハーレクイン8673。ウィ アー フライトレベル330」
「ハーレクイン8673。ラジャー。リクエスト メイソン エスティメイト」
(ハーレクイン8673。了解。次の通過点メイソン(MASON)の予定到着時刻を知らせて下さい)
 レーダーで捕捉しているとはいうものの、洋上飛行ではトラフィックが混んでいるとき、管制官は航路上の航空機の間隔をコントロールする必要があるためにその飛行機が向っているウエイポイントの通過予定時間(ETA)を尋ねる。
「1109」標準時11時09分(日本時間8時09分)と、すかさずネイヤーが機関士の小さな机の上に広げている飛行プランに目を通し、ダウニングにメイソン到着予定時間を教えた。
「ハーレクイン8673。エスティメイテング・・メイソン イズ 1108」
 飛行プランで予測しているより、現在吹いている追い風のジェット気流は強く、それを考慮してダウニングが飛行プランより一分早い到着時間を報告した。
「あ・・。デイトラインは?」と今度は三宅機長がアナウンス原稿に必要な日付変更線(インターナショナル・ディトライン)の通過時間をネイヤーに尋ねた。
「1350」とネイヤーが再び飛行プランを見て標準時で答える。
 航路上で航空機関士は操縦こそしないが、ふたりのパイロットの仕事を補佐する秘書みたいな役どころもする。”何でも知っているとても便利なフライトエンジニア”。これが三人クルーの利点のひとつでもある。
「350ね。ホノルル時間で?」
「え? はい。350です」(はい。午前3時50分です)
 太平洋を隔てた日本とアメリカ西海岸の間にある東経180度線は日付変更線で、ここを越えると日付が変わる。その時間を今日のフライトでは標準時間で1350。ホノルル時間で朝の3時50分を予定していた。
 飛行プランのナビゲーションログを見て頂きたい。

▼ナビゲーションログ
ナビゲーション・ログ

 WP(ウエイポイント)のNO16のコーディネートの欄にはN28 00。E180 00とある。すなはち、このポイントはN北緯28度00分、E(東経)180度00分でここが日付変更線である。
 予定到着時刻(ETO)は1350と記入されている。これは標準時間の13時50分、ホノルル時間の0350(AM3時50分)の意味。しかし実際に到着した時間(ATO)は、その横に並んで手書きで記入されているが1348、すなはち13時48分で予定より2分早く日付変更線を越えている。
 余談になるが、今後気象庁ではこれらの航空機からの気象報告を気象予測に導入する計画がある。朝日新聞の記事によれば高度、風の状態、気温などを自動的に観測し地上に送信する装置を搭載している航空機は日本航空で70機、全日空は96機、日本エアシステムには42機あり、そのデータをオンラインで気象庁に送ることが検討されているという。
 三宅機長はアナウンスをする前に機内電話で、客室の宮嶋チーフパーサーにアナウンスする旨を伝えた。コックピットクルーは乱気流に遭遇した場合など緊急なとき以外は、必ず客室の状態をパーサーに確かめてからアナウンスをする。くつろいでいる乗客を不必要に妨げたくないからだ。

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★「最後の飛行」挿入14

※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

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「はい。機長からです。日本語のみでアナウンスをします」今日は日本人乗客だけなので英語のアナウンスは必要がなかった。三宅機長は宮嶋チーフパーサーに客室の状況を聞いてゆっくりとアナウンスを始めた。
「ご搭乗の皆様。今晩は。本日はハーレクインエア、ホノルルチャーターをご利用頂きまして誠に有難うございます。関西空港からクルーがチェンジしまして私が本日の機長、三宅でございます」
 この8673便は鹿児島発のホノルル行きである。鹿児島と関西空港の間は別のクルーによって運航されていた。
「また、副操縦士役をするのはダウニング機長。フライトエンジニアはネイヤー航空機関士でございます。関西空港を若干遅れて出発しておりまして、只今、左手、房総半島から東京の灯を見てこれから太平洋洋上に向かいます。只今の巡航高度は丁度一万メーター。現在、非常に強い西風を受けております。時速、大体280キロくらいの西風で、この飛行機の対地速度は1100キロ前後のスピードで飛行しております。これから日付変更線をホノルル時間の(午前)3時50分。ホノルル着陸予定は朝の6時33分の予定でございます。途中の天候でございますが、これからホノルルまでの間、約二個所ぐらい軽い揺れが予想されております。あと一時間ぐらいした所とまたホノルル着陸前の二時間ぐらいしたところに気流の乱れているところがございますが強い揺れはございません」
 一般的に機長が巡航中にコックピッでアナウンスする姿は傍目には頼りな気に映る。
 パーサーやキャビンアテンダントが客室で大勢の客を前にアナウンスをするときは、少なくともそれを聞く乗客と対座するのでアナウンスにも熱が入り、乗客の反応もわかる状態にあるが、機長がアナウンスする場合はコックピットの中で前方を向いて座り、目をときどきメモに移す他は、やり場なく視線を計器類や空に向けながら、まるで独り言を喋べっているように話さなければならないので、その姿はどことなく戸惑いの色が隠せない。
 三宅機長もこのとき客室にスピーカーを通じて流れている自分の最後のスピーチが乗客にどのように受け止められているのか皆目わからなかった。
 が、実際には、客室で機長の最後のアナウンスは歓声と拍手で迎えられていた。記念の機長サインを貰いたいとキャビンアテンダントに申し出る乗客も数多かった。
 そんな客室の状況も知らず、三宅機長は背を丸めて心もち淋し気にアナウンスを続けた。

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★「最後の飛行」挿入15

※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

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「ハーレクインエアではこのDC-10型機を使いまして国際線チャーターを二年半やっております。残念ながら3月29日にホノルルから日本に返りましてこの飛行機もリタイヤいたします。売れ先はノースウエスト航空です」

 三宅機長が後日、今回のラストフライトで最も嬉しかったことをこう話している。
「この飛行機(DC-10の)の受け渡しの時期を私のラストフライトに合わせてくれたことを会社にはとても感謝しています。『三宅が三月までだから、三月までは(DC-10を)使おう』という気持があったのかもしれない。それは私にとってみれば会社から良いプレゼントを貰ったという気がしますね」
 そして、ラストフライトを終えて鹿児島空港のロビーで社員一同に迎えられたときも、
「私のラストフライトを憧れのハワイ航路にセットして頂いたことを深く感謝しております」
 これらもひとえに彼の業績を物語るものであった。三宅機長はその業績により平成11年11月15日には黄授褒章を受賞している。

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★「最後の飛行」挿入16

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「私事になりますが」と三宅機長は一息ついてアナウンスを続けた。
「私事になりますけども、私もこの3月の28日、この旅行中でございますが60才の誕生日を迎えます。一応現役では定年ということになりまして、私の最後の現役でのフライトがこの飛行になります。さきほど最後の離陸をしましてホノルルで最後の着陸ということになります。この飛行のために私の家族や友人が搭乗してくれております。どうもありがとうございます」

 三宅機長夫人の由起子さんは東亜国内航空(現日本エアシステム)で約10年、スチュワーデス(現キャビンアテンダント)として空を飛んでいた。三宅機長との結婚を機に現役をリタイヤしたが、その由起子夫人も、長女の葉子さんと三宅機長の母親、三宅たけ子さん。それに由起子夫人のご両親ともどもこのフライトに同乗していた。
「主人は(三宅機長)はこのラストフライト(の日時)が決まったときから、母と私の両親を連れて行くつもりだったようです。私も娘も何度も主人のフライトには同乗しましたが、母も両親もこれが初めてだったものですから、とても感激しておりました」(三宅由起子夫人)

「ホノルルまでの間、本日は6時間37分という時間で飛行します。通常より早く到着いたします。途中、ご用の際はご遠慮無く客室乗務員までお申し出ください。本日はハーレクインエアのチャーターをご利用頂きましてありがとうございました」

 アナウンスの後、客席で拍手が鳴りやまぬ中、ご家族がハンカチで溢れる涙を押さえていたこともつゆ知らず、三宅機長は最後のアナウンスを終えて少し肩を落として紙コップに残っていた冷たいコーヒーを啜った。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第7回 三宅島から太平洋へ

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 ハーレクイン8673便は現在、高度29000フィートで順調に飛行をつづけている。
 左手後遠くに静岡から相模湾と東京の灯、そして房総半島の明かりが星空のように闇の中に浮かんでいる。
 この空域は成田空港や羽田空港、名古屋空港に離発着する航空機と一緒になり東へ向かう航路なので混雑し、管制官も飛行機の飛行高度を小刻みに調整している。その絶えまない交信がスピーカーから流れてくる

★「最後の飛行」挿入13

※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

トウキョウコントロール。ジャパンエア1092。リクエスト フライトレベル330」(東京コントロールへ。日本航空1092便です。高度33000フィートへ上昇の許可を願います)
 29000フィートで飛行しているハーレクイン機の後方下、27000フィートを飛行する日本航空1092便が、33000フィートへの上昇をリクエストする。
ジャパンエア1092。セイ アゲイン 360 コレクト?
(日本航空1092便へ。36000フィートですか?)
330 ジャパンエア1092」(33000フィートです。日本航空1092)
スタンバイ」と間をおいて東京コントロールは日本航空機に33000フィートへの許可を与えた。
ジャパンエア1092。クライム メインテイン フライトレベル330
メインテイン フライトレベル330 ジャパンエア1092
 現在、ユナイテッド810、続いてハーレクイン8673、次に日本航空1092が縦に並んで飛行している。まもなく三宅島だ。
グッドイブニング エアカナダ890 275 トゥ 290 リクエスト フライトレベル350
(東京コントロールへ。今晩わ。エアカナダ890便です。現在、27500フィートから29000フィートへ上昇中です。35000フィートへの上昇許可を願います)
 ハーレクイン機の後方を飛行する関西空港発バンクーバー行きのエアカナダ890便Aー340が、東京コントロール関東南Bセクターの空域に入ってきた。
エアカナダ890。グッドイブニング ラジャー スタンバイ」(エアカナダ890便へ。今晩は。そのまま待機して下さい)
 この時間は太平洋に向かう、又太平洋から飛来する飛行機が房総沖に集中しているので、管制官は慎重にコントロールを続ける。飛行高度の調整とともに今度は航空機のエア・スピードをコントロールする。
ノースウエスト27。メインテイン マックポイント85 デュー トゥ トラフィック」(ノースウエスト航空27便へ。航路上に他の飛行機がいるので、速度をマッハ0・85で維持してください)
 管制官がジェット旅客機のエア・スピードを指示する場合は、高高度の巡航中はマッハ数で伝えるのが普通である。(アプローチや上昇中のコントロールはノットを使用)
 ノースウエスト機の「マックポイント0・85」とは、音速を1・00に対する速度比でその85%を意味する。
 マッハ速度は亜音速、サブソニック(マッハ数0・75以下)と還音速、トランソニック(マッハ数が0・75から1・25ぐらい)、そして超音速、スーパーソニック(マッハ数が1・2から5・0)、その上の極超音速、ハイパーソニック(マッハ数が5・0以上)で表わされる。旅客機の場合は製造会社と使用する航空会社がその飛行機の運用限界速度を定めている。
 例えばハーレクイン機のDC-10の飛行中の最大運用限界速度はマッハ0・88(375ノット)と定められ、安全のためそれ以上の高速運航は禁じられている。
 管制官はノースウエスト機の次に成田空港からマニラへ飛行しているエジプト航空機にも速度制限をする。
エジプトエア865。リバース メインテイン フライトレベル350 オールザウエイ アンド メインテイン マックポイント84 ゴー アヘッド
(エジプト航空865便へ。飛行高度35000フィートを維持し、飛行速度マッハ0・84で飛行して下さい)
エジプトエア865。メインテインニング350。アイ アム ゴーイング トゥ 84」(エジプトエア865便です。飛行高度35000フィートを維持し、マッハ0・84にします)
 「マッハ」とは1887年に世界で最初に音の衝撃波を記録したオーストリアの教授エルンスト・マッハの名をとって速度単位として命名された。マックはそのアメリカ発音である。
 三宅島の手前でダウニング副操縦士役が管制官を呼んだ。
トウキョウ。 ハーレクイン8673。リクエスト
(東京コントロール。こちらハーレクイン8673便です。リクエストがあります)
ゴー アヘッド」(どうぞ)
ハーレクイン8673。リクエスト イズ ア ディレクト スモールト オア ディレクト サンズ
(ハーレクイン8673便です。ウエイポイント・スモールト(SMOLT)もしくは、サンス(SUNNS)に直行したいのですが?)
ハーレクイン8673。クリア ディレクト サンズ
(ハーレクイン8673へ。サンに直行を許可します)
 サンズ(SUNNS)は房総沖約50マイルの海上にある飛行ポイントでハーレクイン機が通過予定の八番目のウエイポイントである。

▼飛行地図と飛行プランのナビゲーション・ログ(クリックすると拡大します)
ナビゲーション・ログ

 三宅島が五番目のウエイポイントなのでサンスに直行出来るということは、六、七番目のポイントに迂回する必要がなく距離が短くなる。それは同時に燃料の節約につながる。 民間航空のパイロットのグッド・フライトには安全快適な飛行の次に燃料節約という経済性が重要な要素となるのだ。
グレイト!」と声をあげるネイヤー機関士。
8番」とダウニングも嬉しそうに三宅機長に報告した。
 このフライトで搭載した燃料は予備の燃料をあわせて15万ポンドである。(飛行プラン参照)そして実際にホノルルまでのフライトで消費した燃料は11万1420ポンドだった。搭載燃料にはリザーブフェル(航空法に定められた予備燃料)とエキストラフュエル(悪天候などを想定した予備燃料)、オルタネートフュエル(代替空港、ホノルルに着陸出来ない場合の代わりの予定空港までの燃料)など使用しなかった燃料もあるのでそれを差し引いても、約15000ポンド以上はこのフライトで節約していることになる。
ジャパンエア1092。クリア ディレクト バッキー」」
(日本航空1092便へ。バッキーに直行して下さい)
 管制官はハーレクインのあとを飛ぶホノルル行きの日本航空機にも同じ許可を与えた。
 いよいよ太平洋飛行が始まった。
 三宅機長は先ほどから後方に消えて行く陸地の灯をじっと見つめている。その脳裏にはこれまでの長く、そして瞬く間に過ぎたパイロット人生が走馬燈のように映っているに違いなかった。

三宅機長のパイロット人生

 三宅機長は日本国内航空時代、昭和41年から二年半、沖縄の南西航空に出向している。

「あのころは副操縦士としてコンベア240やYS-11に乗ってました。あるとき、コンベア240で南大東島に飛んだときね。そのころの南大東島の滑走路はまだアスファルトじゃなくてね。コーラル、珊瑚礁を敷き詰めてローラーをかけただけの滑走路でそこへ飛行機を降ろしたんですが、着陸してリバースかけたとき砂煙がわっと上がると、その煙の中で何か黒い鳥みたいなものが飛んだなと思ったんです。
タクシーしているときも路面がガタガタだから気がつかない。それで飛行機をとめてお客さんを降ろしたら、農家のひとが落とし物ですよ、と何か黒いものを持ってくるんですよ。よく見るとそれは飛行機のタイヤだったんですよ」

▼コンベア240
コンベア240

 そしてこんな苦労話もしてくれた。
「当時、沖縄は返還前でまだアメリカでしたから、ATC(航空管制)はアメリカ人がやっていたんですよ。副操縦士として管制官と交信するのですが何言っているのかわからない。それでアメリカ人の管制官と酒飲みにゆきましてね。必死で英語を覚えましたよ。高い月謝だったよね」

 当時の飛行はスリル満点でもあったようだ。
「沖縄は本土と違って琉球レギレーションだったんですよ。アメリカ航法でね。面白かったですね。例えば与邦国島の場合ですが、滑走路のすぐ向こうに丘があってそこに高い煙突があってね。YS-11だったんですが、そのプロシージャーはね。離陸してノーズアップしてギャ・アップ、上がったらすぐ左旋回して海に逃げるんです。日本の航空法ではとても飛べる状態ではなかったですね。
でも、楽しかった。あるとき島に着陸しようとしたら滑走路に牛がいるんですよ。目の前をとつとっと、と走っていくんです。これは駄目だな、と観念したんですが、牛が横へいったので何とか降りちゃいました」

 三宅機長は昭和45年でYS-11の機長になる。YSの飛行時間は5243時間。その内、機長として飛んだのは3241時間という。(コンベア240では約2000時間)

「台風の中でも平気で飛んだしね。YSは自分の身体の一部みたいだった。どんな状態でも絶対に墜落させない自信がありましたね。でも、あのプロペラのコントロールは難しかったな」

▼YS-11
YS-11

 その自信があるYSの乗務で最も辛かったのは深夜便だったという。

「深夜便は東京から千歳、福岡に夜飛ぶのですが、あれは眠かったですよ。夜一時頃離陸して朝着くのですが、で、今の飛行機はオートパイロットがついているので、多少、居眠りしても大丈夫なんですけどね。その頃はオートパイロットがついていなかったものですから、夜中になると眠くなるんです。それで副操縦士の顔を見るとね。やっぱり眠そうな顔して目をつむっているんですよ。起こすのは可哀想だなと思っているうちに自分が眠くなって。すると飛行機の高度が下がり始めて傾いたりするんです。しかしエンジンの音が微妙に変わってそれで目が覚めるんですよ」

 昭和46年5月に会社が合併して東亜国内航空(TDA)になると、三宅機長はDC-9のライセンスを取得する。昭和49年10月11日であった。
 そしてその後DC-9の路線教官や査察パイロット、飛行教官を勤めるが、彼はこのときDC-9(MD-80)で始めて太平洋を渡る経験をする。これが彼が国際線を飛ぶひとつのきっかけとなった。
 東亜国内航空は国内線だけだったので、日本航空や全日空の国際線を横目にみながら社員は、「いつかは国際線に」と未来の夢を持っていた。
 とくにパイロットは離着陸回数が多い国内線で鍛えた操縦の腕前は、他の航空会社には決して負けないという自負に満ちあふれていた。
 当時ダグラス社から飛行機を購入するとダグラス社が依頼したパイロットがその飛行機を日本まで空輸して日本でデリバリーするのが普通であった。将来の国際線へ備えて自社の飛行機は自分の手で外国から運ぼうという機運が、東亜国内航空の社内に生まれたのは当然の成り行きであった。それが国際線への現実的な第一歩につながると信じていたからである。
 DC-9のデリバリーにつづいて、東亜国内航空が初めての大型旅客機としてエアバス・インダストリー社からAー300B2を9機を購入した昭和55年11月27日、フランスのツウールーズから南回りで羽田まで第一号機を自社のパイロットが空輸した。
 それは東亜国内航空のパイロットにとっては初めて経験する本格的な国際フライトであった。

▼DC-9
DC-9

 フランスからエーゲ海、アラビヤ半島を横断しインド洋、東南アジアから香港、そして日本へ2万キロを越えるフェリーフライトで、運航に携わった東亜国内航空の社員たちは国際線の貴重なノウハウを得た。
 三宅機長も前述したようにMD-80をアメリカ西海岸のロングビーチにあるダクラス社から東京までの空輸するチームに参加している。そのときのフライトを次のように話っている。

「ロングビーチで訓練を受けてね。そこからホノルル、ウェーキ、グアム経由で羽田まで運びましたよ。うちの飛行機は国内線仕様だから短距離機でしょう。それにINSも付いていなかった。それで客室にバグタンクといって予備燃料を積みましてね。そして運んだ。INS(慣性航法装置)は仮設して飛ぶんですが、いちいちINSで算出したヘディングをオートパイロットに手動で入れてね。それは苦労しましたよ」(三宅機長)

 当時、東亜国内航空の飛行機にはAー300を除きINSは装着されていなかった。国内だけの使用に限ると航法はVORやADFで充分だったからである。
 INSが装着されていると、INSで算出された機首方位などのデータが直接、オートパイロットに連動されるので、ハーレクイン8673のようにウエイポイントを飛行機自体がトレースして飛ぶが、三宅機長がフェリー(空輸)したMD-80の場合はそれが連動していないので、INSの方位が変わるたびに手動で飛行機の方位を変える必要があった。
 例えばカー・ナビを搭載した自動車みたいなもので、方向はナブに表示されるが、そこへ行くには自分でハンドルを切らねばならないのと同じ状態と考えればわかりやすい。  それにMD-80は国内線短距離仕様なので燃料タンクが小さい。
 ヨーロッパから日本までAー300の空輸のときもステップ バイ ステップで小刻みに離着陸を繰り返しながら飛行した。例えばアラブ首長国のアブダビからバンコクまで飛行するのに長距離機ならノン・ストップで飛行可能であるが、短距離仕様のAー300はそのときインドのボンベイに着陸して給油するなど苦労があった。

▼A300
A300

 MD-80の場合、北太平洋コースでひとっ飛びにアメリカ西海岸から日本までフライト出来ないので、ロングビーチから約4000キロの洋上を飛行してホノルルへ、あとは島を伝って給油を続けながら日本までフェリーするというアドベンチャーフライトになったのである。(三宅機長のDC-9の飛行時間は7500時間)

「あのときね。ロングビーチからホノルルまでの洋上飛行をするとき、かなり北を回わるフライトプランでね。迎え風で強く、燃料がなくなりかけてひやひやしましたよ。たしかホノルルに着陸したときは2000ポンドぐらいしか残っていませんでした」(三宅機長)

 その後、東亜国内航空が日本エアシステムと名前を変えて国際線に進出するために国際線仕様のDC-10ー30を2機購入したとき、三宅機長はMD-80からDC-10に移る。そしてソウルの他にシンガポール5年、ハワイ3年の各定期路線で活躍した。
 そしてハーレクインエア設立と同時に取締役として移り、前述したようにDC-10で世界中を飛び回っている。(三宅機長のDC-10飛行時間は4700時間)
 19500時間という三宅機長の飛行時間が、長い時間かけて少しづつ累積された財産のような時間であり、一人の人間が歩んだ貴重な道のりであることは間違いない。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第6回 三宅島上空へ

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 ハーレクイン機は紀伊半島の御坊(GBE、ウエイポイントNO3)を過ぎて串本(KEC、ウエイポイントNO4)へ向かって機首方位173度で上昇を続けている。

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★「最後の飛行」挿入12

※「▶」の再生ボタンをクリックすると航空サウンドが流れます

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 紀伊半島の東でハーレクイン機は、関西ディパーチャー管制から上空をコントロールする東京コントロール紀伊セクター133.5に引き継がれた。
トーキョー・コントロール。ハーレクイン8673。パッシング170 クライミング フライトレベル 200
(東京コントロールへ。こちらはハーレクイン8673です。現在、高度17000フィートを通過。高度20000フィートへ向けて上昇中です)
ハーレクイン8673。トーキョーコントロール。ヘディング100 フォー ベクター トゥ ミヤケジマ アンド クライム トゥ メインテイン フライトレベル250 アンティル ファーザー アドバイス
(ハーレクイン8673へ。こちら東京コントロールです。三宅島までレーダー誘導します。機首方位100度で高度25000フィートまで上昇し、指示するまでその高度を維持して下さい)
 ダウニングが復誦すると三宅機長は方位を100度にして、串本の手前でNO5のウエイポイントである三宅島(MJE)へDC-10の機首を向けた。ゆっくりと機体が左へ旋回する。左手には紀伊半島東端から名古屋に広がる街の明かりが視界に入ってきた。
 房総半島の東洋上に位置する三宅島は成田空港から、あるいは関西空港からアメリカに向かう航空機の主要な通過点であり、逆に房総半島から成田空港へ着陸する航空機の進入ポイントにもなっている。しかも現在午後七時を過ぎで、この時間帯は紀伊半島沖から房総半島を結ぶ太平洋側の空域は東南アジアからの主要航空路A1(アンバー・ワン)を飛来して房総半島から成田へ向かう便も集中して交通量が多いのだ。
ジャパンエア6646。クライム プレゼント・ポジション クライム トゥ ダイレクト ミヤケジマ レスト オブ ルート アン チェンジ
(日本航空6646便へ。現在地から三宅島へ向けて直行してください。その後のルートは変わりません)
クライム プレゼントポジション ダイレクト ミヤケジマ レスト オブ ルート アン チェンジ ジャパンエアー6646
 南の洋上からA1(アンバー・ワン)でシンガポールからバンコク、ホンコンを経て成田空港へ向っている日本航空6646便貨物便の交信につづき、ノースウエストのカーゴ便が三宅島を通過した交信が入る。
トウキョウ。ノースウエスト906。フライトレベル330 パッシング ミヤケジマ」(東京コントロールへ。ノースウエスト906便です。現在、三宅島です)
トウキョウ・コントロール。ラジャ」(東京コントロール。了解)
 関西空港を離陸してハーレクイン8673便のあとを飛行している日本航空1092便、ホノルル行き臨時便が東京コントロールの空域に入った。
トウキョウコントロール ジャパンエア1092。グッドイブニング。リービング1634 トゥ 200
(東京コントロールヘ。こちらは日本航空1092便です。今晩わ。高度16340フィートを通過して高度20000フィートへ上昇中です)
ジャパンエア1092。トウキョウコントロール ラジャ。フライヘディング 120 ベクター トゥ ミヤケジマ
(日本航空1092便へ。こちら東京コントロールです。了解しました。120度方位で三宅島へレーダー誘導します)
ジャパンエア1092。ヘディング120
(日本航空1092便です。方位120度)
ジャパンエア1092。クライム トゥ メインテイン 230 アンティル ファーザーズ アドバイス
(日本航空1092便へ。高度23000フィートへ上昇して、指示を待って下さい)
 その間にハーレクイン8673便は、高度24000フィートに達した。高度警報装置のブザーが鳴り指定高度25000フィートが1000フィート内に近づいたことを知らせる。
 コックピットは離陸の緊張がとれてほっとした雰囲気になる。
ヘディング(機首方向)110?(三宅島までの機首方向のこと)」三宅機長が紙コップのコーヒーを手に取ってネイヤーに声をかけた。
いえ。100(度)です」とネイヤー機関士。
 あ、汚れちゃった、と三宅機長が口にしたコーヒーでパイロット用の白い手袋にしみをつくったことを苦笑しながら、ゆっくりとタバコに火をつけた。
 愛煙家の三宅機長は昭和15年3月28日に千葉県茂原市の郊外で生まれた。実家はお寺である。高校の頃は絵が好きで美術の教師を志すが、もともと海に魅力を感じていた彼は船乗りを目指して水産大学に進んだ。
 しかし折しも造船業界の不況で大学三年生のとき航空大学を受験する。これが三宅機長を空に向かわせたきっかけとなった。
「ロマンチストなんですよ。今も海が好きでね。フライトがない日は船で海に出ています」と三宅機長は精悍に日焼けした顔をほころばせる。現在は神奈川県葉山に住みクルーザーで暇さえあれば海を楽しむという。
 しかし美術の教師志望の青年が水産大学へ。そして水産大学から航空大学に転身したことは、ロマンチストの中に夢だけを追わない常に冷静に現実を見据える現実感覚が生きづいている。それが彼を優秀なパイロットにした要因のひとつなのだろう。
 三宅機長は昭和三十九年に航空大学卒業と同時に日本国内航空に入社する。
 当時、日本国内航空を始め日本航空、全日空、東亜航空など大小の航空会社があって日本の航空業界はアメリカの影響下から離れてやっと独立の様相を見せていた。
 ここで日本の民間航空の歴史を振り返ってみるとそのときの状況がわかりやすい。

日本の民間航空の歩み

 大正の終わり頃から昭和の初めにかけては、単発機で郵便輸送と若干の乗客輸送を始めていた川西飛行機が経営する日本航空(現日本航空とは無関係)と朝日新聞社経営の東西定期会など小規模な航空会社があった。
 しかし当時、朝鮮半島や満州(現中国)に国勢を伸ばそうとしていた政府の肝入りで、それら民間の航空会社が開拓した路線を踏襲して、1928年(昭和3年)10月30日に国策会社といわれた日本航空輸送株式会社が設立され営業を開始する。
 そして翌年の7月には東京ー大阪ー福岡間の国内線をデイリーで1往復、週6往復飛び東京-大阪の所要時間は2時間30分でその料金は30円だった。
 9月には福岡から朝鮮半島の京城(現ソウル)、平壌(現ピヨンヤン)そして満州の大連を結ぶ定期路線で週3便の営業を開始した。
 このときが日本に於ける民間航空の本格的始まりとされている。
 使用機はフォツカー・スーパーユニバーサルという高翼単発機で、ドイツ人のフォッカーが設計しアメリカで製造したこの飛行機は、飛行速度は時速150キロ、客席が六席の旅客機である。

フォッカー・スーパーユニバーサル
フォッカー・スーパーユニバーサル

 当時はまだ羽田空港がない頃で、東京は立川飛行場を飛び立っていた。(羽田空港は昭和6年8月に完成、「東京飛行場」と呼ばれた)
 その後、ダグラスDCー2(日本仕様乗客定員12名)、そして1936年(昭和11年)に製造されたDCー3双発旅客機か開発されると日本では日本航空輸送株式会社が輸入し最初DC-3を「桜号」と名付けて昭和13年10月に就航させている。

DC-2
DC-2

DC-3
DC-3

 東京-上海の日華定期便として就航、6時間30分で飛んで当時の新鋭快速旅客機として話題になった。乗客定員は21名で乗員は操縦士と副操縦士、航空機関士とナビゲーターの航空士の4名。それと当時の呼び名は「機上女子接客員」呼び名でキャビンアテンダント一名が同乗している。
 ちなみに日本におけるキャビンアテンダントの呼び名の歴史は、昭和6年3月に東京大森海岸から伊豆経由の静岡県清水の間に水上旅客機の定期便が開設され、それを運航した東京航空輸送社ではキャビンアテンダントを同乗させ「エアガール」と呼んだ。これが日本最初のキャビンアテンダントの誕生である。その後、前述した昭和13年の日本航空輸送株式会社の呼び名は「機上女子接客員」で、戦後、「スチュワーデス」という呼び名に変わった。そして現在は「キャビンアテンダント」であるが、呼び名の変遷をみてもみるだけでも航空史を感じる。
 ダグラス社と中島飛行機、昭和飛行機製造の間でDC-3のライセンス製造が提携されると、日本でもDC-3を製造するようになり(日本名 零式輸送機))輸送力が格段にアップして、1938年(昭和13年)以降は中国、台湾、満州など大幅に路線が拡大された。又、DC-3以外にもロッキード・エレクトラが使われていた。ロッキード・エレクトラといえば1937年(昭和12年) に南太平洋上で消息を断ったアメリカの有名な女性飛行士アメリア・イヤハートの愛機として知られている双発の旅客機である。

ロッキード・エレクトラ
ロッキード・エレクトラ

 1939年(昭和14年)になると、日本航空輸送株式会社を発展的に解消し、より政府色の強い大日本航空株式会社が発足する。三宅機長が生まれる一年前である。
 路線は中国、満州からパラオ、サイパンなど南方諸島にまで拡大した。

 ここで面白いエピソードをご紹介しよう。全日空の名機長として高名な神田好武機長が語った想い出話である。彼は大日本航空株式会社でパイロットとして活動を始めた。その当時、大日本航空には福岡から沖縄那覇経由、台北行きという内台定期航路があった。使用機はDC-3で台北から那覇に戻る途中、雲中飛行になり那覇の位置が分からなくなってしまった。それで雲の下を飛行して沖縄の島を探すことになったが500メートルまで降りても雲が切れず、300メートルまで下降するとやっと海が見えてきた。その高度で周囲を見ても島影はなかった。燃料は底をつきコックピットでは焦りの色が見え始めていた。
 そのとき、一隻の大型漁船を発見する。このままあてなく飛んでも危機は増すばかりなので、その漁船の横の海上に不時着して救助してもらうことを考えて、低空で燃料がつきるまで漁船の上をぐるぐると旋回を続けた。最初、漁船の看板にいた船員が飛行機に手を振っていたが、あまりにも何度も船のまわりを旋回し続けるので、やっと船員は、この飛行機は道に迷っているんだ、と気づき那覇方面を指した。神田機長はその方向に機首を向け飛行すると幸いにもすぐに沖縄本島が見えたという。那覇空港に着陸する寸前に燃料切れ、あとは滑空で無事、那覇のランウェイに着陸し事なきをえた。漁船に助けられたのは初めてだよ、と神田機長は想い出話をくくっている。

 日本とヨーロッパを結ぶ「幻の国際定期路線」の計画があったのもこのころである。
 当時、満州を中国から独立させた日本政府はソビエトやイギリス、アメリカとの関係悪化で次第に国際的に孤立化を深めていた。それでドイツと友好関係を結び、航空路を東京からベルリンまで中東、中央アジア経由で結ぼうという壮大な計画が両国で立案されていたのである。
 話は遡るが昭和7年11月3日に日本政府、とくに日本軍部は満州に満州航空株式会社を設立していた。その満州航空とドイツのルフトハンザ航空の間で、「国際定期路線、欧亜連絡定期航空」の計画は秘密理に進められていた。
 その協定書の一部を紹介すると、

第一条 両締結者(満州航空とルフトハンザ)は本協定を第三者に対し、厳に秘密を保持する義務を有す。
第二条 本協定の目的はベルリンーロードス(ギリシャ、ロードス島のこと)ーバクダッドーカブールー安西ー新京ー東京の線に予定せられたる航空路により、東京ーベルリン間の共同定期航空を設定するに在り。

 これは全八条からなる締結書で、昭和11年11月25日に結ばれている。
 この計画はその後の両国の事情で実現しなかったが、これは日本最初の国際航空協定であった。
 第二次世界大戦が始まると、民間航空は軍により規制を受け軍管轄下で軍事輸送などの業務が主体となる。そのときの運航の指針は次のようなものであった。

<非常時運航要領>
(1)陸上線運航は二分の一を軍用に供し、残部を以って必要なる定期航空を存続す。
(2)海洋線運航は情勢により全部を軍用に供するか、又は全部を以って定期航空を存続す。

 戦況が悪化するにつれて民間航空は本来の役目を果たせず戦後を迎える。

 昭和20年8月15日の終戦から、対日平和条約(サンフランシスコ条約)が結ばれる昭和26年9月8日までの約6年間は、全面的に日本の民間航空業務は禁止された。
 戦後、官民合同で日本航空株式会社(現日本航空の前身)が設立されたのは昭和26年8月1日であった。
 その年の10月25日、戦後最初に飛んだ定期航空便は日本航空のマーチン202型旅客機(定員36名。双発プロペラ旅客機)の「もく星号」である。
 当時は日本人パイロットもいなくて日本航空がノースウエストからの機材人員とものウェットリースで運航を開始した。機材はマーチン202機を2機とDC-4(定員60名。双発旅客機)1機の合計3機の運航であった。
 もく星号の初便はアメリカ人の機長と副操縦士。キャビンは日本人パーサーとスチュワーデスの2名、乗客36名でまだアメリカ軍の基地としてその管轄下にあった羽田空港(日本に正式に返還されたのは翌年昭和27年7月1日で2160メートルのA滑走路と1650メートルのB滑走路がアメリカ軍の手で完成していた)から伊丹飛行場(現大阪空港)板付飛行場(現福岡空港)まで運航された。

マーチン202
マーチン202

 そのときの巡航高度は6000フィート、速度は約300キロ、大阪までの所要時間は1時間41分、福岡まで約4時間かかった。三宅機長が11才のときである。
 日本人機長が生まれたのは、その3年後の昭和29年11月になる。そして本格的に民間航空の時代が訪れる。
 その年には相次いで民間航空会社が誕生する。2月に日本ヘリコプター輸送株式会社(当時は日本航空からデハビランド・ヘロン機をチャーターして東京と名古屋、大阪間を運航)、3月には極東航空株式会社(デハビランド・ダブ機で大阪、岩国間の定期便を運航)が運航を開始する。
 昭和32年12月1日に日本ヘリコプター輸送、翌年の2月27日に極東航空が合併されて全日本空輸株式会社が発足した。
 DCー3やフォッカー・フレンドシップ、コンベア220、440などが日本の空に就航したのもこの頃である。
 その後、日本国内には大小の定期、不定期の航空会社が生まれた。北日本航空、富士航空、日東航空、東亜航空、そして後に三宅機長が出向することになる南西航空(現JTA)などである。
 昭和38年12月25日、北日本航空と富士航空、日東航空の三社が合併して日本国内航空株式会社が誕生し、三宅機長はその翌年の8月に入社している。
 そして昭和46年5月15日に日本国内航空と東亜航空が合併して東亜国内航空となり、昭和63年4月1日に国際線進出を機に日本エアシステム株式会社と社名を改めた。
 その日本エアシステムは平成9年1月20日に国際線チャーター部門を独立させてハーレクインエアが発足する。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第5回 最後のテイクオフ

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関西国際空港タワー管制

 年間離発着回数が15万回近い日本の玄関、関西国際空港の夜はラッシュ時間を迎え、離着陸機で混雑していた。しかし、関西空港のランウェイは一本しかない。離陸と着陸は同じ滑走路で行われる。その滑走路へ離着陸する航空機をタワー管制の女性管制官がひとりでコントロールしている。

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★「最後の飛行」挿入09

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ジャパンエアー792 イクスペクト ランディング クリアランス オン ショートファイナル。ウィ ハブ ディパーチャー MD-80
(日本航空702便へ。ショートファイナルで着陸許可をする予定です。滑走路には出発するMD-80機がいます)
ジャパンエア702 カンサイタワー イクスペクト ランディング クリアランス オン ショートファイナル
 管制官が再び、香港から18時55分に着陸予定の日本航空機にクリアランスの交信をした。進入機にたいして一本しかない滑走路の使用状況を送り、その確認も管制官にとっては必要なのであった。
ラジャー 702」と答える日本航空の交信を聞きながら、三宅機長は滑走路上空を見上げた。暮れゆく空の中で旋回しながら進入する航空機の着陸灯が弧を描いて見える。そんな夜の空港の風景は過去、何度も見慣れたパイロットの風景のひとつであった。が、今夜は少し違っていた。パイロットの見る風景というより、ひとりの人間としての感傷的な、視線で色彩感に満ちた空港の風景をしみじみと見ている自分に気が付いて思わず、機長は苦笑していた。
エアシステム525 タキシー イン トゥ ポジション アンド ホールド ランウェイ24」(日本エアシステム525便へ。滑走路24の離陸位置へタキシングして待機して下さい)
ジャパンエア702 ターニングベース」(日本航空702便です。現在ターニングベースです)
 最終着陸体制の日本航空機が管制官に現在位置を知らせた。
 ハーレクイン機も滑走路24に向かっている。
 ハーレクイン機の後には日本航空のハワイ行き臨時便1092便が並び、前方には日本エアシステム525便が滑走路上に、上空から日本航空702便が最終の進入体制に入り、沖縄発の関西空港行き全日空496便が今、滑走路24に着陸した。
 管制官は到着したばかりの全日空ボーイング767に着陸後の指示をする。
オールニッポン496 ターン ライト ロメオ4 コンタクト グランド121.6」(全日空496便へ。滑走路から右へ曲がり、誘導路のR4に進んで下さい。以後はグランドコントロール121.6に交信して下さい)
  ハーレクイン機も滑走路に近づいた。ダウニング副操縦士役がマイクを取って管制官を呼んだ。
カンサイタワー。ハーレクイン8673 イズ レディ フォー ディパチャー
(関西空港タワー管制へ。こちらハーレクイン8673便です。離陸用意完了しています)「ハーレクイン8673。カンサイタワー ホールド ショート オブ ランウェイ
(ハーレクイン8673便へ。関西タワーです。滑走路末端で待機して下さい)
 そして管制官は福岡に向かう日本エアシステムMD-80機に離陸の許可を出した。
エアシステム525。ウィンド 330 アット 16 クリアー フォー テイクオフ ランウェイ24
(日本エアシステム525便へ滑走路24から離陸を許可します。風(滑走路上の)は330度から16ノットです)
エアシステム525。クリア フォー テイクオフ
(日本エアシステム525便、離陸します)
 続いて管制官は最終進入をしている香港からの日本航空702便に着陸の許可を与えた。
ジャパンエア702 クリア トゥ ランド ランウェイ24 ウィンド 320 アット 13」(日本航空702便へ。滑走路24への着陸を許可します。現在、風は(滑走路上の)320度から13ノットです)
 滑走路24の上に離着陸する飛行機が管制官の手によってあざやかにコントロールされてゆく。次に管制官は轟音を残して大阪湾の夜空に向かって離陸した日本エアシステム525便へ移管の指示をする。
エアシステム525。コンタクト カンサイディパーチャー119.2
(日本エアシステム525便へ。以後は関西ディパーチャー管制119.2メガヘルツへ連絡して下さい)
 MD-80が飛び去った滑走路24にすぐ、日本航空702便香港発のDC-10が着陸してきた。ハーレクイン機のすぐ前を通過して着陸する日本航空702便を見ながら、
「DC-10だな」と三宅機長が呟いた。
 日本航空のDC-10は、ー40タイプでハーレクイン機とは少しタイプが違うが、ハーレクインのDC-10が日本の空を去ったあとは、DC-10は日本航空の使用機のみになってしまう。三宅機長としてみれば感慨深いものがあったのだろう。
ハーレクイン8673。タクシー イン トゥ ポジション アンド ホールド ランウェイ24」(ハーレクイン8673便へ。滑走路24の末端に入って下さい)
 管制官がハーレクイン機を滑走路に入る許可を与えた。
 いよいよ三宅機長の現役最後の離陸が始まる。

ハーレクイン8673便の出発方式(SID)と離陸データ

 前にも簡単に触れたがハーレクイン8673便が離陸するにあたっての、出発方式(SID)と離陸データをここて詳しく確認しておこう。

1 出発方式(SID、スタンダード インストゥルメント ディパーチャー)

 大阪湾に浮かぶ海上空港である関西空港は滑走路は一本しかない。今日の離陸は使用滑走路は24である。すなはち南南西へ機首を240度に向けて離陸する。
 離陸すると飛行機はトモ第二出発方式(TOMO TWO DEP)を指定されている。トモ第二出発方式で滑走路24を使用する場合は、次のような飛行コースとなる。

TOMO TWO DEP
 PWY24・・CLIMB VIA KNE Rー243 TO 13・5DME。
        TURN LEFT TO TME。
        CROSS TME AT OR ABOVE 4000ft。
 これは関西空港の滑走路24を離陸し、右旋回(といってもほぼストレート)してラジアル243度で13・5マイル飛び、TME(トモDME/VOR)に至る。トモVOR/DMEとは和歌山と淡路島の間にある紀淡海峡の友ケ島にあるVOR/DMEである。 但し高度制限(離陸騒音規制の為)があって、CROSS TME。すなはちトモDME/VORの上を通過するときは、AT OR ABOVE 4000ft。4000フィート、もしくはそれ以上の高度を取らなければならない。
 だが、例えばニューヨークやサンフランシスコ、ヨーロッパなどへダイレクトに飛行するB-747やDC-10などの長距離飛行の場合は、離陸重量が重いときや風の状態によっては離陸して13・5マイルの距離では4000フィートの高度がとれないこともある。その場合は、迂回して距離をかせぎTMEへ飛行する、キタン ワン デパーチャー(KITAN ONE DEP)というSIDも定められている。

(KITAN ONE DEP)
RWY24…TURN LIGHT CLIMB VIA KNE R-263
     TO KITAN、TURN LEFT AND PROCEED
     VIA TME R-354 TO TME
     CLOSS TME AT OR ABOVE 4000ft

 キタン ワン デパーチャーは滑走路24を離陸して右旋回し、ラジアル263度でキタンポイント(大阪湾上のポイント)まで迂回して飛び、高度をあげながら左旋回してラジアル354度(機首方向174度)でトモVOR/DME(TME)を高度4000フィート以上で通過する。

 今日のハーレクイン機のフライトはトモVOR/DMEから先は、串本を経由して(クシモト・トランジション)で太平洋へ飛行するSIDである。

(KUSHIMOTO TRANSISON)
     AFTER TME、PROCEED VIA TME R-174 TO GBE、
     THEN VIA GVE R-136 TO KEC、
     CLOSS GVE AT OR ABOVE 6000ft

 トモVOR/DME(TME)を過ぎると機首方向174度で紀伊半島の御坊にあるVOR/DME(GVE)まで23マイルを飛び、高度6000フィートで御坊を通過。左旋回して44マイル先の紀伊半島の南端、串本にあるVOR/DME(KEC)まで機首方向136度で飛行し、串本から太平洋に出るコースを飛ぶ。
 以上、トモ2ディパーチャー クシモトトランジションが今日のハーレクイン8673便の飛行コースなのである。

▼ハーレクイン8673便の飛行ルート
ハーレクイン8673便の飛行ルート

▼チャート図
チャート図

2 離陸データ

 ハーレクイン8673便の離陸に関するデータ、テイクオフ・データは次の通りである。

テイクオフデータ

T.O.WT……………離陸時の総重量(テイクオフ・ウエイト)は462000ポンド。
T.O.MAX…………109.7% マックステイクオフパワーは109.7%
T.O.FLX……………Ⅲ101.8% 性能上、可能であればフレキシブルパワーを使う。
        今日はフレキシブルパワー(FLX)の選択がⅢということ。
CLM CL…………99.1%  クライムパワーは99.1パーセントの出力。
FLAP………………15度 離陸時のフラップ角度
STAB………………4.6 離陸時のスタビライザーの位置
SAFTY PICH…14度 安全上昇角度
V1…………………146ノット(時速)離陸決心スピード
VR…………………154ノット(時速)ローテーションスピード
V2…………………163ノット(時速)離陸安全スピード。
        離陸して35フィート上昇した時のスピード
FLAP RET………178ノット(時速)フラップを収納したフラップゼロスピード
SLAT RET………224ノット(時速)スラットゼロのスピード
0/RET MAN………258ノット(時速)フラップを上げ、
        スラットをリトラクトした最小速度。

ハーレクイン8673便は滑走路24へ

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★「最後の飛行」挿入10

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 ハーレクイン8673便はランウェイライトが星空のように輝く滑走路24に入った。
ビフォーテイクオフ チェック」離陸前の最終点検を三宅機長が指示する。
OK」とネイヤー航空機関士がチェックリストの項目を素早く読み上げた。

▼DC-10チェックリスト

DC-10チェックリスト

 夜の滑走路に着陸したばかりの日本航空DC-10のテールライトが見える。その飛行機へ管制官が呼び掛けている。
「ジャパンエア702 ターンライト トゥ ロミオ6 アンド コンタクト カンサイグランド 121.6 グッディ」
(日本航空702便へ。左にまがって誘導路R6へ向かって下さい。以後の交信は関西グランド管制121.6へ)
 コックピットから空を見ると、僅か濃い青が残っていた空も今は闇色に染まり、その闇の中に黄色と赤のランウェイライトが数千メートルに渡り帯びのように連なっている。一瞬の静寂。
 三宅機長は高まる緊張感の中で、DC-10で最後の離陸となるであろう夜の滑走路を注視した。

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★「最後の飛行」挿入11

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ハーレクイン8673。ウィンド 330 アット 14 クリア フォー テイクオフ ランウェイ24
(ハーレクイン8673便へ。風は330度から14ノット。滑走路24から離陸を許可します)
 管制官の声が闇に浮かぶ管制塔からコックピットに届く。
クリアー フォー テイクオフ ランウェイ24 ハーレクイン8673
(ハーレクイン8673便です。滑走路24から離陸します)
 ダウニングも多分、日本で最後になるであろう離陸クリアランスの復誦の交信をマイクに乗せる。ネイヤーも最後の点検を力強くコールして気持を集中させた。
オーケー。テイクオフ」三宅機長がスロットルを45%N1まで進めて、
45」とエンジンが安定しているのを確かめるとブレーキを外す。そしてスロットルをテイクオフの位置まで押し上げる。
 DC-10の三つのエンジンが力強く轟音をあげ、機体がランウェイをすべるように加速し始めた。
 滑走路のライトが流れる赤い線となって足下に消えて行く。
 エアースピード計の指針が上がる。
 ノーズが切る風の音。
 高まるエンジン音。身体に加わる加重。
 ダウニングの声が響いた。「80ノット クランプ!
チェック」と機長。ラダーペダルを踏んでセンターラインを維持する。
V1
VR」ダウニングがエアースピードを読み上げる。154ノット通過。
 三宅機長は操縦桿を引いた。機体が風を捕まえて浮き上がると路面を拾うタイヤのノイズが消えて風の音が強まる。
V2」163ノット通過。
ギヤ アップ!」機長の凛とした声が響いた。ダウニングがギヤレバーをあげるとゴロゴロとくぐもった音がして車輪が機体に収納される。空気の抵抗が少なくなったDC-10は速度を増した。眼下は暗い夜の大阪湾が広がっている。
プッシュ IAS」機長はFGSのインジケータースピードをセットした。DC-10は闇の中を紀淡海峡に向かって上昇を続ける。
ハーレクイン8673。コンタクト カンサイディパーチャー119.2。グッデイ
(ハーレクイン8673へ。以後、交信は関西ディパーチャー・コントロール119.2メガヘルツへコンタクトして下さい。さようなら)
 女性管制官が最後の交信をした。
 離陸すると管制エリアがタワーコントロールからレーダー誘導をする関西ディパーチャーコントロールに引き継がれる。
ハーレクイン8673。ディパーチャー119.2。グッディ
(ハーレクイン8673です。ディパーチャー管制周波数119.2。了解。さようなら) 関西空港の管制レーダー室のモニターにレーダー認識番号6013のハーレクインDC-10が紀淡海峡へ向かう機影が映っているのだろう。
クライムパワー(上昇出力)」と三宅機長が指示をする。最後のDC-10は夜の大阪湾を力強く上昇していった。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

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最後の飛行第4回に音源追加しました

こんにちわ!

取り急ぎご連絡です。
昨日更新した「最後の飛行」第4回なのですが、冒頭の音源がなかったと思います。
音源をひとつ追加しました。
すみませんでした…。

それと、今日はブックレビューなのですが。
夜の更新とさせてください(;;

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第4回 滑走路24ヘタキシング開始

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★「最後の飛行」挿入07

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 地上整備員がトーイング車両とタイヤ止めを機体から外し、DC-10が自力で地上走行をするために誘導路から障害物を取り除くのを待つ間、三宅機長は夜の空港を眺めた。
 周囲は風が強くなり、夜の濃い蒼色の戸張が急速に広がっている。その薄闇の中に空港の色とりどりのライトが輝く。
 今日まで取り立てて意識することもなかった美しい夜のエアポート風景が目に沁る。
アフター スタート チエック」(エンジン始動後のチェックを始めます)
 三宅機長はクルーと共にエンジン始動後の計器点検に移った。

▼アフタースタートチェックリスト図
アフタースタートチェックリスト

 点検が終わると、地上整備員から地上の準備が完了した報告がインターホンを通じてコックピットに告げられる。
「コックピット。グランド。 バイパス ピン リムーブド」
「リムーブド チョーク ディスコネクト インターホン」と機長はタイヤ止めと飛行機につながれていたインターホンのコネクターを取る指示をして、
「ご苦労さまでした」と地上整備員の労をねぎらった。そして地上走行(タクシー)の許可をもらうべく副操縦士に指示をする。
 スピーカーからはグランド・コントロールの管制官が他の飛行機にタクシーを許可する交信が流れている。
「カンサイ・グランド アンクエア792 ロミオ3 リクエスト タクシー トゥ スポット21」
(関西グランド・コントロールへ。アンクエア792便です。R3からスポット21番に向かって地上走行の許可を願います)
「アンクエア792。タクシー ヴィア リマ タンゴ3 スポット21」
(アンクエア792便へ。L、T3の標識を経由してスポット21に向かってください)
 大分から到着したエアーニッポン(コールサインはアンクエア)のボーイング737に管制官がスポットヘの誘導をする交信。続いて管制官は福岡へ向かう日本エアシステム525便MDー80にタクシーの許可をする。
「エアシステム525。タクシー トゥ ランウエイ24 ヴィア タンゴ2 リマ ロメオ ワン パパ」
(日本エアシステム525便へ。滑走路24へT2、L、R1、P経由で地上走行してください)
 そして交信の合間をぬってダウニングが関西グランド・コントロールを呼んだ。
「カンサイグランド。ハーレクイン8673。レディ トゥ タクシー」
(関西グランド・コントロールへ。こちらハーレクイン8673です。タクシーの用意が完了しました)
「ハーレクイン8673。タクシー ランウエイ24 ヴィア ウイスキー アルファ」
(ハーレクイン8673便へ。滑走路24へW、A経由で地上走行をしてください)
 地上走行(タクシー)の許可が出た。関西空港のエアポートチャートを見て頂きたい。
 現在、ハーレクイン8673便はノースウィング・ターミナルにあるスポット1の誘導路にいる。これから右回りにタキシングして、W地点、A地点を通って滑走路24に向かうのである。

▼関西空港エアポートチャート
関西空港エアポートチャート

 ダウイング副操縦士が復誦して窓から外を見て、右側(副操縦士側)に障害物がないことを確認してコールした。
「ライトサイドクリアー」
 機長も左側(機長サイド)を確認してパーキングブレーキを外し、滑走路に向けて地上走行を開始した。エンジンパワーが上がりハーレクインDC-10はゆっくりと自力走行に移った。
 地上の整備が一列に並んで遠ざかる飛行機に手を振っている。三宅機長もそれに応えた。
「整備には、めったに、パイロットのラストフライトが知らされることはないのですが、あの日は三宅機長がそうであることは知っていました。だから、心を込めて手を振ったのです。それと僕が好きな飛行機のひとつであるDC-10もあれが最後のフライトでしたから…」(日本エアシステム関西空港の橘吉昭整備員)
 後日、そのときの整備員のひとりである橘さんが感想を述べてくれたように、この三宅機長のラストフライトには、ダウニングが、そしてネイヤーが、このフライトを最後に退職することに加えて、もう一つのラストフライトが含まれていた。

最後の DC-10ー30日本でのラストフライト

 それはこのフライトの使用機JAー8551の機番をもつDC-10は、六日後の三月三十一日をもってノースウエスト航空に売却されることが決まっており、このハワイへの飛行がこのDC-10のハーレクインエア最後のフライトなのであった。
 1988年、日本エアシステムは予定されている国際線のためにダグラス社(現ボーイング社)よりDC-10ー30を二機購入している。その後、ハーレクインエア設立時にリースしてその一機は日本エアシステム塗装のまま残し、もう一機をハーレクインエアのオリジナル塗装に塗り替え現在に至っている。
 このDC-10について興味ある話がある。

▼エアシステムDC-10
エアシステムDC-10

 そもそもこの二機のDC-10はボーイング社に合併吸収されたダグラス社がアメリカ空軍の発注で製造したDC-10ー30タイプの最後の二機であった。ところが納入直前に突然のキャンセルを受け、それを日本エアシステムが購入したという経緯がある。
 二機のDC-10は日本で登録され機番がJA8550とJA8551となった。
 今日、ハワイへ飛ぶDC-10はその二機の内、エアシステム塗装の機番JA8551機である。すなはち、この機体がダグラスの名機として世界の空に羽撃いたDC-10ー30の最後の飛行機なのである。

▼ハーレクインDC-10
エアシステムDC-10

 三宅機長は1988年10月14日にDC-10の飛行ライセンスを取得以来、エアシステムの機長として、そして新会社出向後はハーレクインの機長として購入されたばかりの新しいDC-10を世界中に飛ばして来た。
 そしてやっと飛行機が空に馴染んだ今、彼は空を去り、飛行機も又、別の会社へと売却される運命にある。
 三宅機長も愛機とも呼ぶにふさわしい飛行機との決別は悲しいかぎりであったろう。
「DC-10が終わってしまう。JAS(日本エアシステム)に(DC-10が)入って来て国際線の花形として飛んでいたのが、このハワイへのフライトが最後で、三発の飛行機を使って太平洋を渡る国際線が出来なくなるのが淋しいですね。」と三宅機長は自分のラストフライトとともにダグラス社が製造した最後のDC-10が日本の空から去っていく寂しさをかみしめるのであった。

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★「最後の飛行」挿入08

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 ハーレクイン機は現在、誘導路を地上走行中でグランドコントロールの管制エリアにいた。関西空港では航空機を離陸させるまでに四つの管制機能がある。
 まず最初はフライトプランの承認をするデリバリー管制。次にランプアウトとエンジン始動と地上走行を担当するグランドコントロール。そして滑走路上で離着陸のクリアランスをするタワーコントロール。最後は離陸した航空機をレーダーで誘導するディパーチャーコントロールの順に変わっていく。
フライトコントロール チェック」(操縦装置の点検)
 三宅機長がタクシー中に地上で行う操縦装置のチェックをダウニングに指示した。
ラダー(方向舵) ライト。ラダー レフト」と機長がコールアウトして機長と副操縦士は、それぞれの側の操縦装置のテストを続ける。そして、
ノー アディション テイクオフ ブリーフィング」と離陸に際して追加する打合せがないことを確認すると運航課からカンパニー無線で連絡が入った。
カンサイ ゴーアヘッド」と機長はカンパニー無線に応答。ネイヤー航空機関士がマイクをとって運航課と交信を始めた。
ファイナルパッセンジャー アダルト 207 & インファント(三歳未満の幼児のこと)イズ フォー ノー コレクション オーバー」(最終乗客は大人が207名。幼児が4名です。変更ありません)
ラジャー ラジャー 207 プラス 4 コックピット ハーレクイン8673
ハブ ア ナイス フライト」と交信は終わった。
 三宅機長はタクシー中の計器点検を指示する。
タクシーチェック」(地上走行時の計器点検)

▼タクシーチェックリスト図
タクシーチェックリスト

 点検中に管制官が日本航空1092便にタクシーの許可を出し、続いてハーレクイン機を呼んだ。
ハーレクイン8673。コンタクト タワー 118.2
(ハーレクイン8673便へ。以後はタワー・コントロール 118.2メガヘルツへ交信して下さい)
 ダウニングが復誦してVHFの周波数をタワーコントロールに合わせる。ハーレクイン8673便は、離着陸をコントロールするタワー管制官に引き継がれた。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第3回 ハーレクイン機の出発

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ランプアウト

 管制承認を受領するとコックピットの雰囲気はがらりと変った。
 緊張感が生まれてクルーの無駄口がなくなる。彼らが体内に持っているパイロットとしてのアドレナリンが表面に現われて操縦室に充満するからだろうか。
「オーケー。オール ドア クローズド」とネイヤーが飛行機のすべてのドアが閉じられていることを確認すると、
リクエスト プッシュ バック」(プッシュバックの許可を管制官へリクエストしてください)と三宅機長はすぐプッシュバックの許可をえる交信をダウニングに命じた。
 プッシュバックとは、乗客の搭乗が終わり、出発に際してすべての用意が完了しているエンジン始動前の飛行機を、機首に接続した車両(トーイング・カー)で搭乗口から地上走行が始まるタクシーウエイに押出すことで、このときが飛行機の「出発時刻」となる。
 ダウニングがマイクのスイッチをオンにして関西空港の地上での航空機を管理するグランド・コントロール(関西地上管制)にプッシュバックの許可を得る交信を開始した。

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★「最後の飛行」挿入04

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カンサイ グランド。ハーレクイン8673 イズ レディ フォア プッシュバック、エンジンスタート フロム スポットナンバー ワン
(関西グランドコントロールへ。こちらハーレクイン8673便です。プッシュバックとエンジン始動の準備完了。現在、スポット1にいます)
ハーレクイン8673。プッシュバック アプルーブ ランウエイ24
(ハーレクイン8673便へ。プッシュバックを許可します。使用滑走路は24です)
 その交信を確認して、三宅機長はインターホンで自社の地上整備員を呼んだ。飛行機の真下に待機している整備員とコックピットは有線のインターホンで結ばれている。
グランド。コックピット。クリアー プッシュバック ランウエイ24
(コックピットから地上整備へ。滑走路24へプッシュバックの許可が出ました)
コックピット。グランド。リリース パーキングブレーキ」(了解。パーキングブレーキをはずして下さい)と地上整備がコックピットに呼び掛けパーキングブレーキが外された。
「リリース パーキングブレーキ OK 30」と機長が時間を確認する。午後六時三十分。いよいよ出発(ランプアウト)である。
 スピーカーからサンフランシスコへ向かうユナイテッド航空のB747ー400が一足先にタクシーに移る様子が聞こえている
ユナイテッド810 タクシー タンゴ・ワン パパ・スリー
(ユナイテッド810便へ。T1(タンゴ・ワン)、P3(パパ・スリー)を通って地上走行してください)

ハーレクイン最後の国際線フライト

 コックピットに宮島チーフパーサーが入ってきて、三宅機長にボーディングが完了した客室の最終報告をする。今日の乗客はプレミアムクラスが36名と幼児1名。エコノミークラスが170名と幼児3名で合計210名である。
 地上では機首に接続されたトーイング・カーがDC-10の大きな機体を押して、ハーレクイン8673便はゆっくりとスポットを離れた。
 今まで飛行機と搭乗口をつないでいたブリッジが収容され、その向こうに空港ビルの明かりが影になって遠退いてゆく。
「09・30ですね(標準時間の9時30分の意味。日本時間で午後六時三十分)」とメイヤーが時計を見て出発時刻を再確認した。
 その声も耳に入らぬ様子で、三宅機長はゲートと夜の空港ビルに視線を投げていた。
 もう、二度とハーレクインのDC-10でこの空港を出発することもないだろうという想いが彼の胸に満ちる。一瞬、三宅機長の横顔に深い淋しみが過った。
 もし三宅機長が日本エアシステムで定年を迎えていたとしたら、ラストフライトはもっと別の、個人的な感傷であったのかもしれない。しかし今の彼の胸中には個人としてのパイロットの感傷よりも、ハーレクインエアの運航責任者としての感慨が先にたっていた。
 日本エアシステムの国際線業務は1985年に始まった。だが順調に伸びていた業績も不況の波でブレーキがかかり、ハワイ、シンガポール定期便運航の休止を余儀なくされてしまう。以来、日本エアシステムは中国や韓国の定期路線以外の国際線展開をチャーター便運航に切り替えて、1997年1月。チャーターフライトを軸にしたハーレクインエアーを設立した。

 三宅機長は新会社に運航責任者(取締役)として入社し常に先陣を切った。
 チャーター便専用のエアラインとして世界の空を飛ぶ苦労は並大抵ではない。不定期な国際チャーターフライトは、定期便では考えられない数々の諸問題に遭遇する。
 とくにハーレクインエアの場合、ヨーロッパやオーストラリア、カナダなど日本エアシステムの国際線が路線を持っていなかった場所へのフライトには、飛行計画を作成するデーターなども路線を持つ他社から借りなければならない状態であった。
 しかも国際線の場合は飛行データー以外にも例えば、外国の上空を通過するだけでも事前に許可が必要になるし、前もって通過料金も支払わなければならない。
(一説では、日本からヨーロッパへシベリア上空を通過する場合のロシアへ支払う上空通過料金は、定期便週一便で一年間52週で約100万USドルといわれるほど高価である) それらの外国との折衝も骨の折れる仕事であった。かってKLMオランダ航空のチャーター便がシベリア上空にさしかかったとき、ロシア上空通過の認可が不備だったために、乗客を乗せたまま成田空港へ引き返した例もあるという。

 ハーレクインエアも1998年6月にワールドカップフランス大会へ乗客を運ぶために、初めてシベリア経由でヨーロッパにチャーター便を飛行させたとき、フインランド上空に差しかかると、突然、フィンランドから上空通過を拒否されたことがあった。
 飛行認可の確認が取れるまで、やむなくロシアのサンクトペテルブルク上空で待機させられて許可確認を待つという定期便路線を持つ航空会社では考えられないことも起きた。
 三宅機長にとって今日のフライトは、愛情を注ぎ、手塩にかけて創りあげたハーレクインエア国際線運航業務への悲しい別れであると共に、充分に育てた確信があっても未来に向かって旅立つ我が子を手放す親の不安と惜念にも似た気持もあり、それらが複雑に重なり合った心境だったろう。
「09・30ですね」出発時間の確認を繰り返すネイヤー航空機関士の声に、三宅機長はふと我れに帰った。
「え!?・・ああ・・」そして感傷的になっている自分に苦笑しながら、
「OK。アロハ!」と明い表情に戻り、クルーにエンジン始動前の計器点検(ビフォア スタート チェックリスト)を命じるのだった。
 関西グランド・コントロールから、全航空機へ空港の気圧が30・01メガヘルツに変わったことが知らされる。すぐ高度計の気圧目盛を30・01に合わせて三宅機長がコールした。

エンジン始動

ビフォアー スタート チェックリスト」(エンジン始動前の計器点検を始めます)
 点検が始まると機体についている赤いビーコンライト(衝突防止燈)が点滅を始めた。

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★「最後の飛行」挿入05

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★「最後の飛行」挿入06

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ビフォースタートチェックリスト
 エンジン始動前の計器点検が終わる頃、トーイング・カーに押されて飛行機は誘導路入り口に近づいていた。
 次はいよいよエンジン始動である。機長は地上整備にエンジン始動をインターホンで告げた。
グランド。コックピット。エンジンスタート 3、2、1
(地上整備へ。こちらコックピットです。エンジンを始動します。NO.3、NO.2、NO.1エンジンの順でまわします)
 DC-10は主翼に二つ、尾翼に一つのエンジンを持つ三発機である。機首正面から見て右がNO.3、左がNO.1、尾翼についたエンジンをNO.2と呼ぶ。
 三宅機長は凛とした声で第三エンジンのスタートを指示した。
NO.3 スタート」機長がスタータースイッチを入れる。
バルブ オープン」スターターバルブが開いて補助エンジン(APU)で圧縮された高圧空気が流入してエンジンローター(回転軸)が低い唸りを発して回り始める。ダウニングが確認してコールアウトする。
 スピーカーからユナイテッド810便へ管制官が離陸順位が三番目で、日本エアシステムMD-90の後を滑走路に向かうように指示する交信が流れている。
N2」エンジンのN2ローター(回転軸)比率ゲージの上昇を確認して機長がコールした。
フュエル オン・・・。フュエルフロー(燃料流入)」
 続いて機長は燃料レバーをONにしてエンジンに燃料を注入するとエンジンが轟音を立てて回り始めた。
ライド アップ 660」始動と共にエンジン排気ガス温度(EGT)が上がり、燃料流入量が660lb/hを指示していることを確認して機長とダウニングが報告する。
N1」N1ローター(回転軸)が上昇して機長がコールする。そしてN2の比率がエンジンのローター最大回転数の45%に達して再び機長がコールした。
45(%)
バルブ クローズド」ダウニングがスターターバルブを閉じた。
 クルーは計器を確認しながら、次々にエンジンを始動させる。
 力強いエンジン音が響き、飛行機全体に生命が宿ったように躍動感がみなぎった。
 スピーカーからはグランド・コントロールが地上走行を始めたユナイテッド航空810便に、続いてエアシステム525便へプッシュバックの指示。そして再びユナイテッド810便にディパーチャーコントロール(出発管制)118.2へ周波数を変える移管交信が聞こえている。
 ハーレクイン機は三つのエンジン始動を完了させるとトーイング・カーに押されたままで誘導路入り口についた。
グランド。コックピット。エンジンスタート コンプリーテッド」(地上整備へ。エンジン始動は完了しました)
ラジャー スタンバイ・・。コックピット。グランド。セット パーキングブレーキ
 三宅機長が地上整備にエンジン始動が完了したことを伝え、整備員の要請で再びパーキング・ブレーキをセットし、スタビライザー(水平安定板)を離陸に合わせて4.6の位置にする指示をした。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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航空ドキュメンタリー「最後の飛行」第2回 ハーレクインエアDC-10操縦室

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 ゲート1番に翼を休めるハーレクイン8673便DC-10の操縦室。
 スピーカーから関西空港グランドコントロールの管制交信が聞こえている。その交信のボイスに混じって三宅機長がウエイポイントをコールする声が響いていた。
「はい。ウエイポイント 1 ノース 34・23、0。 (北緯34度23分)、
イースト135・00、3。(東経135度00、3分)。NO2 ノース 34・16、8。(北緯34度160、8分)、イースト135・00、3。(東経135度00、3分)。NO3 ノース 33・54、6。(北緯33度54、6分)……」
 INS(イナーシャー・ナビゲーター・システムの略。自動航行装置)に入力された関西空港を離陸してホノルル空港に着陸するまでの飛行航路の全部で24の通過地点(ウエイポイント)の緯度と経度を確認するルーティング作業は、いつものことながら神経を使う。現在は出発前にコンピューターで目的地までのすべての通過地点データはダウンロードされ、その確認事項は最小になりクルーの負担も減ったが、INSが日本の飛行機に最初に搭載されたときは通過地点データはわずか8つのポイントの入力であった。そしてこのDC-10-30では改良されて24ポイントの入力が可能になっていた。
 飛行機はこのとき入力されたNO1からNO24の通過地点(ウエイポイント)の緯度、経度の数字を辿りながら自動的に飛行するので、仮りに間違った数字を入力すると飛行機はあらぬ方向へ飛ぶことになる。それだけに通過地点の入力にはひとつたりともミスが出来ないのだ。
 三宅機長とダウニング副操縦士は何度も確認しあいながら、延々と数字を確認する作業を続けた。
 出発前の準備にコックピットは多忙である。しかし、今日はその多忙さがいつのまにか脳裏からラストフライトであることの感傷を消して、第二の本能のように身についた仕事の手順が、三宅機長をいつものパイロットの精神状態に戻していた。
 ルーティング作業が終わると、今日の重量、離陸方式、目的地までの飛行距離、高度などのデーターを入力しその間に航空機関士がテイクオフ・データーを算出する。
 三宅機長がパネルから顔を上げて、右席にすわっている副操縦士のダウニングと後の航空機関士席に座っているネイヤーに声をかけた。
「テイクオフ ブリーフィング(離陸の打合せ)を始めようか」
 今日は操縦を三宅機長が、管制官との交信と操縦補佐を副操縦士役のダウニングが担当することになっていた。
 赤毛で長身のアメリカ人、ダウニングは五十八才でDC-10の機長の資格を持っている。一見、神経質とも思える繊細なタイプの彼は、アメリカ海軍からコンチネンタル航空に入り、ボーイング727の機長をえて、平成九年の夏にハーレクインエアに入社するまではハワイ航空でDC-10の機長として飛んでいた。飛行時間一万七千時間のベテランパイロットで現在もハワイ・オアフ島に住んでいる。
 フライトエンジニアのネイヤーはインド系のシンガポーリアンである。四十四才で昭和63年(1988年)から日本の空を飛んでいる。

コックピットのダウニングさんとネイヤーさん

 東亜国内航空(現在の日本エアシステム)にA300のフライトエンジニアとして入社し、平成九年にダウニング機長より数か月早くハーレクインエアに移り、DC-10のフライトエンジニアとして乗務をつづけていた。飛行時間は約一万二千時間だが、そのうち二千三百時間をDC-10で乗務しているベテランのフライトエンジニアであった。
 ネイヤーは明るい性格の持ち主で、その陽気な人柄は長時間、密室状態になるコックピットの人間関係を良い雰囲気にする。ダウニング機長のパイロットとしての技量と冷静な判断、その経験も頼りになった。
 ハーレクインエアのDC-10乗員部はわずか16名で運航を切り盛りしている。
 日本エアシステムの国際部門のチャーター便を請け合う航空会社として三年前に設立されたハーレクインエアは、持ち株の100パーセントを日本エアシステムが有する子会社である。その乗員部には三宅機長のように日本エアシステムから出向した日本人パイロットと、設立の時に採用した外国人のクルーがいた。
 ハーレクインエアにはMDー80を使って福岡を中心にした国内線のウエットリースをするセクションとDC-10を使って世界各地にチャーターフライトを飛ばせる国際線のセクションがある。
 三宅機長やダウニング、ネイヤーはDC-10乗員部に属し、この三年、ハワイやカナダ、オーストラリアやニューカレドニアそして東南アジアにも日を明けずに飛んだ。
 とくに1999年サッカーのワールドカップがフランスで開かれたときは、日本各地からサポーターを乗せて過密なスケジュールでヨーロッパを飛行した。
 その間で日本人クルーと外国人クルーには深い信頼感が生まれていた。
 ダウニングとネイヤーとは、三宅機長も幾度もチームを組んでお互いの気心を熟知しあった仲間であった。しかしそのダウニング機長もネイヤー航空機関士も今月末でハーレクインエアを退職することになっていた。
 その背景にはハーレクインエアーの、そして親会社である日本エアシステムが直面している経済的な事情があった。
 三宅機長は自分のラストフライトもさることながら、このハワイへのフライトが彼らにとってもハーレクインエア最後の乗務になることも、いっそう彼を複雑な思いにさせるのだった。
「オーケ、打合せを始めるよ」
 機長は身を半身にして後を振り向き、意識をフライトに集中させるように少し声を高めた。ダウニングとメイヤーがメモを用意してうなづく。コックピットにはいつもの阿吽の呼吸のような仲間意識が感じられた。三宅機長はひと息おいて英語で離陸に関する手順を話し始めるのだった。

関西空港離陸

「テイクオフ・ブリーフィング。今日の離陸は滑走路24からだね。滑走路上の風は320度から14ノット。右側からの横風。気温は10度で気圧は30・00(オクトパスカル)ですでにセット済みだ」
 飛行機の高度は気圧高度計で計るので、気圧は飛行機の運航にとって最も大切なデータのひとつだ。その基準となる滑走路上の最新気圧が逐次、管制官から航空機に知らされることになっている。
「滑走路は離着陸ともに24(240度方向、西南西を向いた滑走路のこと)を使用している。出発方式(SID、スタンダード・インストルメント・ディパーチャーのこと)はキタン・ワン(KITAN 1)デパーチャーで串本トランジッション(経由)だ。これもセット済みです」
 まず、滑走路24から淡路島に向けて離陸し、大阪湾の真中にある飛行地点キタン・ポイントの上まで飛び、和歌山市の沖合にあるトモVOR/DMEへ向けて左旋回し、御坊VOR/DMEから紀伊半島をかすめて紀伊半島の南端にある串本を経て太平洋に出るコースが今日、与えられた関西空港を離陸飛行する方式、キタン・ワン出発方式であった。
 三宅機長はマニュアル通り、万が一離陸時の事故を想定して話を続けた。
「離陸時にエンジンが故障した場合は、V1スピード以前は、私の指示に従ってください」 V1(ヴィ・ワン)スピードとは離陸決心速度ともいい、離陸を始めてこのV1スピードに飛行機の離陸速度が達していないときは離陸を中断することが可能である。V1以前にエンジン等の故障が発生したら、機長が「リジェクト テイクオフ」とコールし離陸を中止するアクションをとる。
 この離陸するスピードはそのときの飛行機の重量や滑走路の風の強さなどで決まるが、今日のV1スピードは146ノット、時速約245キロであった。そのスピードが離陸時に最も重要なものとなる。
 続いて三宅機長はV1スピード後で起こったエンジン故障の際のそれぞれ各クルーがとるべき行動を副操縦士とフライトエンジニアに確認した。
「V1以後の事故発生の場合はそのまま離陸してSID(空港が定めた出発方式)に従います。そして5000フィート(約1500メートル)まで上昇して、それからレーダー誘導を受け滑走路24にも戻り着陸する」
 それから…、と機長は航空機関士のネイヤーに尋ねた。
「燃料投棄する地点までは何分かかる?」離陸に失敗し再着陸をする場合は着陸時に発生するかもしれない火災を予期して、搭載している全燃料を機外に捨てなければならない。
「イレブンメネッツです」燃料に関する仕事は航空機関士の領域である。ネイヤーは即座に答えた。
「11分か。オーケー。レーダー誘導で燃料投棄地点まで飛び、此処へ戻る。いいね」
 最後に三宅機長は確認するようにふたりの顔を見た。そして副操縦士役と機関士が了解する様子を確認して「よし。プリパレーション計器点検(エンジン始動前に行う計器点検のこと)を始めるよ」と左角に置いた機長カバンからチェックリストを取り出した。

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★「最後の飛行」挿入01

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▼プレパレーションチェックリストの図

プレパレーションチェックリスト

 この飛行機、DC-10ー30タイプには計器の点検の項目が百以上もある。その中でエンジン始動以前に行うプリパレーション点検は、計器やスイッチ類の最も基本的な点検である。
 ダウニングがリストを読み上げ、機長とネイヤーがそれぞれ担当する計器類をすべて点検していく。
 以前、パンアメリカンのボーイング747のコックピットに乗った時、コックピット・クルーが計器点検をする声が耳にテンポ良い音楽のように響いた記憶がある。そのときパンナムの機長は「この計器点検のリズムがクルーの一体感と士気を高めるんだよ」と話してくれたことを思い出す。
 今、ハーレクインのクルーが行っている流れるような点検はきびきびとして、プロフェッショナルなクルーの、まるで出発前の儀式にも似て聞こえた。
 「ファイブミニッツ…いいですか?」
 点検が完了すると副操縦士役のダウニングが日本語で三宅機長に尋ねた。
 飛行機に燃料を搭載したり、乗客の荷物を積み込んだり、ケータリング(乗客やクルーの食事や飲物などを搬入する作業)など地上の仕事一切と乗客の搭乗、そしてコックピットのエンジン始動前の準備が終わると、出発という次ぎの段階に移る前に、クルーはクリアランス・デリバリー(目的地までの飛行計画を承認する担当管制)をする出発管制官に目的地までの飛行計画の承認を受けるために交信をしなければならない。その交信をファイブメネッツ・コール(出発五分前の交信)と呼び、航空機の出発の大切な確認作業となっている。
「いや、どうかな…」と機長が外を見て言った。
「まだまだ、乗客のボーディングが終わってないよ」とネイヤが開いたままのコックピットドアから客席を振り返って笑った。
 そのときキャビン・クルーに見守られて搭乗してきた車椅子の老婦人とその連れの女性の姿が入り口の側に座っているネイヤーの目に入った。
 老婦人はコックピットドアの外側の通路に車椅子を止めてクルーに挨拶をする。
「いいよ。いいよ」三宅機長が手を振って急に照れたように笑った。
「ああ、私の母ですよ。それと妻と娘…」
 彼女逹は父の、夫の、そして息子の最後のフライトに同乗するためにこのフライトに搭乗したのであった。
「よろしくお願いしますよ」
 車椅子の上から母は機長席に座っている息子に毅然とした態度で言葉をかける。それは新しい小学一年生の入学式で総代の挨拶をする小さな息子を心から誇りに思い、励ます母親の声のようであった。
 ああ、わかってるよ…と言わんばかりに、三宅機長は子供のようにうなづいて母親から無理に視線を外した。
 そのとき三宅機長は、この飛行が過去何千回と数かぎりなく飛んだ乗務のひとつではなく、特別の、大切な家族に見守られた特別な最後の飛行であることを新ためて身にしみるように感じるのだった。
 よし。ファイブメネッツ・コールだ。それから数分後、乗客のボーディングがすべて完了した報告をキャビン担当者から受けると機長は感傷を振り切るように、ダウニング副操縦士役に飛行プラン承認の交信を始める指示を出した。
 ダウニングがマイクを取って管制官を呼びかけた。

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★「最後の飛行」挿入02

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「カンサイデリバリー。ハーレクイン8673」
(こちらはハーレクイン8673便です)
「ハーレクイン8673。カンサイデリバリー。ゴー アヘッド」
(ハーレクイン8763便へ。関西デリバリー管制です。どうぞ)
 管制官の声がコックピットのスピーカーから聞こえる。
「ハーレクイン8763。スポット・ナンバーワン。トゥ ホノルル。フライトレベル330 ウィ ハブ インフォメーションD(デルタ)」
(ハーレクイン8673です。現在、スポットNO.1に駐機しています。ホノルル空港へのフライトで高度33000フィートを予定。最新のATIS(エアポート・ターミナル・インフォメーション・システムの略。空港の最新の天気や滑走路の情報)デルタを入手しています)
「ハーレクイン8763。スクォーク6013 スタンバイ フォー クリアランス」
(こちら関西デリバリーです。貴機のレーダー認識符号は6013です。そのまま待機してください)
 すでに運航課が管制機関に提出した飛行プランに基づいて発出されるクリアランス(承認)をクルーは機内で管制官から無線で受取る。その順番がくるまで待機するのである。レーダー認識符号を復誦してダウニングは無線を終えた。レーダー認識符号は離陸以後、その飛行機の識別標識になる。6013が便名と共に管制レーダーに表示されるのでその確認は重要となるのだ。
「カンパニーフリクエンシーはこれですか?」ネイヤーが機長に尋ねる。
「129・6(メガヘルツ)。イエス」と機長。通常、コックピットの無線交信は大別すると3つになる。ひとつは管制との交信だ。そのとき操縦を担当していないパイロットがこれを受け持つ。もうひとつは国際緊急交信である。この周波数は全航空機に同一のメガサイクルが与えられ、3個あるVHF無線機のひとつに常時設定され全員がその無線を傍受している。そして最後のひとつが、自分の所属する航空会社の運航部とつながるカンパニーフリクエンシーだ。この無線で運航状況を報告したり、逆に運航部からデータをもらったり、運悪く機内で病人が出た場合などの連絡に使用する。現在はエーカーズと呼ばれる無線に代わるメール通信機が搭載されているが、離着陸などの連絡はカンパニーフリクエンシーを使うことが多い。
「コールサインは?」ネイヤーが関西空港にある日本エアシステムのカンパニーフリクエンシーの無線呼び名を尋ねた。
「コールサインはカンサイだ」
「最終のウエイト&バランスを聴きます」ネイヤーは会社の運航課に自社の周波数で出発前の最終報告を聞こうとしていた。
 ウエイト&バランスとは離陸する飛行機には欠かせない情報のひとつである。それは飛行機の重心位置を測定したデーターで、その都度異なる乗客の数や貨物、燃料等の重量によって機体の重心位置が変わるので、すべての搭載が終わった出発直前に確認しなければならない。そのデーターは運航部のコンピューターが自動的に計算し、その数値が飛行可能な許容範囲にあるかどうかを算出している。

 ネイヤー航空機関士はマイクを取って運航課に連絡を始めた。
 話しはそれるが、航空機の発展とともにコックピットの乗員は少なくなる一方である。まず初めはコックピットから通信士がいなくなった。
 通信士の仕事は航空機の交信がモールス信号から音声交信に変わったことでパイロットが代行するようになった。
 次ぎは航空士である。ダクラス6Bや7Cのプロペラ旅客機の時代、コックピットには機長、副操縦士、航空機関士以外に、航空士(ナビゲーター)と呼ばれるクルーがコックピット乗員に加わっていた。
 航空士の仕事は飛行機の現在位置を測定し、そのときの気象状況を加味して目的地までの正確な航路や到着予定時間などを算出し、操縦に必要なナビゲーション・データーを機長や副操縦士に提供することであった。

 操縦席の天井に小さな窓があり、飛行中、彼らはその窓から何度も六分儀や八分儀などで星を天測し飛行機の現在位置や航路を測った。ジェット旅客機の時代になっても第一世代といわれるボーイング707やダグラスDCー8などの初期のタイプには操縦席の天窓が残っていて航空士が乗務していた頃がある。日本航空のDC-8の名機長として有名だった松尾さんに航空士の面白い話を聞いたことがある。航空士は普通、コックピットのいちばん後に黒いカーテンで囲った場所があり、その上に天窓があってそこから天測をしていたそうであるが、その航空士は人嫌いか、孤独を楽しむタイプだったのか、離陸から着陸まで一回もその黒いカーテンから出てこないで、位置報告のポイントがくると黒いカーテンから手がにゅーと出てきてその後の進路や位置を手書きで書いたメモをクルーに渡したそうである。それを羽田からサンフランシスコまでくり返し、結局、飛行機を降りるまで松尾さんは航空士の顔を見なかったという。コックピット・コミュニケーションを重んじる今では信じられないような話である。

 航空士の仕事はその後、ロランや慣性航法システムの発達でなくなり、以後コックピットは三名の乗務に変わる。
 そしてボーイング747-400、767、777などの第四世代の航空機では、機長と副操縦士の二名乗務が普通になり、現在、航空機関士(フライトエンジニア)の仕事はコンピューターが代行している。

 航空機関士は飛行操縦技術とは別の高度な航空機の知識や経験が必要とされた。出発前には前述のウエイト&バランスや燃料搭載の管理など、飛行中は燃料を始め各システムの維持や管理を行う飛行に伴うメカニックな側面を仕事とする。
 プロペラ旅客機の頃は航空機関士は地上整備員の延長と考えられていた。すなはち整備員がコックピットに同乗していたのである。しかしジェット旅客機の時代になってからは地上整備とは別の職種となった。その後航空機関士専門職という人たちとは別に、セカンド・オフィサーと呼ばれて航空機関士を副操縦士になる過程の仕事とする航空会社も多くなった。
 ただ、パイロットのステップではなく、たとえばネイヤーのように専門の航空機関士は、パイロット人種とはかなり異質で、どちらかと言えば博学な学者タイプも多かった。例えばルフトハンザ航空には航空機関士の仕事をしながら、宇宙工学や機械工学などの博士号を持った人がいたし、フライト業務がないときは大学で生物学の講義をしているというオランダ人の航空機関士にKLMのフライトで会ったこともある。。
 ネイヤーが運航課と連絡をしているとき、「ユナイテッド810 クリアランス」と関西デリバリーの管制官がサンフランシスコへ向かうユナイテッド航空810便の飛行プランを承認する交信が聞こえた。

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★「最後の飛行」挿入03

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「ユナイテッド810 クリアー トゥ サンフランシスコ・エアポート、ヴィア トモ2ディパーチャー クシモトトランジション ゼン フライトプランルート メインテイン フライトレベル310、メインテイン12000フィート アンティル ファーザー アドバイス。ディパーチャーフリクエンシー ウィルビー 119.2 ゴーアヘッド」(ユナイテッド航空810便へ。サンフランシスコ空港までの飛行を承認します。トモ第二出発方式で離陸後、串本経由で巡航高度31000フィートで飛行して下さい。しかしこちらから指示するまでは飛行高度12000フィートを保ってください。出発管制の周波数は119.2メガヘルツの予定です。復誦願います)
 飛行プランの承認(クリアランス)を無線交信で受領したユナイテッド810便が、管制官の指示を繰り返す。
「ユナイテッド810。リードバック イズ コレクト。コンタクト グランド121.6」(ユナイテッド航空810便へ。復誦は正確です。以後は関西グランドコントロール121.6メガヘルツと交信願います)
 次ぎに関西デリバリーの管制官がハーレクイン機を呼んできた。
「ハーレクイン8673。ウィ ハブ ユア クリアランス コピー」
(ハーレクイン8673便へ。飛行計画の交信をします)
「ハーレクイン8673。ゴーアヘッド」(こちらハーレクイン8673便です。お願いします)とダウニングが答える。
「ラジャ クリアー トゥ ホノルルエアポート ヴィア トモ2ディパーチャー クシモトトランジッション ゼン フライトプランルート メインテイン フライトレベル330。メインテイン フライトレベル12000フィート アンティル ファザー アドバイス。ディパチャーフリクエンシー ウィルビー 119.2 ゴー アヘッド」
(ハーレクイン8763便へ。ホノルルエアポートまでの飛行計画を承認します。トモ第二出発方式で離陸後、串本経由で巡航高度33000フィートの許可します。しかしこちらの指示があるまで高度12000フィートを維持してください。関西出発管制の周波数は119.2の予定です)
 ダウニングが三宅機長の指示で確認の復誦交信すると、
「ハーレクイン8673 リードバック イズ コレクト コンタクト グランド121.6」と管制官は、以後はグランドコントロール、周波数121.6とコンタクトするように指示して交信を終えた。そして飛行機のすべてのドアが閉じられた。いよいよ、プッシュバックしてハーレクイン8763便はゲートを離れる時間が来た。

つづく

武田一男

航空ドキュメンタリー「最後の飛行」
解説 桃田素晶/録音 武田一男 ©Director’s House

【著作について】「最後の飛行」収録している音声、音源は武田一男、及びディレクターズハウスが著作権を保有しています。商用、非商用に関わらず無断転載、複製の一切を禁止いたします。詳細については当ブログ管理人までお問い合わせください。

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